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白紙は与えられた

 ここ最近は新人賞へ向けた中編小説をひたすら書いている。学生時代のラジオドラマと、組み立て方は変わらない。おおよそ大枠となるようなプロットを作る。それを一度くしゃくしゃにしてしまって、残った骨組みをもう一度組み立てていく。それを何度か繰り返して、ようやく物語を書けるようになる。あとはもうフィーリングである。感じたままにセリフを書き、情景を描写し、レトリックを当てはめていく。しかし小説は長い。ラジオドラマは最長でも25分程度のものしか作らなかったし、間に曲を挟むのが大好きだったから、ドラマパートは結局15分程度しか無かったのではないか。しかし書きたいことを全部書きたい、長いものが大好き、重すぎるくらいがちょうどいいという思想を持つ人間にとって、唯一の舞台はおそらく中長編の小説なのだ。

 noteですら、最近は短文をチョキチョキと切って貼ったみたいな文章が散見され、それらにスキが集まるようになった。物事のTikTok化は深刻で、私のような人間の居場所は狭まる一方だ。今の国語の教科書、改行が多くなっていたらどうしよう。純文学のことを教えていなかったらどうしよう。

 人生は長すぎやしないかと嘆いていた矢先に同期が死んだ。突然死だったそうだがポータルサイトのおくやみ欄に顔を知っているどころか何度も言葉を交わし、何かしらの感情を抱いたことがある人物の名前が記載されているのはあまりに現実味が無かった。1年は会っていなかったか。最後に会った日。おそらく会話を交わしたのもその時が最後。何を話したかは覚えていない。たまたま彼が事務所を訪れた際にフロアに顔を出してくれて、少し話した。難しい病気をしていたことは知っていたけれど、同期グループの通話で唐突な夜の話を挿入してみたりだとか、そういう無神経さにずっこけたりしたけど死なれちゃ溜まったもんじゃないよ。あんまり名前を呼んだことすらなかったのに、独りでいてそのうえで訪れる静寂を打ち破るように彼の名前が口をついて出る。なんのために?

 香典の扱いについて、話し合いを着々と進めていく同期のグループLINEを横目に特に何もできず決まったことに賛同するしかできなかった。そのLINEの中にまだ彼のLINEはある。感情を排し、どんな時でも冷静でいたいのだが肝心な時にそれを失い、何もできなくなってしまう。大事なところで取り乱して心にないことを言ってしまう。LINEじゃなかったら危なかった。よく知っている人間が最後に亡くなったのは6歳ごろに経験した祖父まで遡る。死を実感として捉えることができない。会えなくなったことを受け入れるように空に名前を投げ打っても再び会うことはかなわない。それでも何度も名前を呼んでしまう。そしてその声は物質として自分の少し前に弧を描いて落ちてしまう。

 物語を書き進めていく。これまでの私の小説の登場人物はみんな他者との距離を取ってしまう人たちだったけれど、今回の彼らや彼女らはそれなりに距離を詰める。そして人に巻き込まれる人生を選ぶ。何のために物語を書くのか?どう考えてもそこに人生を映そうとする行為だ。人生を映してどうしたいのだろう。でも確かにこれでしか書けないものがある。エッセイではどうやってもできないことを私はいまやろうとしているようだ。

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