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舌を噛む

 サシ飲みに舞台装置は存在しない。マッチングアプリに手慣れてしまった私は、今日で会うのが二度目の人とサシで飲むことは小説の中以外では褒められたものではないことも忘れ、自らの悩みを吐露していた。二年前のあの日桜並木を見て、京都にも桜があるのに「これが東京なのだ」とスタンプラリーを回るように嚙み締めた中目黒は、今となっては「渋谷から東横線に乗ったはずなのに実は副都心線→日比谷線で降りたことになってメトロ価格になっている!」と言う気付きを与える、ひどく生活感を放つ街に成り代わっていた。下北沢や渋谷のように絶えず物理的な変化を見せる街も確かに存在するが、たいていの場合街の変化というものはそれを見る側の心持や環境の変遷によりもたらされるものなのだ。

 「人への寄り添い方が何一つわからなくなってしまった。傷ついた人には寄り添うことしかできないと俺は思っていたけれど、みんなそのハードルを簡単に飛び越えて、『それもいい経験だったと思って、笑い飛ばせるようにならなきゃ』とか言ったりするんだ。少なくともその場で吐かれるべき言葉ではないし、俺が仮に彼の立場でそれを言われたら多分泣いちゃう。悪気がないことはわかっているんだけど」

「本当にひどい話だと思うけれど、わからなくもないかもしれない。私はいま誰かの人生を思う余裕がない。余裕がない時、人を助けることはできない。だから自分を助けようとする。その人は自分が助かる言葉を言ってる。私も正直、そうしてしまうかもしれない」

 人に寄り添えないことに寄り添うこともまた難しいものだと思った。そんなのだめだよと言ってしまえば「笑い飛ばせ」と言っていた彼と同じになってしまう。かといって踏み込むことは何か違う。行政からの指示に従っているのか、私はすっかり人と距離をとるようになってしまった。スクランブル交差点でハロウィンと勘違いするほどの人混みの中にいて、行き交う人と物理的な距離感を縮めても心は何一つ見えないように。助け合って手を取り合って生きていこうというメッセージは、誰かの心に土足で踏み込んでいきましょうといういびつなものに思えてならない。

 彼女は、食べるとすぐ出てしまうという膨らんだ腹部を服越しに見せつけてきた。なるほど膨らんでいて、食べ物には確かに、人間の中で重みとして存在する時期があるのだということを実感させられる。私は親知らずを抜いたことにより若干変わったかみ合わせに違和感を抱きながら、口の中でそれぞれの器官を動かした。

 そして、舌を噛んだ。「痛っ」と声が漏れる。「大丈夫?」と彼女。「悲しい」と私。市井のレベルで起こる舌を噛むという事象は基本的に命に絡まない。ティッシュペーパーを当てるとしっかりと出血していることがわかるが、それでも些細な傷である。しかし、悲しい。ここから約1日ほど、歯に舌が当たるたびに、舌を噛んでしまったことを思い出す。ものによっては滲みてしまう。鏡で見ると確かに傷になっていることがわかる。

 悲しい。ずっと悩んでいることを吐露した後に舌を噛んでしまうこの一貫性のなさを憂う。こうやって様々なことが重なりに重なり、小さな悩みは記憶の樹海の眼には見えないどこかへ放り投げられていく。生きる中で時に樹海を歩くような心持になり、その時に再発見して再びそれが取りつくこともあるが、再発見されることは稀なことだ。きっと1年後にはそれは悩みではなくなる。たとえ明確な答えが出ていなくとも、歩みを止めない暦の中で私たちは呼吸をしている。吸って吐いてを繰り返していたら、そこから零れ落ちるものも確かに存在するのだと、納得がいくこともある。

「お冷もらう?」と彼女が聞いてくれる。人のことを考えられないなんてものすごい嘘をつくんだな、と思う。その人の今に寄り添うたった一言を出せること、それが真の思いやりであり、彼にも私にも欠けていることなのだね、と妙な納得をして、私はうっかりおしぼりを口に当ててしまい少しだけそれを赤く染めた。地球が初めて生命に血を巡らせようとした瞬間を考えたが、すべてが偶発的な出来事過ぎて、私も彼女も中目黒の桜も、すべて何もなかったところに突然現れたのだと思うことで、私はお冷を冷静に飲むことができた。そして苺果実酒1杯でしっかりと酔い始めた彼女を再び見つめた。

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