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小説 『ガスタンク揉ませてたまるか』

 2階建ての駅のホームから、幾つか建ち並ぶ4階建てのマンションを通り越し比較的近くの空を見たら、夏フェスの夜を思い起こさせるようなオレンジに照らされていてあれは何だろうと言ったら、国道を照らすオレンジの光だと教えてくれた。それだけであんなに色が変わるの?と聞いたらロードサイドの夜は真っ黒なキャンバスだからと、少し洒落た言い回しをしてきて腹が立った。私は22歳でキミは19歳。私はひょっとすると、日本の年功序列社会を喜んで受け入れてしまうかもしれない。

 腹が立って、「ガスタンク、デカい」と言うとキミは「おっぱいみたい」と言って急に19歳、いや13歳くらいに戻った。「あんなに大きかったら揉めないくせに」とキミの小さな手を握った私は2個上のお姉さんだった。「あれくらいのおっぱいを鷲掴みにして寝るのが夢なんだぁ」と言うキミが提げているカバンには京都大学の赤本が入っていて、キミは本能と理性を行ったり来たりしていた。私は訳がわからなくなったけど、予備校生の手を握る2個上のチューターというのもまた、本能と理性がごちゃ混ぜになっているね。

 「2つあるガスタンクを揉みたい」とキミが言った。「知らんけど、北千住とか行ったらあるんじゃない?」と突き放す。「じゃなくて」というキミはまた13歳だった。「バイト代出るまで、待って」「悔しい」何が?

 京大総人のB判定が出た。そう言って喜ぶキミとの帰り道を思い出した。夏の終わりのことだった。今はA判定になっている。浪人生ってちゃんと努力を積み重ねるんだね、私の周りにいる一浪の同級生はみんな、サボって滑り止まった人たちばっかりなのに。その時私は上智はA判定が出てるよ!と大きな声で言った。そうだね、とだけ答えるキミに優しさを感じているうちは私が恋しているんだろうな。4年生になった私が、学内でキミを見かけてキザに笑う姿を想像してしまったよ。そうなったら、キミにとって不幸でしかないのにごめんね?

 もう一度遠くに目をやる。さっきほど、その景色に魅入られなかった。前までよかったと思っていたことが、何も良くなくなってしまう。つまり私たちは、同じような日々を何度も何度も繰り返している。朝のバタートーストやチーズトーストだって初めて食べた時はもっとおいしかったけどいつしかそれが当たり前になっている。好きな曲を再生しすぎて、半年後にはプレイリストの下の方においやっている。好きな人だった人はいつしか自分と同じ、細胞のかたまりであることに気がついて、あとはその細胞を愛し切れるかどうかを試されていること。キミが揉みたいと切望するそのガスタンクもいつか、揉み飽きる日が来て、その時に真価を試される。

 「京都行ったら」「は?まだ受かってないだろ」「めちゃくちゃ手紙書きますよ」「LINEでいいよ」「LINEじゃ粋じゃない」それは、粋であるために私に手紙を書くということ?霧雨が時々ホームに入ってきては、肘や服を濡らしたが決して気になるほどではない。

 「真冬先生のこと」「私はチューターだから真冬さんにしなさい」「真冬ちゃんのこと」背筋がぞくっとして、なんでもないはずの秋の風がひんやりと頬に当たって髪の毛が少し耳を掻いた。「一生忘れません」と言いながら遠くのガスタンクに向かって腕を伸ばしグーパーグーパーしているお前は本当に矛盾だらけでいいな。

「今日は帰るの?」
「うん、大事な時期だしね」
「そっか」

 私は14歳だった。私は今ここにいる私でしかなかった。遠くの未来に私の分身を何人も送り出せたらよかった。甲賀忍者は影分身とか教えてくれるのだろうか。上智を中退して京都大学に行ったらいくらくらいかかるのだろうか。かぐや姫みたいな幻想から資本主義まで思いを巡らせた挙句、私は彼の右手に千円札を握らせて、狙い澄ましたように、背後に来ていた来た電車に飛び乗った。

「え、何何」
「キミが帰る前に私が帰るから、ガスタンクはまた今度ね」
「あ、あーはい、もちろん」

 卒業まであと5ヶ月くらいだね。この時期から数えている人はあんまりいないね。電車の中には数えるのも厭になるくらい人がいて、その人混みの中を私の目線は必死にかき分けて、キミの姿とその先のオレンジ色をもう一度捉えた。

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