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『初恋の悪魔』

 こんばんは。坂元さん好きといいつつ、「大豆田とわ子」は見たくせに「初恋の悪魔」は見ていない人の8割が「坂本さん」と誤植している説を提唱している者です。そんなこと、すんな。

 「初恋の悪魔」観ましたか?そこの「さすが坂本脚本、名言しかない」と表記するあなたですよ、ド偏見ですがドラマ公式アカウントの中の人はプライベートで「坂本さん」と書いてそうです。ごめんなさい。好きという気持ちに誤字も正字もありません。本人絶対許してくれるやつですこれ。でもね、本作は特に「坂元裕二名言集」に収録されそうな言葉が多数飛び交っていました。そんなあなた、あなたがとても楽しくなれる作品ですからHuluとかTVerとかツタヤとかなんでもいいです、とりあえず見てください。「花束」とも「大豆田」とも全く違うけれども、「いつ恋」や「カルテット」とどこか通じる世界がそこは広がっていますから。

 しょっぱなから恨み節になってしまいました。だって身の回りでこの作品語れるの母しかいないんですもん。大豆田一緒に実況していた友達も多分見てないし。語れる方いらっしゃったら語らいあいましょうね。私は今作の「しょくぱんマンのばんそうこう」みたいなディテールがやっぱり好きでしたよ。あんなセリフマジで坂元さんしか書かない。そこ拾うか?というディテール。もしかしたら生活していてもスルーしてしまう部分かもしれない。しかしそれを見つけた方が楽しいし、口に出せばもっと楽しい。そうやって坂元作品の中の登場人物たちは愉快な会話を繰り広げている。ある種会話劇ファンタジー、だから私は好きなんです。鬼のディテールに、一周回ったフィクションを見ているのです。さて下記、Filmarksに投稿した内容の推敲版となります。ネタバレ必至。「悪いオタク」出てます。

 最終回後の雑感。鹿浜さんのことも総務課総務係の馬淵さんのことも小鳥さんのこともつみきっつぁんのことも森園さんのことも大好きだし、何よりまだ見ぬ誰かとの出会いに期待しながら、自分自身を大切にすることが大切なのだと説きつつ、二重人格のつみきっつぁんを同時に描き、分人主義の考え方にも触れており、相変わらず素晴らしい筆致だと思った。なんかの記事でも書かれていたようだが、作家・平野啓一郎が提唱する分人主義という考え方はこの作品の理解をかなり助けるのでご一読いただきたい。本筋の事件系の話はともあれ、哲学的な面に重きを置いた作品で、これまた稀有な作品だ。

 そんな具合に、どちらかというとローなテンションで語りたい作品である。「大豆田」はとにかく東京という街の華やかさが描かれていたように思えたが(俗にいう「エレガントな」)、今作は一人一人の心の中を覗くような、半径の狭い物語だ。それにドラマ性を持たせるためのミステリ要素——そう「要素」のレベルでしかなかった。そういう作品であることをわかるべきだし、「カルテット」でも「事件...」と思っていざ翌週を迎えてみたら、その内容は10分程度で終わり、あとはひたすらに人間同士が描かれタイトルバックもそのころに入っていたりしただろう。坂元作品ではいつだって誰かの会話の中に事件が横たわっている。※とはいえ、9話の「人を殺してはいけないんだよ馬鹿者!」は本当に良かった、何かと理由をつけて凶悪犯罪に走る同世代が目立ってきている今、坂元さんが明確な怒りのメッセージを森園さんに託した。安田顕さんめちゃくちゃいい役者...と胸打たれた。

 という側面もありながら。まさに分人的な話であるが、公式アカウントのノリが物語るようにあざとさが散見される作品でもあり飲み込みに苦しんだところもあった。先述したように、ときどき坂元裕二名言集ベストアルバムみたいな瞬間があって「大豆田とわ子」を10周程度している筆者の胸に明らかな名言は響いてこずまずかった。どっちが悪いかはよくわからない。

 そもそも、坂元裕二は「名言」だけではなくディテールやレトリックに凄みがある作家だと思っている。(「花束」のパンケーキ→タピオカのレトリックは白眉)ただこれは主観でしかなく、世間的には前者で語られることが多い。前者の文脈にのっとった公式アカウントは、満島ひかりの出演を放送前に告知してしまう。そもそもこの満島ひかりのキャスティングも、賛否半々の気持ちでいる(チェロの主演作、いつかなあ)。

 「大豆田とわ子」の大成功のあとの本作。日テレもぜひそこに乗じたい、けれども「大豆田」の成功は佐野亜裕美プロデューサー(※「カルテット」、「17才の帝国」ほか)の功績が非常に大きい。作品全体の行き届いたディレクション、主題歌のために「水ダウ」の藤井健太郎プロデューサー(他局!)だって招いてしまう。第一話でボウリングをしストライクを決めるKID FRESINO!そういうのを見た1年後にライムスターをフィーチャリングしていても、どうにかラップ入れましたよと思っていませんか?とか考えてしまう。邪推だけれども。だってKids in Parkとリリックもフロウも似たようなのやってるんだもん... 「六本木クラス」にしてもそうですがやっぱり画にこだわらないのが通常日本ドラマなのかな?「梨泰院」の魅力は抜群の画の美しさなんですけどね。なんかそういうことを節々で感じてしまったところはあります。率直に言って。

 ――「名言集」。しかしその分、久々に坂元さんらしさを堪能できる作品だったように思える。「花束」はそういう話だし仕方がないけれど、話が進むにつれ麦くんが家父長的日本男児に変貌を遂げてしまうので、坂元作品の登場人物にしてはおもんないやつと化し会話劇に面白さを見出せず(絹ちゃんはユーモラスだったし「ゆずのクオカード全部売っちゃったんですよ」とかはさすが)、「大豆田とわ子」は佐野Pが坂元脚本を舞台装置の一つとして使いこなし(本当は脚本とはこうあるべきなのだろう)、海外に通用するエレガントなドラマを作る試みがなされていた。「いつ恋」に近い作風のように思える。坂元さんがいつにも増して本作は優しかった。孤独に寄り添う…というよりは各人が思う人生を生きることへの寄り添いというか。坂元さんの優しさと救いに満ちた言葉たちはやっぱり私たちの心の中で生き続けるの…と矛盾を抱えた思いがここにあります。

 そういう意味でやはり鹿浜鈴之介がたどった道というのは美しく、ダイジェストで紹介される程度だった「大豆田」の中村慎森の変化と違って、物語の主題となっていた。「ありがとう!僕はもう大丈夫です!」消えゆく星砂にとっても鈴之介自身にとっても救いとなる言葉である。誰かに言われる「素敵」という言葉、ともに過ごした時間。「分人主義」になぞらえるならば、鈴之介にとって星砂と過ごした時間=星砂に対する分人は彼女が消えてしまっても影響を与え続ける。そうやって鈴之介自身の人生を構成していく。坂元さんがずっと書いてきたことが、これまでよりも明確な形でつづられているように思う。ミステリと銘打たれつつも、人間の中に残る思い出というものも主題に置かれている、そういう二面性のある作品であったなあ、充実...というところに尽きるのでした。

 いろいろ書きましたが、5話のカラオケシーンが至高!「クレイジークルーズ」楽しみにしてます。



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