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相対化の作法:私たちが「宗教」に陥らないための。

■今回は、次年度版『ぷらほ入門』編集委員会の進捗状況について書く。4月に発足し、「冷静の情熱のぷらほ(仮)」企画としてスタートした編集会議は、7月末現在、15回を数える。毎回、編集部員それぞれが企画案を持ち寄り、全員でそれを議論。ときには厳しい批判がでることもあるが、企画をより公共的なものにしていくためには、これは不可欠の熟成作業である。回を重ねるごとに、編集部の人たちの目線が「編集者」としての様相を帯び始めているのが頼もしい。

■この編集会議は、メンバー有志5名を編集委員として構成されており、そこにスタッフ代表として自分も参加している。もちろん、主体はあくまで編集委員の彼(女)たち。自分の役割は、これまでの編集経験から自分が体得したあれこれを「参考資料」としてネタ投下することにある。とはいえ、「編集」という営みに関わるあらゆることを貪欲に吸収しようという彼(女)らの真剣なまなざしを受け続けていると、そうした「体験談」だけでは申し訳なく思えてくる。

■申し訳ない、というだけではない。ある特定の価値大系に基づく「体験談」が、「唯一の正しい方法」としてそれを聞く人びとに受容されている、そのような人びとどうしの関わりの形を、わたしたちは「宗教」あるいは「信仰」と呼ぶ。「宗教」の内側で、「他人の信仰」を押しつけられて生きるのは苦しい。学校でも会社でも地域でも、この手の「信仰」は繁茂しているが、そうであるがゆえにこそ、「ぷらほ」ではそうした関係性のモードを前景化させたくはない。

■ではどうするか。ひとつの方法は、「成功例」を語るわたしを相対化することだ。先々月よりわたしは、福島市内の学習センターに委託されて、福島市のある居場所運営団体スタッフの人びととともに、まちづくり系の人材育成を目的とした市民講座(月1回)をコーディネイトしている。この市民講座に編集部員2名が毎回参加している。「成功例」を語るわたしが、実際の仕事の場面で「失敗」している場面を目にすることは、彼女らのまなざしの相対化にもつながるだろう。

■「与える側」に必要なのが上記の作法だとすると、「受け取る側」にも必要な作法がある。それは、ものごとを意識的に疑うクセだ。通例の用法ではないが、わたしはこれを「半信半疑」と呼ぶ。どんな人の言葉も、自分にとって正しいのは半分で、残り半分は怪しいもの。ということはつまり、どんなにすごい人の言うことだって半分くらいは誤りの可能性がある。かといって、誤りは黙っていても絶対に見つからない。探す意識と訓練とが日常的に必要なのだ。

※『ぷらっとほーむ通信』052号(2007年08月号) 所収

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