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評価するスタッフ/評価されるスタッフ。

■前回、ぷらっとほーむの「ヒドゥン・カリキュラム」(そこに所属する人びとが従うことを求められる暗黙の規範)として、「変わること(変革、変容、成熟、向上など)が良いことだ」という思想が存在しているように思う、と書いた。方向性や目的地はその人次第だが、とにかく「現在の自分(やそれを取り巻く環境)を新たな自分(やそれを取り巻く環境)に更新したい」という欲望において共通する物語を選択した人びとの緩やかな共同体、それが私たちなのではないか。

■とはいえ、スタッフである私が、単なる「喫茶店」でしかないはずの居場所を利用する人びとに関して、その人その人の時間の蓄積のしかたを「成熟」や「向上」、「成長」などと上からの「見下し」目線で記述するとすれば、そうした振る舞いに対し、そのように評価され価値づけられた側の人びとによるさまざまな異議申し立てを覚悟しないわけにはいかない。それは、私たちが忌避し続けてきた「不登校から立ち直る」的な言葉づかいと何ら変わらないためだ。

■矛盾にも見えるこの「見下し」目線の言葉づかいを、私は次のように理解する。「成長」「向上」などと言ってもそれは、恣意的な基準(例えば「心理学」「教育学」が規定する「発達段階」など)を外から押し付けようというものではない。行き先も手段も速度も、その人自身が決めるべきこと。「成長」「成熟」と言った言葉の定義権は、当然ながらその人自身に帰属する。したがって、その人自身が許可した限りにおいて、他者はその人についてその言葉を使いうるだろう。

■とはいえ、そうした条件つきであっても、スタッフが「見下し」目線だという事実は残る。もちろんそれは本意ではない。そこでこう考えたい。私たちスタッフが居場所の物語を生きるために「見下し」目線を取るのだとすれば、同じ目的のために、利用者がスタッフに対して「見下し」目線を取ることも認める。それは、スタッフもまた「未成熟」「未完成」「成長の余地あり」と認めることだ。絶えず新たな欠落を自らの内に探り続ける「青年」的存在であり続けることだ。

■「ともに成長していく(ための場をともに創る)」という同じ目的を共有したうえで、その目的を達成するために、お互いをお互いの評価的まなざしに対して開いておくということ。「お互い、成長したよね」と笑いながら言い合えること。「成長」「成熟」を居場所において語ることが可能だとするなら、それは上記のような条件が整っている場合のみであろう。こうした双方向性の確保は、居場所スタッフの「権力」を相殺し、中和することにもつながるはずだ。

※『ぷらっとほーむ通信』047号(2007年03月号) 所収

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