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どうしてこんなに疲れるの?――ビョンチョル・ハン[横山陸訳]『疲労社会』(花伝社、2021年)評

ある日いつもの書店で、『疲労社会』、そして『透明社会』(守博紀訳、花伝社、2021年)というシンプルだが聞き覚えのない語彙の冠された、厚くない二冊セットの本が並んで棚にあるのを見つけた。著者名からコリアンの書き手であることはわかったが、聞き覚えのない名前、ということでチラ見してすぐ棚に戻した。後日、後者の訳者解説を読んでようやくわかったが、著者はドイツ在住コリアンの哲学者(1959年生まれ)で、ハイデガー研究を軸に27冊の単著をもつ非常に多産な著作家だが、邦訳が出たのはこれがはじめてという。道理で聞き覚えがなかったわけだ。

本書は、そんな著者が国内外に広く知られるようになったきっかけの一冊で、20か国以上で翻訳され、ベストセラーになったもの。もともと、日本でいう新書のドイツ版のようなシリーズの一冊として2010年に刊行されたそうで、このコンパクトさやわかりやすさはそれゆえのもののようだ。2010年といえば、リーマンショックとその余波がいまだ冷めやらぬころ。日本では各地で「派遣切り」が生じ、住まいを失った非正規労働者向けの難民キャンプであった「年越し派遣村」が世間に衝撃を与えたのが2009年。足元の貧困がようやく直視され始めた頃合である。

本書がテーマとして照準するのは、うつ病やAD/HD、バーンアウトなど、現代社会が抱えるさまざまな「こころの問題」とその背景にある社会の規範/構造である。その規範/構造とは、著者によれば、(否定性ではなく)肯定性をベースに構成されているもので、私たちはそのもとで「あなたたちならやれるよ」「もっともっとがんばろうよ」と絶え間のない能力の開発と発揮、そしてその成果とを求められる。そこにあるのは際限のない自己搾取で、上記の病理はそうした搾取の帰結である。「疲労社会」とは、そうした社会のありように著者が行った名づけである。

おもしろいのは、そうした概念の析出が、現代思想の概念群――例えば、フーコーの「規律社会」、アーレントの「活動的生」、アガンベンの「ホモ・サケル」――を再検討する中でなされていることだ。著者の批判は、彼らが依然として現代社会を否定性の相で捉えていることに向けられている。だが、問題を捉え損ねれば、対策も無効となろう。本当にヤバいのは他者による搾取なのではなく、自己自身によるそれなのだ。「Yes, we can!」の無限地獄。この認識から、ではどんな処方箋が描かれることになるか。それは、実際に本書を読んで確かめてみてほしい。(了)

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