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解説と考察の「罪と罰」

2019年10月から「進撃の巨人」の感想をYoutubeで何百本も語ってきている。何度読んでも違ったところに発見がある。こういう作品を強度があるというのだろう。
※あと10年は忘れられないと思う@エレン


難しい話を解説という体をとり、つなぎ合わせ、解釈を挟むことで、人々の理解に多少は貢献できたかなと思う。
さらには、考察という形で、見落としがちなところに着眼し、感性で受け取っていたところを言語化したりもした。これは個人的にも楽しい作業である。

「なんとなく読んでいたけど、面白さに気づいてハマった」という声も100件以上もらったし、友達に布教できたような喜びが私にもあった。


一方で、公式ではない個人の主観を交えたまとめ作業の「罪」というのもあるな、とも思う。

まず第一に、ウケ(再生数・PV数)を狙って、キャッチーなことを言って人の目を引いて、都市伝説的なものを流布するのは避けるようにしてきた。作品の誤読をあえて誘ってはいけないな、と。ここには抵触しないよう心がけているつもり。


自分としては、あくまでも「自分が正しいと思う作品の読み方」を伝えてきた。しかし、それすらも1ファンから見た視野の限界がある。表現力の限界もある。そもそも言語+絵で表現されている次元のものを、言語化された空間に落とす行為の限界もある。だから「正解」は当然ながら出すことは出来ない。

ただそれはあくまでも「正しさ」からの乖離の問題で、ある程度は仕方ないかなとも思う。


一番の問題というか「罪」は、「読者が自分の視点を持つことの阻害につながる」ということ。

あくまでも作品と自分との恋愛にも似た関係なのに、そこに茶々を入れる口うるさい同級生の友達みたいな存在が私である。

人は、知らずしらず影響されてしまう。

「この物語はこういうものだ」と正解らしきものを頭に入れると、何も考えなくなる。別の場所に目を向けなくなることはもったいない。

そもそも伝えるということ、伝わったという幻想は、視野を狭めることと、表裏一体な話でもある。

とはいえ「興味が薄い」状態から「おもしれーじゃん!」になったほうが幸せだとも思う。ので、自分が書いた不完全なマニュアルもセットにした布教行為は間違いないと思いたい。


そして、罪には罰を。

自分自身の言葉で、自分の考えが固定化されてしまう問題は、私にも関係している。それは作品に対しての見方を外部に発信する人間の罰だ。

心理学の実験でも、人は何か意見を言ったときに、それを正当化してしまうという結果があったはず。だから、私は服の買い物に行ったときに「どちらがいいですか?」という質問に身構えてしまう。自分の発言にも、本当か?と疑う負担を常に背負っている。

「この作品はこうだよ」と言った瞬間、自分が規定されてしまう。


しかし、それ以上に、願わくば作者から罰せられたいという気もする。「きっと裁かれたかったんじゃないかな」というベルトルトの言葉が刺さる。

「お前の見方は間違っている」「こういう意図がある」「本当にスゴいのはこの場面だよ」と。

「あぁ、私はここまでしか達せられませんでした、神様…」と、くじけたい。その先にある人間の(あるいは神の)凄さみたいなものに触れたい原初的欲求がある。


2022年1月9日から始まる進撃の巨人76話のタイトル「断罪」を見て、そんなことを思いました。


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