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【短編小説】 窓

 私の母は、私がまだ小学校にあがらないうちに亡くなってしまったから、母との記憶は数えるほどしかない。けれど私は思うのだ。人生の初めに、母という女性と出会った。母親と娘として出会った。そのことが私に与えた影響はきっととっても大きいのだろうと。

 私の部屋の窓は腰高の出窓になっている。そこにお姫様のようなタックのレースのカーテンと、ピンクの地に金の刺繍の入ったカーテンが掛かっている。まるで、中世の深窓の令嬢の窓辺みたいに。この家を建てるときに、母が強く拘ったのだと父から聞いた。

 母がまだ生きていた頃、まだ幼い私にシェイクスピアカンパニーの『ロミオとジュリエット』のビデオを繰り返し観せた。窓辺に立つジュリエットと、窓の下にいるロミオが、愛の言葉を交わしあう。

 恋焦がれ、愛しき思いのたけを伝えてくれるロミオに憧れ、幼心にいつかおとなになったら、私の部屋の窓のそとから誰かが愛の言葉をささやいてくれるのだろうと信じていた。

 そんな私も四十二になった。窓のそとからささやいてくれる男性はおろか、男性とまともに会話することもないまま、こんな年齢になってしまった。

 夢見がちだとか理想が高すぎるなどと友人には言われたが、実際のところは男性に対する恐怖心や、なにを話せばいいのかわからない気持ちから、逃げ回っていたというだけのはなしだ。そして、黙っていても話しかけてもらえるような美しい容姿も、特に備えてはいなかったということだろう。

 そしてそんな歳になっても未だに、私は夢見がちな(そして年月を経て相当に古ぼけた)出窓のある部屋に住んでいる。

 先週だったか、いきなりスーパーで知らない男性に話しかけられて、少々狼狽する出来事があった。歳の頃は四十代? いや、もっと若いのか歳をとっているのか、それすら私にはわからない。顔の形が豆に似ていて、黄色いTシャツにインディゴ色のジーンズ、赤いスニーカーを履いている。

 とにかくその男性は、私のことを知っていた。それも十五年以上前から知っているというのだ。

「だって、すずめ耳鼻科のお嬢さん先生でしょう? 僕はすぐ耳を痛くするから、しょっちゅう通っているんですよ。先生にも何度も診てもらってるのに、覚えてないなんてひどいなあ」

 すずめ耳鼻科は父が始めた治療院であり、娘の私は確かにお嬢さん先生と呼ばれている。でもこの男のひとには覚えがない。というか、男性の顔を覚えるのは苦手だ。そのときは、そうなんですかとかなんとか言って、逃げるようにスーパーを後にした。

 あとでとても反省した。いいひとだったかもしれないのに。せっかく話しかけてくれたのに。そんなこと、めったにあることじゃないのに。

 仕事が休みの日曜日、ふと思い立って窓辺に立った。窓ガラス越しに通りを見ると、なんだかうすぼんやりとして見えた。

「窓を磨こう」
 独り言ちた。先のことはわからなくても、私はきょう、窓を綺麗に磨くと決めたのだ。


≪了≫

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