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卒業文集「エヴァンゲリオンとわたし」シン・エヴァンゲリオン劇場版:||【ネタバレ注意】

「やっと終わった。。」

この映画を見終えたとき、そんな言葉が漏れた読者の方も、少なくないのではないだろうか?

これから無数に世に放たれるであろう、様々な考察や感想に感化される前に「やっと終わった。。」が意味するところを、自分の言葉で残しておきたい。それが、このブログの目的であり、そもそも人生で初めて、ブログというものを書くモチベーションである。

そして、卒業式シーズンに見事にマッチした作品公開(意図的ではないにせよ)が、私にこのブログを「卒業文集」と題する理由でもある。

スクラップ&ビルドの神髄

私、タラコも一介のビジネスパーソンであり、事業企画書を作ったり、Power pointやらExcelやらで資料を作ったりする。そういう意味で、誰しも何らかの形で「創作」を行っていることだろう。

しかし、一度ストーリーを固めてしまい、承認をもらってしまうと、そこから何らかの矛盾や欠損を見つけても、その場しのぎの「修正」で乗り切ろうとする経験はないだろうか?私は多分にある。

仮説だが、恐らく、庵野監督も、TV版で世に送り出したものに、何らかの矛盾や欠損を見出し、それを「修正」するため、上書き的に旧・劇場版を作成し、その欠損を補おうとしたのではないだろうか?

しかし、それでは十分ではなかった。
エヴァンゲリオンという作品を完結させることができなかったのである。そして、そのことに対し、最も苦悩し続けたのが庵野監督ご本人だったのではないだろうか。まさに原罪を背負ってしまった形である。

新・劇場版は、「破」辺りから、オリジナルストーリーから大きくストーリーがずれ始める。これが「欠損を修正するために立ち戻らなければならない点」であり、ここまで戻って、大胆なスクラップ&ビルドを行った点が、新・劇場版からシン・エヴァンゲリオン劇場版:||に繋がる一連の作品が「完結」を迎えられた、そして、庵野監督やエヴァファン、そしてチルドレン達が「エヴァンゲリオン」という無限に円環するかような「原罪」から解き放たれ「卒業」することができた理由なのである。


なぜ、エヴァンゲリオンが完結したと感じたのか?

作中には「落とし前をつける」というキーワードが何度か出てくる。
前述の通り、これは恐らく庵野監督ご自身がエヴァンゲリオンという原罪を生み出し、多くの人を作品の世界、あるいは、アニメという現実とかけ離れた世界に閉じ込めてしまったことへの贖罪であり「落とし前をつける」のは、シンジだけではなく、監督であり、エヴァファン一人ひとりであったのだろう。私もその一人であることは言うまでもない。

では、ここでいう、「落とし前」とは何だったのだろうか?
それは「エヴァンゲリオンをフィクションとして封印する」ということである。前述のスクラップ&ビルドは、この目的を達するための手段との理解である。

まず、後半に出てくる初号機(シンジ)vs13号機(ゲンドウ)に入ると、特撮のセットやら、どう見てもエヴァが着ぐるみとしか思えないミサトの部屋やら、「マイナス宇宙=スタジオ」感を強く打ち出し始める。
この辺りから「封印の儀式」が始まっている。

当時リアルタイムでTV版エヴァを観ていた小中学生(シンジと同い年くらい)にとって、ゲンドウは訳のわからない難解な世界観を語り、あたかもそれが現実(の裏側)であるかのように錯覚させるような言動を繰り返し、エヴァンゲリオンという作品に人々の心と思考を閉じ込めた元凶である。その「落とし前」を大人になろうとしている息子(シンジ)がつけようとしているのである。
シンジをはじめとするチルドレンやエヴァンゲリオンファンはゲンドウを「退場」させない限り、エヴァの原罪から出られないし、「大人」になることができない。そして、ゲンドウの「シンジの成長と幸せを心から願う親としての側面」が具現化したカオルが願う「シンジにとっての幸せ」でもあるのだ。
これは、TV版、旧・劇場版、碇シンジ育成計画などなど、何度も挑戦し、うまくいかなかった最後の壁である。

結果として、ミサトの命を徒した後方支援もあって、ゲンドウにご退場(円環する電車からの下車)いただくことに成功し「すべてのエヴァンゲリオン」を抹消することで、チルドレンは「大人」になったのである。もちろん、どこか中二病を捨てきれなかった、エヴァファンも同様である。

また、わかりやすい表現として、ラストシーンでマリをリードして現実世界(実写)に飛び出すシンジこそ、「エヴァンゲリオンがフィクションとして封印された」ことを示しているのである。

そして、もう一つファンを悩ませ続けた「未回収の布石」についても「回収された」あるいは「回収する必要がなくなった」点も、エヴァンゲリオンが完結したと心から思えるし、それをやってのけた見事な「落とし前」のつけ方に、感服の一言である。
(例えば、加地を撃った犯人、廃人となったアスカと残されたシンジのその後である)

余談だが、いうまでもなく、エヴァンゲリオンは宗教的な意味合いを持つ。多くの宗教は現実世界と宗教のストーリーが曖昧・不完全であったり、宗教同士の「矛盾」が、中東をはじめとした現実世界での悲劇的な紛争を生んでいる。
そういう意味で、今回の終劇をもって、エヴァンゲリオンをそういった火種を持たないフィクションへと昇華させたとみることもできよう。


マリの重要性について

正直なところ、マリが新・劇場版から登場した時には「メガネっ子好きを引き込む客寄せパンダ」的にしか見ていなかった。

しかし、シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を見て、確信したのは、

マリ無くして、エヴァンゲリオンは完結しえなかった

ということである。

シンジが聖書でいうところのイエス(神の子[シンジ])であるという点は過去にも指摘されている。
結論から言うと、マリは、イエスの伴侶でもあり「イエスの死と復活を見届ける証人」たる「マグダラのマリア」なのである。

※ 劇中では「イスカリオテのマリア」と呼ばれているが私はこれを「冬月の皮肉」ではないかと考えている。つまり、冬月自身、マリがマグダラのマリアとしての役割を担っていることに気づいている。しかし、冬月やゲンドウサイドからすると、ネルフを裏切った「イスカリオテのユダ」に近い存在なのである。これは、あまり他では言われていない考察なので自信はないが、冬月とは、そういう男である。

実際、最後にシンジと結ばれたのは、(個人的には意外にも)マリであり、形而上生物学教室時代から、ユイが抱くシンジを赤ん坊の時からひっそりと見守っている
※ 因みにユイはシンジを生んだ親であり、聖母マリアを現していると解釈している

マグダラのマリアが娼婦であったという解釈に合わせる為か、シンジが大人になるということを明示的に示しているのかはわからないが、不必要なくらい性的な描写も多い。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室の論考によれば、
"原罪から解放されるきっかけとなったのもマグダラのマリアという女性である。墓所を訪れた彼女がイエスの復活を知り、男性の弟子に報告したのが、人類の原罪からの解放を告げる、まさに「福音」であった。このとき、イエスを祖とするキリスト教は創始されたといっていい。"

つまり、マリこそ、エヴァンゲリオンをスクラップ&ビルドし、完結に導き、シンジや人類(エヴァファン)を原罪から解放するために、これまでのエヴァに唯一足りなかった最重要ピースであり、まさに「福音」であったことがわかる。


親になったファンと作中の反面教師たち

さて、原罪から解放された我々は「親」という観点で、作中から学ぶべきことがいくつかある。
リアルタイムでエヴァを見ていた世代は、子を持ち、親になっている人も多いであろう。

作中に出てくる親の多くは、何らかの点で「子を育てる」という意味で欠点を持っている。
・ゲンドウ:いうまでもなくクソおや。大人になれなかった哀れな親
・ユイ:聖母として最後は無償の愛でシンジを救うが、突然消えちゃう辺りは無責任な育児放棄
・葛城博士:仕事に生きて、死んでいった、家族を顧みない親
・ミサト:一番嫌いだった父親と同じく、仕事に生き、死んでいった

これらの反面教師から、自身も子育てに向き合っている親として、学んだことがある。

「子供に親の愛は必須だが、親を越えて成長する」

という点である。つまり、子どもカジにせよ、シンジにせよ、ダメな親がいても、親を越えて成長するものなのだ。
親ができることは「肯定し、進みたい道に進むための荷物(教育など)を整えてあげること」そして「無償の愛を与えること」くらいなのである。ヒカリのように、謙虚に子供と向き合おう。

余談だが、ゲンドウの「良き親としての側面」が具現化したカオル(※)は、上記の点を的確に押さえている理想的な親である。しかし、それを大人ではなく、14歳の少年の風貌で描いている点も、大人の未熟さを示しているのかもしれない。
※ゲンドウの13号機登場ポーズ、ピアノ演奏(協奏)渚指令といった表現から推察可能


続編を望むべきではない

最後に、庵野監督ご自身が解放されたか否かは、まさに、エヴァファンがエヴァの原罪から解放されたことを確認できた時なのだと思う。
なので庵野監督から「感想を聞きたい」といったご発言があったのだろう。
したがって、エヴァファンのエヴァロスもわかるが「続編は?」といった野暮な問いを投げかけるのはやめにしよう

我々にできることは、ただ、原罪から解放された「大人」として、今日を生きることである。


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