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【マキアヴェッリ語録】 第11回

マキアヴェッリ語録


🔷 塩野七生しおのななみさんの『マキアヴェッリ語録』からマキアヴェッリの言葉をご紹介します。マキアヴェッリに対する先入観が覆されることでしょう 🔷

7年前にブログで投稿した記事を再構成し、時には加筆修正して、お届けします。(2015-06-13 20:27:58 初出)


目的は手段を正当化する

 マキアヴェッリ(日本ではマキャベリと表現されることが多い)は『君主論』の著者として知られ、「マキャベリズム」が人口に膾炙しています。


 その思想を端的に表現する言葉は、「目的は手段を正当化する」です。


 目的のためならどんな手段を講じてもかまわない、と解することが多いですね。


 実は、私もこの書を読むまではそのように解釈していました。
 言葉を文脈の中で解釈せず、言葉が独り歩きすることの怖さは、風説の流布でも経験することです。


 福島第一原発事故以後、周辺にお住まいの方々は風説の流布に悩まされ続けています。拡散した誤情報はさらに誤情報を加え、拡大していきます。
 容易に訂正されることはありません。


 話しを戻しますと、マキアヴェッリの実像はどのようなものであったのか、そして「目的は手段を正当化する」と言っていることの真意は何だったのか、を知りたいと思いました。


 先入観を取り払い、大前研一さんが言う、「オールクリア(電卓のAC)」にしてマキアヴェッリの説くことに耳を傾けることにしました。


 マキアヴェッリは、1469年5月3日にイタリアのフィレンツェで生まれ、1527年6月21日に没しています。15世紀から16世紀にかけて活躍した思想家です。500年位前の人です。

 


 塩野七生しおのななみさんは、「まえがき」に代えて「読者に」で次のように記しています。塩野さんが解説ではなく、また要約でもなく、「抜粋」にした理由を説明しています。


 尚、10ページ以上にわたる説明からポイントとなる言葉を「抜粋」しました。

塩野さんが解説ではなく、また要約でもなく、「抜粋」にした理由


この『マキアヴェッリ語録』は、マキアヴェッリの思想の要約ではありません。抜粋です。
なぜ、私が、完訳ではなく、かといって要約でもなく、ましてや解説でもない、抜粋という手段を選んだのかを御説明したいと思います。

第一の理由は、次のことです。
彼が、作品を遺したということです。
マキアヴェッリにとって、書くということは、生の証あかし、であったのです。

マキアヴェッリは、単なる素材ではない。作品を遺した思想家です。つまり、彼にとっての「生の証し」は、今日まで残り、しかもただ残っただけではなく、古典という、現代でも価値をもちつづけているとされる作品の作者でもあるのです。生涯を追うだけで済まされては、当の彼自身からして、釈然としないにちがいありません。

抜粋という方法を選んだのには、「紆曲」どころではないマキアヴェッリの文体が与えてくれる快感も、味わってほしいという私の願いもあるのです。そして、エッセンスの抜粋ならば、「証例冗漫」とだけは、絶対に言われないでしょう。

しかし、彼の「生の声」をお聴かせすることに成功したとしても、それだけでは、私の目的は完全に達成されたとはいえないのです。マキアヴェッリ自身、実際に役に立つものを書くのが自分の目的だ、と言っています。
 

『マキアヴェッリ語録』 「読者に」から PP.3-6、15        

  


 お待たせしました。マキアヴェッリの名言を紹介していきます。


マキアヴェッリの名言


第1部 君主篇



次のことは明言しておきたい。

すなわち、危険というものは、それがいまだ芽であるうちに正確に実体を把握はあくすることは、言うはやさしいが、行うとなると大変にむずかしいということである。

それゆえはじめのうちは、あわてて対策に走るよりもじっくりと時間かせぎをするほうをすすめたい。

なぜなら、時間かせぎをしているうちに、もしかしたら自然に消滅するかもしれないし、でなければ少なくとも、危険の増大をずっと後に引きのばすことは、可能かもしれないからである。

いずれの場合でも、君主ははっきりを見開いている必要がある。

情勢分析を誤ってはならないし、対策の選択を誤ることも許されないし、対策実施のときも誤ってはならないのだ。

植木に水をやりすぎて枯らしてしまうようなことは、あってはならないのである。

しかし、こちら側の準備が万端と思うやいなや、迷うことなく断固として反撃に打って出るべきである。

反対に、その自信がないときは、まだしばらくは事の成行きにまかせるほうが良策と思う。
                       
   

『マキアヴェッリ語録』 「政略論」から PP.111-112            



君主たる者、もしも偉大なことを為したいと思うならば、人をたぶらかすわざ、つまり権謀術数を習得する必要がある。

この種の技習得の必要性は、君主国にかぎらず、共和国の場合はもっと必要になってくる。

少なくとも、その国が非常に強力になってパクス・ロマーナ的な状態になるまでは、術策をろうすることは、必要欠くべからざる生存術である。

ローマもまた、他にライヴァルがいないほどに強大になるまでは、情況の変化に合わせて、または自らすすんで、有効と思われるかぎりのあらゆる術策を活用したものであった。

『マキアヴェッリ語録』 「政略論」から PP.113-114           
                    
                    
 


               
   


ローマは、建国の当初とていまだ弱体な国家であった時代から、権謀術数の必要を知っていた。

まして小さく弱い現状から少しでも上昇しようと思う者にとっては、このことは必要欠くべからざる配慮と思う。

ただ、その活用に際しては、ローマ人がしたように、可能なかぎり水面下でなされるべきであろう。そうすれば、ローマ人が成功したように、このような汚いことをやったあげくに浴びる非難から、まぬがれることができるからである。
        

『マキアヴェッリ語録』 「政略論」から P.114           


マキアヴェッリの語る言葉は深い

                            
🔶 マキアヴェッリの語る言葉は深い、と思います。

マキアヴェッリは人間観察に優れた人だった、
と想像します。心理学にも長けていたのでしょう。

「君主」を「リーダー」に置き換えて考えてみるとより身近に感じられるでしょう。

🔷 権謀術数を修得する必要がある、ということです。

ここで、権謀術数とは何かについて、確認しておきましょう。


権謀術数(けんぼうじゅっすう)とは、主に社会や組織などの集団において物事を利己的な方向へ導き、自身の地位や評価を高めるために取られる手段や技法、およびそれが用いられるさまを表す総称。

権謀術数 Wikipedia から



何か、汚い、悪いイメージしか浮かびませんね。

ですが、君主(リーダー)つまり、上に立つ者はきれい事だけでは、支配することはできない、ということです。

常にそうだということではありませんが、正攻法だけでは勝負に勝てません。

時には、邪道と思われても、奇襲作戦を採ることも考えなくてはなりません。

これには2つの意味がある、と考えています。
1つ目は、相手を撹乱したり、だまし討ちをするためです。

もう1つは、味方に、いつも同じ作戦ではマンネリ化するため、これを防ぐためです。

⭐️ キーセンテンス
「情勢分析を誤ってはならないし、対策の選択を誤ることも許されないし、対策実施のときも誤ってはならないのだ」

いかにして確度の高い情報を多く集め、集めた情報を的確に分析するかにかかっている、と言っても過言ではありません。

「孫子の兵法」にも、同様なことが書かれていますね。

「彼を知り己を知れば、百戦して殆(あや)うからず」
(『謀攻篇』)



『リーダーシップの本質』

堀紘一氏の『リーダーシップの本質』と対比していただくと、興味深い事実を発見できると思います。



🔷 著者紹介

塩野七生しおのななみ<著者紹介から Wikipediaで追加>

日本の歴史作家、小説家である。名前の「七生」は、ペンネームではなく本名。
東京都立日比谷高等学校、学習院大学文学部哲学科卒業。

日比谷高時代は庄司薫、古井由吉らが同級生で、後輩に利根川進がいて親しかった。

1970年には『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞。

同年から再びイタリアへ移り住む。『ローマ人の物語』にとりくむ。

2006年に『第15巻 ローマ世界の終焉』にて完結した(文庫版も2011年9月に刊行完結)。『ローマ人の物語Ⅰ』により新潮学芸賞受賞。

99年、司馬遼太郎賞。

2002年、イタリア政府より国家功労勲章を授与される。

2007年、文化功労者に選ばれる。

高校の大先輩でした。




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