漫画家・山田花子(2)~<他人という鏡>のむこうへ
はじめに
前稿では、山田花子の最期の作品を取り上げ、そこには破綻よりも洗練、成長といった側面が見出されるのではないかという点にふれ、彼女の「統合失調症の発症」という診断への留保についても述べた。
とはいえ、どのような「診断」となるかはともかくとして、山田が何らかの精神的な<危機>をむかえていたのは事実であっただろう。であるとすれば、その<危機>とは、どのようなかたちのものであったのか。
I 自虐ナルシズム――傷と<マンガへの自由>
絵を描き、お話を作る、ということ。山田はそのことに幼稚園の頃から没頭していたという。その原型は、マンガというより絵本であったのかもしれない。気に入った絵本は繰り返し読み、文章を暗記しているほどだった。マンガもまた、幼少のころから常に身近な存在であった。 父親がマンガ好きで、小学生の頃から山田もマンガに熱中するようになり、少女漫画・少年漫画問わず、さまざまなマンガ雑誌や単行本を愛読していた。読むだけではない、マンガを描くことにもまた没頭した。教科書やノートの余白に描かれた絵や吹き出し。「漫画を描いていて授業に集中していない」と担任に注意され続けようが、母曰く、「小学校時代からずっと、漫画の世界に浸っていた」。そして、山田自身、漫画家になってからも、日記にはこう書き記していた。
しかし、いじめを経験して、自由にマンガが描けなくなった、とも言う。――「小学生までは自由に描けた。中学で苛められてから差別される(する)のが怖くなって自由に描けなくなった」(91年11月)。とはいえ、それでもマンガを描くことをやめたわけではなかった。それどころか、前稿で見たように、その経験が如実に反映されたような作品によって、新たなフェイズに達したと言える。そんな自らのマンガを評して山田は、「自虐ナルシズム」と書き記していた。
いじめでマンガをやめるどころか、マンガにおいて「復讐」すらしていた。といっても、それはファンタジーへと逃避するがごとく、マンガの中で現実の出来事を書き換えたりするのではない。逆だ。いじめられている現実をそのままに描くことによって。ありのままの醜さを描くことによって「復讐」せんとしている。
はたして、それが復讐たりえているのか。山田の日記によれば、押しつけがましい編集者や彼氏のことをマンガに登場させて「復讐」してみたが、それを読んだ本人は気づいていなかったり、逆に、なぜマンガに描いたのかと責め立てられたりと、「復讐するどころか逆に傷つけられてしまった」といったこともあったようだ。
だとしても、それが無意味であったということになるまい。その行為自体が「マンガへの自由」の行使であり、「自由としてのマンガ」、その能動性を取り戻す契機ともなりえたであろうから。
前稿でも言及した通り、この、自らの体験を「自虐ナルシズム」として意図的に作品に反映させるようなアプローチへの変容は、「裏町かもめ~山田ゆうこ」からの離脱と「山田花子」の誕生を意味するものでもあったのだ。
II 自虐ナルシズムの先へ――「本物の作家」を目指して
とはいえ、「自虐ナルシズム」なるものも容易な道ではあるまい。それがナルシズムであると気付いてしまっている者にとっては、なおさらのことに。そして山田自身、そこに留まることをよしともしなかった。彼女が「本物の作家」と認める根本敬、蛭子能収、丸尾末広といった主に“ガロ系”の漫画家たちと自分とを比べつつ、自らの目指すべき方向について、こう書き記している。
しかし、マンガにおいて「ありのままの自分をさらけ出す」とは、いかなることなのか。彼女自身、十分、自虐的に自らをさらしてはいなかったか。そのことについて、山田はどう考えていたのだろう。亡くなった年、92年の日記にはこう記されている。
死後に、「ありのままの自分をさらけ出す」「真実の自分を描く」といった彼女の言葉を目にした者の多くは、彼女が、より痛々しい自虐的な方向へとエスカレートさせねばと考えていたかのように受けとめたきらいがある。しかし、はたして、そのような解釈は妥当だったのだろうか。
前稿でみたように、山田は自らのマンガを「自虐ナルシズム」と呼ぶ一方で、「これから」描きたいマンガについてはまた違ったビジョンを抱いていた。
「どんなに自分を捨てて描いても、どっかで(無意識に)自己正当化してしまう。作者の主人公に対する思い入れ、感情移入(主人公=可哀相な人=作者)になってしまう」と自己批判し、「商業路線とは全く無縁のところで、本当に自分に見えている、感じている「本物の世界」を描きたい」、「ただ描いてあるだけの、眠くて、つまらなくて、退屈な漫画(…)解って貰おうとしない。「カメラの視点」で、登場人物以外の視点で、できるだけ感情を押し殺して描く」 (91年7~8月)と記していたのだった。
この言葉に従えば、「自分が見えている、感じている「本当の世界」」を描かんとすること、それは、「自分」をマンガ内のキャラクターとしてさらすのではなく、自分自身を「視点」へと純化してゆくことであった、と解することもできようか。そして、「真実の自分を描く」という自らに課した目標への一つの回答が、前稿で言及した、自虐性から遠のき、洗練と成長を垣間見せる晩年の作品、『ガード下の靴みがき』、そして、遺作の『4ツ葉のクローバー』であった――そう理解することはできまいか。
だとすると、我々はかなり誤解をしていたということになろう。彼女がまるで自虐を極めんとしていたかのような解釈は大きく見誤っていたのだ。「眠くて、つまらなくて、退屈な漫画」と自ら評するのも、ある種の卑下でしかないだろう。山田自身は、思い描くマンガを決して「退屈」と考えていたわけではないのだから。編集者らから「ワンパターン」「オチがない」と言われがちであった山田は、次のようにも書き記していた。
「「カメラの視点」で…できるだけ感情を押し殺して」といったスタンスにも、ある種の防衛的な意味合いを読み取ることは可能かもしれないが――そして、それは「山田花子」という匿名的なペンネームの選択にも言えることかもしれないが――、とはいえ、自虐ナルシズムから、さらにその先へと歩みを進め、「描きたいものを描く」という「マンガへの自由」が行き着くところはたしかに、自虐的ではないとしても、求道的なストイックさを滲ませるものであっただろう。
III バイト解雇という「心因」の背景――<出立>という臨界
そして、このような「マンガへの自由」への希求と表裏をなしていたと思われるのが、生活の糧という問題である。
そんなライフプランに思いを巡らせていたこのころには、友人の漫画家にも、マンガやイラストだけでいかにして生計を立てているのか、といったことを唐突に尋ねたりもしていたという。そして、入院中の日記においてもなお、「退院したらやること/バイト見つけて独立する。合間ぬってマンガ制作する。」(5月3日)などと、バイトをめぐる思いを書き連ねていた。
「好きなマンガだけを描く」という目的のためとあれば、バイトという物質的支えの重要性は当然、きわめて現実的なものではあるが、とはいえ、それは不器用なまでに両極端な二極のはざまでの均衡点であるようにも思える。そしてそこには、人に頼ることのできぬ生き方もまた透け見える。その背景としては、思春期のいじめ体験といったものも考えうるだろうが、さらに幼少期へと遡ってみることもできるかもしれない。
ここで、「マンガへの自由」のほかに、山田が固執していたいまひとつの自由についても考えておくべきであろう。それは「家族からの自由」である。
漫画家としてデビューしてまもなく実家を出た山田であったが、精神的に不安定となった入院直前ですら、親らが実家に連れ帰ろうとした際には強い抵抗を示したようだ。退院した後も、実家に戻りたくないという思いは変わらなかったようで、日記には「予言 病院と実家を往復。こんな人生もういやっ」(3月12日)などと閉塞感を吐露している。かねてより、家族の団欒の中にあっても、妹ばかり話題になると感ずるや、「家の中で自分だけ相手にされない感じで悔しくなる。愚痴をこぼしては、私が一人で家庭を暗くしている。(…)独立するまで「宿命の家庭」に耐えなければならない」(91年12月)との考えにまで行き着いてしまうほどの疎外感を抱いていたようではある。
しかし、そもそも、彼女がそこまで疎外感を抱き、抵抗しようとしたものは何だったのか、見えづらいところもある 。ここで思い出されるのが、“発症”直後の言動である。入院直前、実家に連れ戻された山田は、かなり混乱した状態にあったようだが、その際、教師である母親の苛めや登校拒否問題に関する本を床に投げ出しながら「お前はこうゆう本を読んで子供を苛めているんだろ。こうゆう本が児童を駄目にしてるんじゃ。お前には主体性がないのか。自分の考えというものがないのか」などと責め立てたという。あくまで教師という「役割」で接せられているかのようで、子として受け留めてはもらえなかった、といった潜在的な思いでもあったのだろうか――そんなことを想像させるような言葉である。
このような母子の関係性は、山田のある作品を想起させる。クラスになじめずにいる少女のことを担任教師は気にかけている。その少女に「お友達がいなくてさみしくないの?」などと声をかける。さらには、「悩み事があるのなら先生に打ち明けて」と優しく迫る。「うかつに心を開けば傷つく」と警戒してきた少女も、つい、「人げんて、皆一人ぼっちだからどうせ、かみ合わないと思うとダルくて…」と、日頃の悩みをぽろりと口にしたところ、「それは仕方ないことでしょ?」と、あっさり返される。そんなシーンが描かれている。
この作品は高い完成度ながらなぜか生前には発表されておらず、死後にこれを目にした母は愕然としたという。自分そっくりのおかっぱ頭の教師が語る言葉、「あなた、お友達がいなくて寂しくはないの」というのは、まさに母が、友達の少なかった山田に対してたびたび口にしていた言葉であった。教師と生徒の関係として描かれていたものは実は、教師たる母との関係の描写であった。そして、「いろんな子がいて当たり前。弱い子も強い子も個性を生かしてあげなきゃ」というのが口癖であった母は、山田の日記や漫画を通して、「自由を口にしながら自分の型にはめようとしていたのか」と考えるに至ったという。
この山田が描き出したものと、それに対する母の振り返りは、斎藤環が指摘した「学校の病理」の考察に通じるものがある。斎藤によれば、現代の教育システムは、「誰もが無限の可能性を秘めている」といった「平等幻想」を強いることで「去勢否認」へと誘惑する方向へと子どもらに働きかけている。その結果、システムに従うにせよ、反発するにせよ、子どもらを社会的に未成熟な人間として――終わらない思春期に――留め置く方向に作動してしまう。そこが問題であるという。
「友だち」づくりという横並びを促し、「どうぞ打ち明けて」と誘いながら、「仕方ないでしょ」と突き放すダブルバインド的状況は、まさに、成長・自立を促しつつ、到達をどこまでも先送りにする<システム>のカリカチュアである。そして、学校と家族とが二重写しになるような環境を生きた山田にとっては、<家族からの自由>とは、実際の「家族」への抵抗である以上に、この学校と家族とを貫いて作動する<システム>への抵抗であったかもしれない。「山田花子の死には“犠牲的なもの”としての“悲劇的なニュアンス”がつきまとう」との斎藤の指摘もまた、そのような文脈において――<システム>の犠牲者という意味合いにおいて――理解できよう。
「マンガへの自由」と「家族からの自由」、この二つの切実なる<自由>もバイトの継続なくしては守り切れない――過去の傷、そして日々の傷にまみれる中で、そんな切迫感を高めていたのだとすれば、本人にしては長く続いていたバイトの解雇という一件は、駱駝の背骨を折る最後の一本の藁のごとき出来事となりえたであろうことも想像はできる。彼女の最期の年、1992年と言えば、おりしも「フリーター」なる語が世間に定着し始めたばかりの時期であったが、そんな軽やかな響きとは真逆を行くような、山田にとっての<現実>の状況布置をそこに見る。
加えて、この「創作における自律」と「生活における自立」とは、いずれも「個」としての離脱に関わる問題であるが、ここで想起されるのが、笠原による、「心的要因」という視点から見た統合失調症における「出立」というモーメントについての論考である。笠原は気分障害と対比させつつ、次のように指摘している。
そして、山田の生のあり方、その精神的な危機もまた、笠原の指摘と符合するところは多いのではないか。その軌跡はまさに、自由へと向かう<出立>のモメントが、いかなる状況布置、アレンジメントの中で<危機>へと変容していくのか、その過程を示しているように思われる。
IV 存在不安症――あるいは、他人の空白
ただし、その<危機>は、はたしてどのような色彩を帯びていたのかと言えば、それは前稿でもふれたように、必ずしも単純にスキゾフレニックなものとみなしてよいものか、判断は難しいところかと思われる。
山田はバイトを解雇された後、元職場を訪れて居座るといった行動を繰り返したり、自宅でも家族に対して激昂したりと混乱した様子を見せ、「分裂病」の診断にて精神科病院に入院となっている。また、入院になる前年あたりから、それまで以上に家族や人を避けたり、執拗にメモを書き留めていたり、といった振る舞いがみられていたという。
では、その「奇異さ」をもって、明らかな精神病症状であったと言えるかというと、その後の経過からすると、はたしてどうであろうか。家族の目から見ると、入院後は混乱よりも静けさほうが目につくぐらいであった。そして、入院後の日記のようなメモ書きは、ほぼすべてが公表されているが、それを見ても、死への願望をうかがわせる言葉はあれども、少なくとも、直截的に病的体験を示唆するような言葉があるわけではない。そして、その死の二日前の日記には、遺書のごとく、こう書き記されていた、
②は、繰り返される自尊心の低い言動にそのまま通じる言葉であろう。①と③は、仕事を失い、自立できないことへの悲観として了解はしうるところかと思われる。そして、④と⑥に至っては、彼女にとっての「マンガを描くこと」の重要性を再認識させられるとともに、端的に「抑うつ的」と言ってもよさそうなニュアンスをうかがわせる。また、やせ願望もそれなりに強く持ち、自ら拒食症の傾向があることは語っていたので、⑤にあるように家族からの食事への干渉を嫌うといったことも小さな問題ではなかったであろう。
それでは、最後に唐突に現れた、「存在不安症の発作」という言葉、これは何を意味するのであろうか。彼女に死をも考えさせたような、その「発作」とは何か。それが通常のパニック発作のようなものではないであろうことは想像つくが、ならばそれは、どのようなものであったのか。「発作」というニュアンスを意識しつつ日記を見返すと、次のような一節が目にとまる。
このようなものだとするならば、「想像の他人」におびやかされながら「他人という鏡」を求めずにはいられないという、前稿で見た「他人」をめぐるスパイラル状の関係性がいよいよ先鋭化してきたものとして捉えることもできようか。それとも、もはや、そういった「他人へのアンビヴァレンツ」ではとらえきれぬ、一線を画したパトスを見てとるべきなのだろうか。
V 山田花子その人の存在感
ここで、彼女の他者とのコミュニケーションのありようが実際のところどのようなものであったのか、といった点にあらためて目を向けてみたい。彼女の“佇まい”については、様々な人々が、様々な表現で語っており、「普通の女性」と評する人がいる一方で、近しい者からは、明らかに「かわってる」と評されることもある。妹によれば、山田は「感情を押しころすタイプで、何か気に障る事があると沈黙するかフテ寝する。「どうしたの?」と尋ねると、ピシャリとシャッターを下ろして黙っているから何がなんだか分からない。分からないから更に問うと、ますます何重にもシャッターを下ろして頑なに内に閉じ篭もってしまうのだった。」 だからこそ、死の前年頃より、妹らを避けるといったことがあっても、それは以前の様子から連続的なものと映ずるぐらいであったのだろう。
ただし、山田は、ただ疎隔する、というだけなのではない。『ガロ』の編集者、そして友人として身近に関わってきた手塚能理子によれば、「人が集まるような場所では、徹底的に無口だった。しかし、一対一になるとまったく逆で、酸欠になるんじゃないかと思うぐらい、怒涛のごとく喋り続ける。その姿はいつも嬉々としていて、自分の話を誰にもじゃまされずに話せることに、興奮していたようだった」。この極端なまでの近さと遠さとの往復こそが、山田のコミュニケーション・スタイルを特徴づけるものではなかったか。
山田自身は、卑下するように「私はバイト先でも学校でクラスに必ず一人はいた「問題児」(IQは人並だが、トロくて何もできない精薄一歩手前な奴)なのにプライド高いので(バカと思われたくない我が強い)苛められる」(92年12月) などと日記に綴っている。また別の箇所では、より具体的に、同級生とのやりとりのパターンなども自ら記していた。
有名人の真似をすることでのコミュニケーションといったエピソードは自らの漫画にもそのまま描かれているが、ここにもまた、他者とのつながりの忌避と希求との両極性がにじみ出ていると言える。
VI アモルファスなパトス
このような語りを抽出していくと、今日的な視点からは「スキゾイドか、発達障害か」といった印象を強めることになるのかもしれない。
幼少期から一貫して見られる絵を描くことへの没入、人と関わることへの強い警戒心、“どうやってしゃべればよいのか”と当惑するほどの“口下手”、その一方での“空気が読めていない”といった扱いを受けがちな振る舞い、といったエピソードがあれば、まずは「発達の偏り」を疑ってみるというのが今日の臨床の常ではあろう。
しかし、そのような表層的なコミュニケーションの問題だけでなく、他者との関係性のあり方にまで目を向けてみるとどうか。素の自分としてではなく、他者の模倣を介して人と関わろうとする対人関係のあり方。その一方で、内に秘めた自らの価値観への、誇大的なまでに揺るがぬ確信。他者を忌避し、嫌悪すらしつつも、他者の評価・繋がりを渇望するという、極端なまでの両面性。そういった態勢にはスキゾイド的なものを見てとることもできよう。R.D.レインが「存在論的不安定 ontological insecurity」と表現した「にせ自己」への引き裂かれにも似た。
では、先にふれた「存在不安症」なるものはどうか。「自尊心」を保つべく他者の承認を求めるというより、自らの「存在」自体を確認するために他者を必要とする、といった訴えのうちに、精神病水準に近い、自我構造自体の危うさをみるべきだろうか。
あるいは、鈴木國文は、自閉症スペクトラムにおいては、他者によって外在的世界にあいた穴と、内部の「不安」という穴との間での連動が十分に機能していないのではないかと指摘したが、山田の言う「存在不安症」をまさにそんな「穴」の顕れとして捉えることもできるのかもしれない。
しかし、先に言及した通り、抑うつともとれる一面も見せていた。顕在発症とみなされた入院直前のエピソードよりも前から、繰り返し日記に書き記されていた、死への願望。そして、入院中は「以前のような感情の起伏の激しさがなくなり、何故かとても静かだった」と父が評するほどであり、死の二日前に記された「召されたい理由」には、仕事もなく自立できぬ現実的な状況に悲観、絶望しているさまが綴られていた。そこには「精神病後抑うつ」の一言で済ませられぬメランコリアの存在を疑うこともできよう。前稿において遺作にみられる「成長」の跡についてふれたが、成長とは往々にして抑うつを伴うものでもある。
このように、いずれにも定めがたいとすれば、それは端的に、診断のための情報が不足しているということが理由の一つとして考えうる。とはいえ、はたしてそれだけであろうか。このような複数の線が交錯する地点こそ、山田が身を置いていたところではなかったか――そう考えることもできまいか。あるいは、診断は何か、「発症」していたのか否か、といった問いの立て方自体に限界がある、というべきかもしれない。診断学から一歩、身を引き、彼女の<危機>そのものに向き合おうとするならば、このような多義性・複雑性をそのものとして、それ自体において理解する必要もあるのではないか、とも思われる。
笠原は、青年の自殺企図者の特徴として、診断の非典型性と、時期の中間段階性という、二つの特徴を指摘したが、そういった<アモルファスな病理>は、思春期~青年期の臨床においては稀ならず遭遇するものである。そして、思春期・青年期における<出立>――何者かへの変容、何処かへの移動という、移行的・中間的なモメント――が、そのような臨界的でアモルファスなパトスと親和的であろうことは、十分に想像しうるところでもある。
VII 狂気とその模倣
そして、このような「発病」と言ってよいのか明確ではないようなアモルファスな様相自体が、当人の苦悩を一層深めることもあるのではないか。入院中の主治医との会話について、日記には――死のほんの1か月ほど前だ――このように記されていた。
しかし、そう言える彼女は、もちろん、”狂い”きってはいまい。かといって、ただの詐病的な立ち振る舞いとして片付けられるものでもないだろう。「キチガイ」という語は山田の作品や日記に少なからず登場するものだが、彼女は「キチガイ」に対して恐怖と憧憬のようなものとを併せ抱いていたように思われる。
遡れば、「山田花子」としてのデビュー前の86年、音楽活動にも取り組んでいた頃、すでに彼女はこんな歌詞をノートに書き留めていた。
それが入院直前の時期になると、山下清などを例に挙げつつ、次のようなことも書き記している。
ここでの「キチガイ」の捉え方は、山田が憧れの「本物の作家」たちを評して「自分をさらけ出している」と語った言葉とそのままオーバーラップする。これを深読みするならば、山田の中である種のストイシズムが極まれるにつれ、いよいよ、創作における「本物の作家」と、実存における「キチガイ」とが近接してきた――ただし、それらと自らの間には一線を画しつつも――のではないか、と想像することもできる。
それでは、入院直前の状態もまた、彼女は一線を画しつつ、「キチガイのフリ」をしていたということになるのだろうか。しかし、狂気の模倣が、すなわち演技的であったり、ヒステリー的であったりするとは限らない。狂ってしまうことへの恐怖と同じく、狂っていることを模倣しようとすることもまた、ときに精神病エピソードの臨界期にみられることは、実臨床において経験するところであろう。
VIII 作品にみる<出立>のモメント
ここまで<出立>と<アモルファスな病理>とを交錯させつつ論じてきたが、もちろん、アモルファスであること、そして、<出立>というモメントは、それ自体においては何ら否定的なものではない。それどころか、それは、いかようにも生成変化しうる<肯定>そのものと言ってもよいくらいなのかもしれない。そして、山田の生の軌跡において見出されたのは、まさに、<出立>のモメントがある種の危険・危機に陥るとすれば、そこには何らかのアレンジメントが見出されるが故である、という点であったように思われる。そして、<出立>という視点からいま一度、山田の作品を立ち返るならばそこには、負のスパイラルを描き続けただけではない、山田の別の一面が浮かび上がってくるだろう。
例えば、最期の作品のひとつ、『4ツ葉のクローバー・その2』(以下『その2』)。この作品とそれ以前の類似の作品と対比してみると(ここではその1,2年前の作品『チュウリップ幻術』を一例として提示しておく)、そこにもまた<出立>の揺れ動きがほの見えるようにも思われる。
これらはいずれも、自分の好きなアイドルがテレビに出ているのを見ている時に、家族からそのアイドルのことを「好きなんだ」とあらためて指摘されると、急に恥ずかしさを覚える、といった一場面を描いている。違いはその後の主人公の反応である。以前の作品では、そんな弟の指摘には、こわばった笑みを見せつつ、取り繕うように否認するのみである。他方、遺作の『その2』では、そんな指摘に咄嗟に返答できず立ち去ってしまうが、その後、そのアイドルのCDを聴いていている時には、家族が来ても、恥じらいつつもその場に留まる、という結びになっている。自分の好きなものを知られることの気恥ずかしさ、そんな趣味を非難されはしないかといった恐れ、自信の乏しさ、といったものを抱えつつも、踏みとどまることによって、かろうじて主張する主人公の姿がある。なんとささやかな、と思われるかもしれないが、そこには、「出立」とまではいかないまでも、自己主張の萌芽、ひとつのポジティヴな光、ほの明るさを感じられないだろうか。
そして、<出立>にまつわるものとして、最後に紹介しておきたい作品がある。それは『いちょうの実』という短編で、89年発表の、山田花子としては比較的初期の作品にあたる。他の作品とはかなり毛色の異なる本作は、宮沢賢治による同名の短編をストーリーからせりふまで忠実にマンガ化したもので、あらすじは次のようなものだ。
大きな母なるいちょうの木は、色づく頃になると、いちょうの実の子どもたちをたくさん枝に実らせる。北風の時期が近づき、いちょうの実たちはいっせいに目をさます。旅立ちの日のために。「あたしどんな所へ行くのかしら」「僕はきっと黄金色のお星さまになるの」「お母さんに貰った新しい外套がどっか行っちゃったぁ」等々、子供たちは互いの不安や希望、旅支度を語り合っている。そして、いよいよその日を迎える。「さよならお母さん」、そう口にしながら、子こどもたちはみんな一度に雨のように枝から飛び降りていく…。
これはまさに 「母なるもの」からの出立を描いたものであり、山田らしい画風を残しつつも原作の静謐さを受け継いだ、特異な作品となっている。なぜこの作品をマンガ化するに至ったのか、山田自身は語ってはいない。ただ、幼少のころから絵本にも宮沢賢治にも慣れ親しんでいたようであるから、この短編を幼き頃から知り、本人なりのイメージを持っていた可能性もあるだろう。
また、不安の最中にあって決然と踏み出してゆく様は、どこか幼少期の姿と重なり合うところもないだろうか。なかなかおしゃぶりを止められなかった彼女が、自らの宣言通り、6歳の誕生日をもってきっぱりと止めた、あの頃の姿に。
そういったことに思いを巡らせるとき、ここに描かれた不安や緊張、そして、希望とが極限となった<出立>の瞬間は、山田花子の心象風景を凝縮したもののように思えてくる。
文献
笠原嘉: 自殺の臨床的研究――自殺予防のために. 笠原嘉臨床論文集 境界例研究の50年. みすず書房 2012.
笠原嘉: 内因性精神病の発病に直接前駆する「心的要因」について. 笠原嘉臨床論文集 「全体の科学」のために. みすず書房 2013.
レイン, R.D.(阪本健二, 志貴春彦, 笠原嘉訳): 引き裂かれた自己. みすず書房 1971.
斎藤環: 改訂版 社会的ひきこもり. PHP研究所 2020.
斎藤環: 「去勢否認」への抵抗――古屋実vs山田花子. フレーム憑き. 青土社 2004.
鈴木國文: 自閉症スペクトラム障害と思春期――成人の精神科医療の立場から. 「ほころび」の精神病理学. 青土社 2019.
山田花子: チュウリップ幻術 第3話「兄弟仁義」の巻. 花咲ける孤独. 青林堂 1993.
山田花子: いちょうの実. 嘆きの天使. 青林堂 1990.
山田花子: 自殺直前日記 改(鉄人文庫). 鉄人社 2018.
山田花子: 幸福の科学シリーズ・まねっこコジキ. 青林工藝舎 1998.
山田花子: 魂のアソコ. 青林堂 1996.
山田花子: 天上天下唯我独尊「世界はウソつき」. 花咲ける孤独. 青林堂, 1993.
山田花子: 4ツ葉のクローバー・その2. からっぽの世界. 青林工藝舎 1998.
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