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漫画家・山田花子(1)~最期の作品をめぐって


はじめに  

1992年5月、漫画家・山田花子は、「精神分裂病」との診断を受け入院している最中に一つの作品を仕上げた。それは『4ツ葉のクローバー』と題された小品で、家庭や学校のなかの子どもをかわらず描きつつも、どこか、これまでにない静謐をたたえるものであった。しかし、作品の完成からひと月も経たぬうちに自ら命を絶ち、『4ツ葉のクローバー』は遺作となる。そのような特異な位置を占めるこの作品のうちに、私たちははたして、何かしらの病いの痕跡を見出しうるのか、見出すべきなのか・・・。

I  生 

まずは山田花子の生涯について、没後に出版された日記やご両親の手記などを参照しつつ、振り返っておこう。

67-79 誕生~学童期

1967年6月10日、自動車のセールスマンで、後にマルクシズムの著述家となる父と、小学校教諭の母のもと、東京にて出生。本名を高市由美という。「幼いころから、不器用で、あぶなかしくて、見ていられなくて、だからこそ一層愛おしかった…あのか細く透き通るような声…あのなにやら恥ずかし気な笑顔…」――これは父の回想の言葉である。

内気で運動は苦手、外で友達と遊ぶよりも、独りで絵を描いたり図鑑や絵本を読むことを好むような子であった。5歳頃からは既に絵本作りとお話を考えることに没頭し、小動物たちを主人公にした絵本を、ホチキス止めにして作ったりもしていた。
6歳まで人前でも指しゃぶりがやめられなかったが、「6歳になったら、絶対止めるから」と自ら宣言、本当に6歳の誕生日から、きっぱりと指しやぶりを止めてしまうといった一面も持ち合わせていた。
虫を見つけて眺めたり、小さい生き物を飼ったりすることも好きで、家では常に小鳥、猫、ハムスター、うさぎなどのペットと共にあった。保育園の頃、将来の夢は「動物園の飼育のおばさん」になること。そして、好きが高じてなのか、外へ遊びに行く時にもハムスターをポケットに入れていたり、小学3年の頃には、自分で雛に孵そうと保育園の鶏小屋から卵を盗んできたこともあった。
妹によれば、妹と違い「お仕置きを受けているところを見た記憶はほとんどない」とのことだが、母曰く「自分が関心のあることは納得がいくまでやる子」ではあった。

小学生になると、漫画好きの父親の影響もあり、赤塚不二夫、日野日出志、水木しげるなどの漫画を愛読するようになる。漫画を描くことにも熱中し、「漫画を描いていて授業に集中していない」と毎年、親が担任に注意を受けるほどであった。彼女の教科書やノートの余白にまで絵や吹き出しが描き込まれていた。
それでは、全く周囲から孤立したような子であったかと言えば、必ずしもそうではなかったようだ。友達や妹と自作の劇や歌、楽器の演奏をカセットテープに録音して楽しみ、自身の漫画本コレクションには貸出票を付け、図書館のように友達に貸したりもしていて、「結構家には友達が来ていた」と、母は振り返る。

80-87 思春期、そして漫画家デビュー

大きな変化が訪れたのは中学生になってからであろうか。中学校入学後いじめに遭い、リストカットを繰り返すようになる。そして、81年、中学2年時にはガス自殺という方法を選んでの企図にまで至った。
その後より不登校になった彼女を見かねた母は、彼女に『なかよし』まんがスクールへの投稿を促す。すると、マンガにさらに没頭。スクールの講師からの評価も上々で、83年、中学3年時に少女漫画誌『なかよしデラックス』への投稿が入選、「裏町かもめ」なるペンネームでのデビューも決まり、同誌での連載が始まった。
子供と先生とのドタバタを描いた4コマ漫画は、ブラックジョークを交えながらも、後の「山田花子」作品とは趣きの異なる明るさが感じられるものであった。

裏町かもめ名義の作品(83年頃)

しかし私生活では、同年に高校に進学したものの、再びいじめに遭って不登校となり、自宅で寝込む日々が続いた。結局、高校は中退となる。
連載のほうは、途中で「山田ゆうこ」なるペンネームに変名、四コマ漫画の形式は保ちつつも内容は徐々にダークでシュールなものとなり、1年半ほどでふつりと連載も終わる。連載後半での作風の変化は、学校生活上の苦痛も遠因かもしれないが、その頃に読み始めた漫画誌『ガロ』の影響もあったようだ。

山田ゆうこ名義の作品(84年頃)

高校中退後には、編集者・高杉弾の著作に影響を受け、漫画家をあきらめデザイン系専門学校への進学を目指すようになった、とされている。とはいえそれも、単純に「裏方にまわる」といった意味合いではなかろう。 高杉弾は、編集者とは言っても、自販機本の編集をなども手掛けるような、極めて個性的な文筆家である。これもまたアウトサイダー的なものへの傾倒のあらわれではなかったか。
そして、専門学校進学に必要な大検をクリアすべく受験勉強を始めた山田は、電車の中でも食事中でも、単語を覚えたり、参考書を読んだりと勉強の手を止めず、「食事時くらいやめたら」と親に言われても聞く耳を持たなかった。ここでも彼女は一途であった。しかしその甲斐あって、到底無理だと思っていた親の予想に反し、高三にあたる年の秋、大検に一回で合格を果たす。

88-90 山田花子としての再出発 

デザイン専門学校に入学後も『ガロ』への投稿を続けていたがなかなか採用されず、『ヤングマガジン』への投稿に切り替える。すると、87年、同誌の月間賞に次いで、ちばてつや賞にも入選。翌88年(21歳)には同誌での連載の仕事まで獲得する。
89年には初の単行本『神の悪フザケ』を出版。念願の『ガロ』での連載など、さらなる仕事の依頼も増え、連載をいくつもかかえるようになった。90年には二冊目の単行本『嘆きの天使』を出版。
この頃より、親に相談もなく一人暮らしを始めている。掃除や洗濯の手順を事細かに記したマニュアルを自ら作成するなど、日常の家事をこなすにもそれなりの苦労をしていたようだが、親元を離れたいという願望もまた強かったことがうかがえる。

それでは、こういった再デビュー後の生活は、彼女にとって順風満帆と言えたかどうか。デビュー早々、編集者からの“売れるものを書くように”というプレッシャーはかなりの苦痛で、当時の日記にも恨みつらみが書き綴られている。
経済的には、マンガだけで自活とまではいかず、バイトは併行して続けていた。しかし、バイトはほとんど面接で落とされ、やっとありついた職でも長くて2、3か月、極端な場合はその日のうちに辞めさせられたこともあるほどで、器用な立ち振る舞いは難しいところがあったようだ。

91-92 最期の一年

91年は、俳優としての映画への出演、そして、有名テレビ局でのバラエティ番組出演と、活動の幅をマンガ以外にも広げた年となった。しかし、テレビでの「笑い者」のごとき扱いは彼女にとってはいじめに等しく、いたく傷つき、二度と出まいと決意する。マンガというフィールドにおいても、この頃より、『ガロ』 といった自由な――しかし収入にはつながりにくい――主戦場以外の仕事は断ることが目立ってきた。
そして91年夏頃から、妹を避けるようになったり、メモ帳に何か書き込んでいたり、パーティーに出席しても皆に黙って帰ってしまったりと、周囲の者も心配するような振る舞いも見られてきたという。とはいえ、山田をよく知る家族からすれば、「あの由美のことだから」といった印象で、格別「異常の徴候」とまでは思えなかったようだ。
その頃は、新しいバイト先の喫茶店で働き始めた時期でもあった。とはいえ、そこもまた山田にとって居心地のよい場所ではなかったのだろう。当時の日記にはこうある、「仕事できないのにプライド高いから苛められる…他に行く当てあってやめていく人がうらやましい。」(92年2月)

そして92年2月、これまでで一番長く続いていたそのバイトも解雇となる。そのことは彼女に少なからぬショックをもたらしたようだ。同月の早朝、駅のホームに放心状態で佇んでいるところを警察に保護される。疲れ果てた様子の本人を説得し、家族は実家へ連れ帰った。しかし、解雇された喫茶店に連日通いつめるといった奇異な行動に出たり、実家でも混乱した様子を見せていたりと、精神的な不安定さは明白であった。
もまなく、精神科病院に任意入院。入院時に家族に告げられた病名は「分裂病」であった。
入院後は着実に落ち着きを取り戻したようにも見えた。父曰く、「入院中の由美は、以前のような感情の起伏の激しさがなくなり、何故かとても静かだった」という。ただ、入院中に日々書きとめていた日記には、その静かな表情の裏側の、変わらぬ逡巡が見て取れるだろう――「①何で私だけがこんな目に(みんな苦しいんだから)。②苦しいよォ、助けて(ムダ)。③死んだほうがマシ(オーバー)。」(3月26日)、「何の希望もないけれど、今日も一日生きていてみよう。死ぬよりマシかもしれない。」(4月3日)、「今までの私の人生何だったの。これからど-したらいいのか?」(4月30日)等々。5月になり、退院が近づくにつれ、親から見ても山田の様子はどこか苦しげなものとなり、親には「私が退院したら何をやったらいいと思う?」などと幾度か尋ねてきたという。そして、5月下旬に退院。その翌日夕、自宅近くの高層住宅より身を投げ、自ら命を絶った。享年24。

その後

逝去後にも2冊の山田花子名義の単行本や、裏町かもめ時代の作品などをまとめた編集本も出版されたが、それらの作品以上に注目されたのは、彼女が遺した日記であろう。彼女の部屋から発見された、大学ノートなどに綴られた日記。それを父自らが編集した私家版は、しばらくの間、知人および漫画家関係者の間でのみ読まれていた。その日記が、96年に世に向けて『自殺直前日記』なるタイトルで出版されるや――ちなみに同じ出版社からはあの『完全自殺マニュアル』がその3年ほど前に出版されている――、一躍ベストセラーとなり、山田の名声は生前よりもはるかに広く知れ渡ることとなった。
ただし、それを単なるセンセーショナリズムと見做すならば、おそらく事の本質を見過ごすことになるだろう。寄せられた読者たちの言葉を見ると、いかに多くの人々が、自殺に共感したというより、彼女の苦悩のあり方そのものに共感し、時に勇気づけられさえしたのか、ということが分かる。

II  その作品について

それでは、山田のマンガ作品の世界は、どのようなものであったか。山田は10代半ばで「裏町かもめ」というペンネームで少女漫画誌にてデビューしている。その頃の作品は、その画風も含めて “いしいひさいち風”と評される通り、学校と子供の世界をベースにしたブラックユーモアあふれる4コマ漫画であったが、次第に『ガロ』的と言いたくなるようなシュールな一面を見せるようになる。
しかし、「山田花子」として再デビューしてからの作品は、それらとも大きく趣を異にする。山田はその後もシュールさや空想的要素を取り入れたものなど、新たなパターンにも挑んだが、おそらく、多くの人々の支持を得たのは、学校といった日常のリアルが映し出された作品であったように思われる。 

どのキャラクターにせよ、どこか自信なさげな主人公は、相手に対して強く言えなかったり、相手に合わせようと懸命になるがゆえに、なおのこと負のスパイラルに嵌っていく。居心地の悪さ、いたたまれなさ、そこからにじみだすところの苦笑。そのようなスパイラルが、クラスメイト、教師と生徒、バイト先、交際する男女、親子といった、日常の様々な関係性の中で執拗なまでに反復されている。
それらの作品で、まず強く印象付けられるのは、周囲への「なじめなさ」と、「劣った者」として疎外されることへの恐れではないか。無理して合わせて仲良くなろう・付き合おうとしてみるが、会話はかみあわず・盛り上がらず、「自分といてもつまらないのかな…」などと考えていると、実際、相手にされなくなってゆく。

『世界はウソつき』より

なじめぬ者同士、互いに仲よくしようと言い合っていたのに裏切られる。気を許すと、手のひらを返したように突き放される。 そんな経験ゆえに強まる人間不信。

『MY WAY』より

もっといい加減に思える他の人たちのほうが教師やバイト先の店長に気に入られ、自身は「かわいげがない」とぞんざいに扱われるという理不尽。それでもなお、そんなヒエラルキーの中で、はじかれず生きようとしてしまっていることへの卑下。そういったシーンがたびたび描かれる。

『心の闇シリーズ』より

そして、こういった数々のシーンは、彼女自身の経験をかなりの程度、反映していたようだ。自ら「私の作品は、ドキュメンタリー、日記漫画」と語り、実際、遺された日記には、マンガのネタにそのままなっているエピソードがいくつも見出される。日記にはマンガとして描くときの心情についても記されている。

自分の惨めで情けない姿を漫画に描いて面白がる(自虐ナルシズム)。私の漫画のネタは、過去にキズついたこと、恥ずかしかったことなどの体験が多い (91年10月)

私は、苛められて惨めで情けなくて恥ずかしい目に合うと分かっていてもバイトやめられない。この世界(喫茶店)では何をやっても駄目な私を他者の視点で客観視して、その救いのない絶望的な姿を見ているとだんだん愉快な気分になってくる(「破滅型自虐ナルシズム」)。私は惨めさと情けなさを噛みしめながら&愉快な気分に浸りながら、どうしようもない自分の姿を漫画に描いている。 (91年5月)

これは、裏町かもめ~山田ゆうこ名義での作品には見られなかったアプローチである。「山田花子」への転生、それは単なる作風の変化を超えた、彼女自身の漫画へのかかわり方の変容、と言ってもよいだろう。シニカルな視線で経験をギャグに変えていこうとしつつも、リアルが滲み出てしまっているかのような苦々しい読後感、それは、単なる題材のリアリティではなく、山田の漫画へのスタンスそのものからくるリアルであり、また、それは山田自身が意図的に――そうせずにはいられぬ辛さといったものがあったとしても――選んだアプローチでもあった。

III 日記に見る「他人」との関係性とその苦悩 

山田の生とマンガ作品との間にあるつながりが垣間見えたところで、さらに「他者との関係性」という視点から、彼女の生のあり方について立ち返ってみたい。ここで主に手がかりとしてゆくのは、彼女の遺した日記である。

山田の日記は、彼女の死後、父がアパートを片付けていた折に、押入れの屋根裏から発見されたという。大小二十冊余りのノートに細かい字でびっしり書込まれた日記。内容は単なる日々の出来事の記録には留まらず、制作日記、幼少の記憶や、周囲の人間の分析など、多岐にわたる。メモ魔を自認し、レシートなど手近にある紙にまで書き留めておき、メモからさらに推敲してノートにまとめる、といった作業もしていたようであり、それは「日記」というより思索の軌跡、一個の作品と言ってもよいぐらいなのかもしれない。では、その、クリプトのごとき内奥にしまわれていた言葉たちとは、いかなるものであったか。

私は何処にいても邪魔者。ひねくれ、ひがみ、劣等感は私の命。 (87年1月)

「世の中逆さま」自分以外はみんな敵と思え!全てを疑え!誰も信じるな!
「心配してくれる人」本気にして、本当に頼ったら突き放されて傷つくよ。 (91年6~10月)

一人ぼっちは寂しいので、人と付き合うと私は心が弱いので直ぐ付け込まれてズタボロにされてしまう。友達や恋人や肉親にさえ、私はバカにされ、威張られ、玩具にされてしまう。心が泣いている。  (91年7月) 

…等々。なぜそこまで…と思うような、心の叫びに圧倒される。怒り、自己嫌悪、孤独感。そして、その苦しみの傍らには、常に人間関係をめぐるアンビヴァレンツがあった。

本当に他人のことを心配してくれる人なんていない。「大丈夫?」なんて口先だけ。しかし、本当のこと言うと怒られる。つい信じてしまう。その途端に突き放されて傷つく。
人は元々口先だけで、本当は冷たいものなのに、そう思うと何だか「寂しく」なって人に「優しさ」を求めて傷ついてしまう。 (90年8月)

うっかり表を信じると傷つく。信じないと悪者にされる。この矛盾こそ「生きる苦しみ」の源である。この矛盾からは絶対に逃げられない。人間は元々「残酷で冷酷なもの」なのに「人を悪く思っちゃいけない」という“常識”(世界の嘘)が私を惑わせる。 (90年8月)

この世の仕組み。信じるの図式
人を信じる――裏切られて傷つく――人を信じなくなる――嫌われ者になる――孤独・寂しいから人を信じる――また裏切られる(永久に同じこと繰り返す) (90年8月)

この「人を信じる/傷つく」という往復運動、らせん状の関係性は、彼女の漫画にも、人を替え、場面を替えて繰り返し現れていたものであり、先に見た通り、彼女のマンガの核になっていた、とすら言えるだろう。ただし、日記には他にも、山田が「他人」をどのように捉えていたかをうかがえる記述が多々あり、その独特のニュアンスも含めた理解が必要であると思われる。彼女は日記の中で幾度か「他人という鏡」との表現を使っている。

高一の時、私は自分ではカッコいいと思って、中国の人民服を着て街を歩いてた。通りがかりの女学生がこちらを見て何か囁き合っていた。他人は自己を確認する鏡。「私ってへンなんだ」恥ずかしい!何時も他人の目を気にしている自分が許せない。情けない。 (90年末~91年春)

人は自分を客観視できないので、「他人」という鏡でしか自分を確認することができない。他人の目に映った自分の姿が、客観的な自分の姿であると言える。私は他人から「どーしようもない奴」と思われている。私はダメ人間なのかと思ってしまう。
ヘンだと思われる恐怖をなくすことはできないから、それに怯えながら「自分が一番望むこと」を探して頑張るか(これはとっても辛い)他人の操り人形になるか(これも辛い)どちらか一つしかない。 (90年12月)

一日に一度誰かとしゃべらないと不安になる。怖い。私は「他人」という鏡で自分を確認しないと自分が誰なのか分からなくて不安になる。常識(社会通念)が分からなくなると恥をかく。バカになるのが怖い。でも他人と関わり合うと自我の対立で傷つく。矛盾している。ど-したらいいか?一人で不安に耐えるor互いに傷つけ合う。 (91年1月)

「他人という鏡」とはウィニコットやラカンを想起させるような表現とも言えるが、そこには、他者との相互的な変容、自他の弁証法的な展開といったものは見出し難い。そうではなく、どこまでも「ヘン」「どーしようもない奴」などといった、傷つきでしかないような批判を返す存在としてあるのが、「他人という鏡」である。
自己中心的になることなく自己愛を維持するためには「他人という鏡」を必要とし、それが「社会」の機能でもあるが、ひきこもり状態にはこのような鏡はなく、あるのは自分の顔しか映し出すことのない「からっぽの鏡」だけである――そのように斎藤環は、全く同じ語を用いて、ひきこもりの「病理」について語っていた。それに倣うならば、山田の言う「他人という鏡」もまた、まさに「からっぽの鏡」のようなものであったと言えようか。また、同じく「他人」なるものに関連して、山田の日記には「想像上の他人」なるものも頻出する。それは例えばこういった用いられ方をしている。

「今までの人生返してくれ」想像上の他人「自分で選んだんでしょ」突き放される。くやしい。 (91年5月)

生きているのは辛い、悲しい、やるせない。でも死ぬのは怖い。苦痛はイヤだ。想像上の他人「当り前でしよ。何甘ったれてんの」八方塞がり。結局私は、つまらない、何の取柄もないどーしようもない奴(世間にとって)として一生終わるしかない。 (91年5月)

想像上の他人=自意識「イヤな事実から目を逸らすのは見苦しいよ!」余計恥ずかしくなった。 (91年3月)

「他人という鏡」が、より具体化されたイマージュとなったかのような「想像上の他人」。それがどこまで実体性を持った「声」であったのか、それは分からない。ただ、これは、統合失調症などで典型的にみられるような、超越的に先駆する他者のようなものかと言えば、そのようなニュアンスもまた欠いている。「超自我的」とは言えなくもないが、それ以上に、世俗的であり、それはどこまでも現実的・経験的な他者の残響とでもいうべきものではなかったか。その「想像上の他人」の成り立ちを自己分析しながら描いている箇所を見ると、なおのことそのような印象が強まる。

私は生まれつきバカでドン臭い。私は出発点で負わされた「定」に従って、何時、どんな場でも失敗して周りにバカにされる運命になっている。運命に逆らうとカルマを背負わされてもっと惨めになるので、私はその場では自分が悪い、自分が間違ってると思うことで、身を守ってきた。しかし、本心を抑圧し、ごまかして生きていると“心の暗闇”を作ってしまう。
想像上の他人A「意気地なし。弱虫」
想像上の他人B「それがあんたの運命なんだよ」
休み時間なしで、心の暗闇に住みついた想像上の他人が私を責め立てる。“その場”を取り繕えても、“心の世界”は取り繕えないから、過去に取り繕ったことで作ったカルマが現在まで追いかけて来る。時が経つに従って、「過去のカルマ」はドンドン増えていく。心の暗闇がドンドン深く広くなっていく。私はこの心の暗闇がすっご〜く怖い。心の暗闇からの声「意気地なし」(もっと強くなれ!)からも「運命なんだよ」(受け入れろ!)からも、逃げようとして身動きできなくなる。 (91年6月)

山田は悪意や敵意を他者や世界に感じ取らずにはいられなかった。といっても、それは、「信じる」と「傷つく」との間でのループ、ダブルバインドにあって、他者とは完全なる「悪」ではなく翻弄してくるような「悪フザケ」であり、白か黒かの二分ではなく、不透明なグレーに塗りこめられた世界である。それでもなお「他人という鏡」にむきあわずにはいられないとき、傷つきは「心の闇」「想像の他人」の声として蓄積してゆく。このような他者との関係性における悪循環を抱えつつも、それをぎりぎりの「自虐ナルシズム」としてひきつった笑いに転化していたのが、山田のマンガであった、と言える。

IV 最期の作品『4ツ葉のクローバー』をめぐって

それでは、このような山田の生とマンガとの関係をふまえつつ最期の作品に接するとき、そこにははたして、「分裂病」の痕跡を見出すことができるのだろうか。
『4ツ葉のクローバー』なる作品を完成させたのは、入院からほんの2か月後、いまだ入院中であった時期のことである。それは二つのエピソードからなる4ページの小品で、いずれも小学生ぐらいの少年が主人公となっている。後半(その2)は少年と家族とのやりとりを描いたものであり、前半(その1)は、これから詳述する、忘れ物をした少年の教室内でのやりとりを描いたものである(以下、『4ツ葉』)。この作品は、過去の自らの作品『忘れもの』(おそらく88年頃の雑誌掲載、以下「オリジナル」と呼ぶ)のリメイクであり、ストーリーやせりふ、長さはほぼ同じである。そうであるだけに、そこに見出される差異からなおのこと、この間での彼女自身の変化をうかがい知ることもできるように思われる。『4ツ葉』もオリジナルも2ページの構成で、教科書を忘れた少年が、他の生徒にチクられ、教師に怒られるが、それをまた他の生徒から慰められる、というストーリーになっている。

『4ツ葉のクローバー・その1』
『忘れもの』

では、この『4ツ葉』のうちに、何を見てとるか。
精神科医・石川元は、山田花子に関する病跡学的考察の中で、『4ツ葉』には 「発症後」の描画の特徴として「省エネルギー」「パースペクティブの歪み」「(コマ割りによる登場人物の)顔の切れ方」といったものが見出されると指摘している。
他方、かつては山田を担当する編集者であり、死後の日記の出版にも携わった赤田祐一は、このような作風の変化を「投薬のせいでだと思う」と語るにとどめた。
しかし、そういった、統合失調症なり、その治療薬なり、といったものの影響をここに読み取るべきであろうか。 

1. 画風の変化について

まず、画風の変化に目を向けてみよう。細い線による書き込みの多い描き方から、ポップさを増した太めの線での描き方への変化は徐々に見られていたものであるが、『4ツ葉』でさらなる変化と言えるのは、描き込みの極めて少ない白い背景である。それについて石川は「エネルギーの低下を伴う」統合失調症の発症後ゆえの「省エネルギー」だとみなしたが、そのような見方には容易には与しがたい。

その理由を示すために、ここで、もう一つ別の作品と比較してみたい。亡くなった92年に描かれた『ガード下の靴みがき』(以下、『靴みがき』)という小品がある(図5) 。これは、喫茶店の常連の靴みがきのお婆さんがパチンコの景品をおみやげにもってくるが、ウェイター達には鬱陶しがられている、といったシーンを描いたものだ。

『ガード下の靴みがき』

掲載雑誌の編集長であった南原四郎は、この原稿を受け取ったときのやりとりについて、興味深いエピソードを披露している。最後のコマには、初稿の段階では「全然わかってない」との一文が書き込まれていた。そのエンディングの独特さを見て南原がつい「考えてやってんですか?」と尋ねたところ、山田はむっとして「もちろん、考えに考え抜いてやってます」と答えた。しかし翌日、彼女から電話があって、最後のコマの文字を全部削ってくれと言ってきたという。南原は山田のマンガについて「作者として言いたいことを、一旦全部書いてから、その言いたい部分をバッサリ切っているのではないか」と推察している。「「わかってない」ことを「わからせる」ことを放棄したそのコマの余白」は、まさにそのことを示しているというわけだ。
この作品については、当の山田も次のようなコメントを日記に書き記していた。

誰の立場で画いても作者の想像(ナルシズム)でしかない。(…)/→基本的に一番自己主張の少ない読者の立場をソーゾーして画くことにした。/本当のおもしろさは作者と同じ心の持ち主でないとわからない。  (92年1月16日)

そして、このようなスタンスは何もこの“発症”間際の時期に急に始まったものではなさそうで、それ以前の日記にも類似の、それも、より具体的な記述を見つけることができる。

どんなに自分を捨てて描いても、どっかで(無意識に)自己正当化してしまう。作者の主人公に対する思い入れ、感情移入(主人公=可哀相な人=作者)になってしまう。 (…) 商業路線とは全く無縁のところで、本当に自分に見えている、感じている「本物の世界」を描きたい。 (91年7月)

これからどう描くか?
何にもない漫画、ただ描いてあるだけの、眠くて、つまらなくて、退屈な漫画を目指す。
①「形式」読む人を納得させるために最低限必要な設定とピリオドだけ決めといて、後はただエピソード並べるだけの、ドキュメンタリー漫画、レポート、観察日記、実況中継漫画。(私の漫画には「言いたい事」なんかない。ただ「こんな奴がいる。こんなことがあった」ってことだけ)
②決してふざけない、笑わせようとしない。
私のギャグ感覚は殆どの人に相手にされない、理解されない。呆れられるの覚悟してただ置いておくだけ。解って貰おうとしない。
③「カメラの視点」で、登場人物以外の視点で、できるだけ感情を押し殺して描く。  (91年8月)

であるとすれば、このようなアプローチの延長線上に『4ツ葉』を置くこともできるだろう。クラス内の他の生徒や教師らのカットを説明的に差しはさむことはやめ、少年と隣に座る少女にのみフォーカスし、じっとその二人にカメラを向け続ける、そのとき背景すら遠のいてゆく…――そんなショットとして捉えるならば、『4ツ葉』のアプローチは、エネルギーの衰えや、ましてや薬物の影響などではなく、意図的に選ばれた「スタイル」、あるいはスタイルの「洗練」として理解しうるのではないか。

2. 他人の変容

そして、さらに細部になるが、「他者との関係性」について注目すべき差異もある。それは、教科書を忘れた生徒のことを教師に告げ口するのはどの生徒か、という点である。オリジナルでは、告げ口する生徒と、最後に慰めめいた言葉をかける生徒とは同じ人物であるが、他方、『4ツ葉』では、それぞれ別の人物にその役割が割り振られている。これは、小さいようでいて、作品全体のトーンにも関わる大きな変更であろう。

オリジナルにおいては、同級生は、吊るし上げつつ慰撫するかのような両義性を具現した存在であり、「信じる」と「傷つく」との間のループ、ダブルバインドといった、山田のマンガにおける典型的な展開となっている。しかし、『4ツ葉』では、悪意を感じさせる告げ口する生徒は遠景化・匿名化されており、隣に座っている生徒による慰めのシーンで終わるという、穏やかなラストとなっている。他者に翻弄されるがままで苦々しく終わるのではなく、「悪しき他者」から「良き他者」が明確に区別されたドラマとなっており、「自虐ナルシズム」の色合いは後退していると言えるだろう。

石川はこの告げ口をめぐるカットについて、「告げ口する声の源が明確でない」「ベタ塗りの人物の奇妙さ」といった点を指摘し、オリジナルとの比較から、「状況を伝達する表現力や筋を想像するパワーが、この時期著しく劣っていたと推測できる」と結論付けている。しかし「声の源」がベタ塗りの人物であることは明らかであろうし、ベタ塗りというかたちでの人物の省略も、ごく普通のマンガの技法のひとつに過ぎないだろう。

ここで重要なのは、告げ口の声の主の顔が不明瞭になったことではなく、アンビヴァレントな翻弄する他者から「信じうる良き他者」の部分が切り出されたということのほうである、と考える。
このように書くと、「それは他者を両義的な存在として受け入れられず、良い対象と悪い対象とに分離するような振る舞い、要するにスプリッティングであって、防衛の水準としては後退なぐらいなのではないのか」と問う向きもあるかもしれない。しかしそれに対しては、そもそも山田は「両義的な存在を受け入れる」という水準にまで到達していたと言えるのだろうか、と逆に問うてみる必要があると思われる。
成長の過程において、他者、そして、世界の両義性の受容・止揚と、自己の同一性の獲得とはコインの両面のようなところがあるだろうが、前節でみたように山田の場合、他者との間で被った傷や緊張を、本人の表現で言えば「心の闇」「想像の他人」という形で丸ごと内に抱え込むことでしか処理しきれなかったふしがある。だとすれば、『4ツ葉』において、それ以前の作品のように苦々しい行き詰まり・悪循環のまま終わるのではなく、ささやかながらでも最後に受容・救済のモメントが表現されたというのは、一つの「成長」のサインとみなせるのではないか、とすら言いたくなる。

しかし逆に、そのような成長に向かう“はざま”にある時期だからこそ、“緩やかな発症”を疑わせるのではないか、といった異論もありうるだろう。
顕在“発症”とされるエピソードの前から、日記には、苦しみから逃れられないことを「カルマ」と捉え、前世から来世までも悲観など、ある種の誇大性をもった世界観が綴られていたりと、「未来」に向けた極端さ、その尖端性は際立っていた。 そして、“発症”とみなされた行動も、アピールというにはあまりにも方向性を欠く行動ではあった。それらが既に、精神病の「過程」であった可能性は否定はしうるものではない。あるいは、そうではなかったとしても、ここに何かしらの「危うさ」を感じずにはいられないのはたしかだ。

次稿では、そのような精神的な<危機>のあり方がいかなるものだったのか、という点に関してたどってみたい。

文献  

石川元: 特殊漫画家・山田花子の逆説. こころの時限爆弾. 岩波書店 1998.
南原四郎: 緊急特集・追悼山田花子へのコメント. ガロ1992年8月号. 青林堂 
日刊SPA! 没後22年を経てなお支持される、漫画家・山田花子の生き様. (赤田祐一インタビュー) 2014年4月6日付.  https://nikkan-spa.jp/615694 扶桑社
大泉実成: 消えたマンガ家. 太田出版 1996.
斎藤環: 改訂版 社会的ひきこもり. PHP研究所 2020.
高市俊晧: 五月二十四日十九時三〇分―山田花子一周忌を迎えて. ガロ1993年7月号. 青林堂   
山田花子: ガード下の靴みがき. 月光文化3 92年2月号. 南原企画
山田花子: 自殺直前日記 改(鉄人文庫).  鉄人社 2018.
編集部に寄せられた読者から山田花子への手紙. 山田花子. 自殺直前日記 完全版. 太田出版 1998.
山田花子: みんな燃えてしまえ 心の闇シリーズ.  花咲ける孤独. 青林堂 1993.
山田花子: MY WAY.  嘆きの天使. 青林堂 1990.
山田花子: 魂のアソコ.  青林堂 1996.
山田花子: 天上天下唯我独尊「世界はウソつき」.  花咲ける孤独. 青林堂 1993.
山田花子: 4ツ葉のクローバー・その1.  からっぽの世界. 青林工藝舎 1998.
山田花子: 忘れもの. からっぽの世界. 青林工藝舎 1998.

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