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大学受験を迎える君へ

当時起きていたこと、考えていたこと

お父さんの経験に少し触れようと思う。もしかしたら参考になるから。僕の高校生活というのはそれはそれは無目的な毎日だった。自分が何をやりたいのか、何をすべきなのかといったことは全く見えず、ただ毎日ご飯をたべ、息を吸い、学校に行っていたように記憶している。成績も一学年235人中200番目くらい。あるテレビ番組を見るまでは。

高3になった1989年のこと、中国では天安門事件が起こり、東欧では社会主義の崩壊が始まっていた。受験も迫る12月あたりだったか、ルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊し、その内乱の様子がそのままNHKで放送された。最後にはチャウシェスク夫妻の処刑後の姿まで映し出されていた。

多感な高校生にとってはとても衝撃的で、当時奈良の西大寺で暮らしていた僕にはあまりに別世界の話だった。東欧で僕とほとんど年齢の変わらない若者が銃を手に取り政府軍相手に戦っていた。ベルリンの東西ドイツの壁を壊そうとする若者の映像が流れ、彼らは歓喜に沸いていた。

社会とはこんなにも崩壊していくものなのか、自分が住んでいる環境がいかに恵まれたものなのか、ある意味では奇跡に近いのではないか。ほんの数十年前まで日本は軍事国家で中国大陸や太平洋で戦争をしていた。比較的日本史だけは好きだったので、中でも明治以降の日本の成り立ちを詳しく勉強していたので、司馬遼太郎の著作なんかも読みつつ、国を造る難しさも体感していた。要は、今は奇跡の暇の中にあり、人間が生きていくというのは自分の環境との戦いの連続の中にあるのではないか。そこに少しでも貢献する自分にならなければならないといけないのではないか、そういう思いに駆られた。

外交官にでもなろうか。そう思い立ったのが1990年1月、高校卒業を数か月後に控えたときだった。大学受験ということを考えたときには、当然始動が遅すぎる。外交官になれそうな大学をすべて受け、すべて落ちた。

世に役に立つ人間はそれなりの頭脳をもっていなければダメだろうなと思い、まずはそれを証明する大学という切符を得ようと思った。1990年頃はまだまだ学閥意識も強い時代だったし、いわゆる一流大学に入学しないととても外交官になれそうになかったわけで。

1990年3月の東京の駿台予備校に通い始め、まずは自分の分からないことはすべてわかろうと強く決意。朝一番に誰もいない教室に電気をつけて入り、知らない単語を徹底して覚え、間違った問題はすべて解きなおし二度と間違えないようにしようと取り組んだ。思うように勉強時間が確保できている気がしなかったので、実績分析と称して自分の一日の行動を30分単位で1か月記録。意外と勉強時間が短かったのを発見。何をしているかわからない空白の時間がたくさん発見された。徹底的に勉強時間で埋めた。そうやってひた向きにやっていくと秋頃には東大以外はA判定をとれるようになってきた。

僕は一橋・早稲田・慶應と受けようと思った。その辺なら東大でなくて外交官になれそうだったし。1991年2月17日、慶應商学部の受験を終えた。ホテルに泊まり、翌日の総合政策学部の受験を終えて自宅に帰ると、なぜか駅に叔母が車で迎えに来てくれていた。

「あなたのお父さんが亡くなったのよ」

何を言われたのか分からなかった。自宅にはたくさんの喪服姿の人が溢れていて、それから何があったのかほとんど覚えていない。ただいつの間にか僕の大学受験は終止符を打ち、ズシリと重いものだけが僕の肩に圧し掛かってきた。父が僕の家庭の平和の要だったことだけはわかった。母はこれからの生活をどうするか悩んでいるように見えた。遺産のおかげか僕は大学に行かせてもらえることになったけれど、それでも奈落の底に叩き落され、「お前には何ができるんだ?」とずっと聞かれている気がしていた。外交という遠いい先の話じゃない。そこにある家族をどう支えるのか?という話だ。

そうやって僕の大学生活は始まった。

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