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【自責って言葉がキライ、だから自己決定性と表現する】☆他人に自責を求めた時点でそれは既に他責疑惑

自責って言葉がずーっとキライなんです。言ってることは真っ当だと思うし間違ってるとも思わないんですけど・・・でもキライなんです。笑

似たようなニュアンスなら「自己決定性」を使いたい。コッチの言葉は好きなんです。とあるアドラー関連の本を読んでいたときに出てきた唐突にフレーズでした。自分にはコッチが合ってると感じた、そんな出会いです。

しかし、一体なんで僕は「自責」がキライで「自己決定性」が好きなんだろう?

ココを丁寧に掘り下げていくと単に「言葉から受ける印象」以上に大切な要素があると気付きました。

さてさて、「自責」と「自己決定性」の間にある違いとは?、今日のダラダラトーク、はじまりはじまり〜


01.自責も他責も「言葉の印象」がキライマン


字面から受ける印象だけなんですが、「責」って言葉が入ってる時点でなんだかイヤだなぁと感じていたんです。

これは完全に僕の捉え方ですが、この文字から受ける印象は「責任」ではなく「責める」です。

「責任」は自らが負うものですが、「責める」だと他者による行為を連想させますよね。ホントは「主体性」から切り離してはいけない表現なのにです。

もしかしたら、この言葉を使っている時点で主体性からは離れてしまうのかな・・・と思うのです。自分から意識が離れるのに主体的であることを求める言葉。なかなか捉えどころが難しい。

他方で、自己決定性はとても主体的です。なんたって「自分で決める」ですからね。そんな主体性を感じる言葉だから好きなのかな?と思っていました。

・・・でも、それだけじゃなかったんです。


02.自責は過去を見て、自己決定性は未来を見る


自責と自己決定性って二つの言葉をじーっと見比べてみて気づいたことがあります。

自責は「過去」を見る言葉であるのに対し、自己決定性は「未来」を見る言葉だということです。

自責を「良いことも悪いことも関係なく、起こった結果を自らの責任として受け止める」ことだと捉えると、これは「結果」に対するスタンスです。

「結果」とは言い換えれば「過去」。仮に「未来の結果」であったとしても、その結果を受け止めるのはもう少し先の未来。つまり「自責であるスタンス」は「結果」よりも先の未来です。

逆に表現すると「自責であるスタンス」は常に過去を見て抱くスタンスになります。結果が存在することを前提にして成立するスタンスとも言えるでしょう。

ある意味で、決して未来を見た表現とは言えない。それが「自責」という言葉と僕は感じています。


対して、未来の行為を自分で選択するのが自己決定性です。

自己決定性は「決定」そのものにフォーカスしています。「決定」した先にあるのは未来だけです。

いま決定するにしても、未来に決定するにしても、あるいは過去に決定していたとしても、「決定そのもの」にフォーカスするのであれば、その先に存在する時間軸は「決定から先の未来」だけです。

その決定がどんな影響を及ぼすかをすべて自らに受け止めながら決める。自己決定性は行為であり、自責は姿勢であるとも言えそうですね。

_211005自責と自己決定性

僕はいつも未来を見て主体的にモノゴトを決めていきたい。もちろん、その結果起こる事象は自分の責任として受け止める。だからこそ、未来を見て行為を決める「自己決定性」が好きなんだと気付きました。


03.言葉としての「自責」が広がった背景に、「ケジメ」を求める文化がある?


たぶんこれは僕たちに染みついた文化なんだと思います。それこそ江戸時代の切腹なんてまさに象徴的でしょう。

僕たちは何かの結果に対して(特によくない状態になった結果に対して)、過去を清算する儀式を必要とするのでしょう。ある意味では、その儀式をもって手打ちとする。でも、その儀式が無ければ決して過去から離れない。

ケジメをつける。スジをとおす。この概念は社会で共有している一つの価値観ですよね。他の国や社会がどうかは分かりません。文化人類学に詳しいお方〜、教えておくれ〜

例えば、誰かが不祥事を起こしたときにひたすらその誰かへ社会が謝罪を求めるのも同じかもしれません。その不祥事によって被害を受けた当事者のことは置き去りにして、ただただ不祥事を起こした誰かの「儀式」を求める。

「自責」って言葉が今のように広がったのも、そんな背景があるのかもしれませんね。過去を見るスタンスと言える「自責」とは、結果に対する儀式を欲する価値観とリンクしているとも言えそうです。

ただ、この文化を一言で「ダメだ」と断罪するつもりもないんです。過去を悪と捉え、そのカウンターとして今の自分を正当化する行為は、社会にますます増える分断と同じ思考を辿っているのだとも感じます。

とは言え、僕は自責って言葉がキライです。笑
「ダメだ」と「キライ」は根本的に異なります。自分の中で「キライ」はアリ。笑

この感情はもう仕方ない。でも同時に、そういう文化の中にいたこともフラットに受け止める。でも、そんな自分だからこそ使うべき言葉について考えたいと思うのです。


04.「人をどうする」ではなく「自分がどうある」


自責という言葉が使われるシーンを見ていてずーっと違和感があったことがあります。

それは「他人に自責を求める」使い方。自責でありなさい、他責は見苦しい、そんな論調を色んなシーンで見かけます。

でも、そもそも自責を他人に求める時点で他責的なスタンスじゃない?と思うのです。

自責を他人に求めた時点で自分も他責になっている。そうなると、他責な人しかその場には存在しなくなる。「それぐらい自分で決めなさい」は既に自分を他責思考に陥れている。そう感じるんです。

だから、自責も自己決定性も人に求めるものではなく自分の姿勢を指し示すものと捉えています。「人をどうする」ではなく「自分がどうある」ための言葉ですね。他人に対してこの言葉を向けた時点で本質からは逸れる。そう思うようにしています。

「自責」を使う誰かを否定するつもりは毛頭ありません。その人はその人なりの考え方で言葉を選んでいるはずだから。僕は僕なりの考え方と、僕なりの好き嫌いで「自責」は使わずに「自己決定性」を使います。


05.自己決定性はトーチング


とは言え、現実社会ではそう悠長なことも言ってられない。本音では他者に自己決定性を求めたいシーンも当然あります。

しかしここで単に「自己決定性を持て」と表現しても構図としての矛盾があるのは変わりません。そこを何とか突破できないモノかと考えるのです。

そこで参考になるのが「トーチング」という概念です。ティーチングでもコーチングでもなく「トーチング」です。

このトーチとは「松明」です。そのまま聖火リレーなんかのトーチを思い浮かべてもらってもよいでしょう。松明を持つ人、火を掲げる人ですね。

周りは暗闇に囲まれている環境で、ただトーチを持つ人の掲げる火がメラメラと輝いている。そんなシーンを想像してみてください。

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トーチを持つ人は他人に対して何かを求めません。ひたすら「自分が、こうある」を実践しているだけです。

しかし、トーチを持つ人の周りにいる人にとっては強い道標になります。何しろ周りは暗闇で、どうすればよいのか分からない。そんな状態でもトーチを持つ人は揺らがずに立っているんです。

古い言い方をすれば「背中で見せる」とも表現できます。その人の姿勢・スタンス・あり方が他者に影響を及ぼしていく状況ですね。

ティーチングやコーチングが他者への働きかけと言えるのに対し、トーチングは自らのあり方で影響を広げていくアプローチです。

「背中で見せる」と言うと誤解を招くかもしれませんが、トーチを持つ人のスタンスは言葉にして語ってもよいのです。むしろ語った方がいい。

しかしその語り方は「自分はこうある、こうしている」という主体的かつ自分に向いた表現です。

「あなたが、こうしなさい」ではなく「わたしは、こうある」。この語り方の違いによってトーチになるかどうかが分かれます。

だから、組織においては「トーチである人」を的確に見つけること。その人の「トーチたる姿勢」を感じやすく・触れやすくすること。そのときに構成員に向けた「あなたは」のメッセージにしないこと。この辺りを実践するのが基本のステップではないでしょうか。

考えてみたら僕の周りには無意識でトーチたる人たちがいるんです。その人たちは自分のあり方で人を惹きつけます。トーチに触れると主体的な行動変容が起こるんですよね。しかも、誰に言われたことでもないから自分で考えて自分で決定する。この決め方のプロセスのおかげか、ジワっと続く決定になると感じています。

全てのシーンでトーチングが有効だとはモチロン言いません。ただ、自己決定性を他者に持ってもらいたいのであればトーチングが真っ当な構図だと思うのです。


06.未来を見据えながら自己決定する


決定したことの責任を持つのは当然でしょう。しかし責任を持つことそのものは目的ではありません。目的にたどり着くための基本的なスタンスです。

なら、目的はどこにあるのか。僕は決定によって道筋が見える未来に置いていたい。だから自己決定性という言葉を使います。

僕たちは知らず知らずのうちに「使う言葉」によって影響を受けているんだと感じています。どんな言葉を選んで使っていくかに自分のあり方が現れる。

もし、自分の「無意識」が持っている言葉に対する解釈によって、自分の意思が誘導されるのだとしたら、言葉の解像度を高めておかないのはちょっと怖いですよね。

だから、自分が使う言葉ひとつひとつに対して少しずつでもいいから解像度を高めていく。無意識の解釈によって思考が誘導されないようフラットに立つ。

言葉の解釈は「自分なりに」でイイと思います。ただし、解像度を高く言葉の持つ意味を考える。そのうえで、自分がどんな言葉を使っていくかが「あり方」の一つ。そう思います。

そんな、僕なりの「自責」と「自己決定性」の違いでした。ドーン!!


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