21良識の証明

【事業妄想】悪意ある行動の排除が難しいのなら、良識に従った人間の行動を可視化する仕組みを

タイトル画像はリスペクトを伴ったうえでのパロディです。そもそも月刊じゃない。

事業妄想とは事業構想にも至らないホヤホヤした妄想です。アウトプットすることで自分の考え方を整理する、あるいは誰かの発想の呼び水になることを期待しています。

今日は「いまを生きる」私たちの日常にある数々の問題。そのうちの一つについての解決策を妄想してみました。


01.現代社会が抱える大きな問題


誰でも自分の意志を世界に向けて広く発信できるようになった現代、しかしそこに匿名性という性質が加わることで発生する問題は多くの方が認識していることでしょう。

他社の尊厳を踏みにじる行為、人格の否定、ヘイト、差別、脅迫。悪意がカタチを変えた得体の知れない脅威の影響力を見るにつけ、人に対する絶望感にも近い感情を社会に巻き起こしてしまっているとも感じています。

実際、そのような攻撃性のある行動に出る人は全体の割合からすればごく少数。そんな少数の行為・言動に振り回される必要はあるのだろうか、という考え方は至極真っ当です。落合陽一さんの記事がこの点については分かりやすい。

しかし、振り回されてしまうのが現実。振り回されてしまっているのが現代社会と言えてしまうと感じています。

強い表現は、たった一人のたった一言だけで相手を突き刺すこともある。そして、全体から見ればごく少数であったとしても、その攻撃性が一つのカタマリになったときに抱える暴力性は脅威以外の何物でもありません。

行動の否定と人格の否定には大きな境界線があります。人格の否定はどんな背景があろうとも成すべきではない。これは世界が成立するための前提として認識しています。


02.悪意に対する社会の取ろうとする対策・方向性


このような事態を防ごうとする取組みとしては、主に3つの方向性が実践されています。

・法による規定
・プラットフォーマーによる悪意の排除
・他者の尊厳を守ることに対する啓発

まず、法のもとの保護。これは特に説明不要でしょう。また、SNSのプラットフォーマーは運用ポリシーにおいて悪意に類する発信を許していません。アカウントの凍結などはその代表的な対応策です。そして、社会においては広く「インターネット上で他者の尊厳を傷つける行為」に対する影響と行動倫理を啓発しています。

しかし、なかなか成果を挙げているとは言いづらいのではないでしょうか。これらは、悪意を発する側に対するアプローチです。そして、悪意を発する側はあの手この手で悪意を発しようとします。

そもそも、SNSなどでの発信とはそれが頻繁であればあるほど「発信している方向性の自分を強めていくもの」ではないでしょうか。

前向きな発信を続ければ前向きな人格が形成されていき、他者に対する攻撃に類する発信を続ければ攻撃性が強化されていく。「言葉が人格をつくる」を体現する、自分自身に対する一種の洗脳であると感じています。

そのような状況で、悪意を発する側に対するアプローチを試みてもイタチごっこではないか、発想の転換が必要ではないかと感じたことが出発点でした。


03.良識に従った行動を取る人を可視化する


悪意を行動に移す人を炙り出す、ネットワークから排除するのは限界があります。だから逆に「良識に従った行動を取る人」を可視化することができればよいのではないかと感じたことが、今回の妄想の出発点です

大多数の人が「良識に従った行動を取る人」であることは間違いありません。「悪意を行動に移す人」は全体のほんのわずか。もし、ここが可視化できるとするならば「良識に従った行動を取る人」の発信や発言のみがフィルタリングなどの手段をとおして我々に届くようになればよいのです。

しかし、可視化すると言ってもどのように?

時代がもう少し進めばAIの進化などで可視化も可能かもしれません。ですが、私はAIなどのテクノロジーを活用した可視化には否定的です。

例えば自身の持つSNSアカウントの発言からAIが自動的に本人の倫理観などを拾い上げる仕組みすら近い未来には実現するかもしれません。しかし、そのような行為は「監視社会」をイメージさせます。私自身もおそらく強い抵抗を感じるでしょう。

プラットフォーマーに自らの情報を受け渡すことに対する忌避感は強まっています。実態として、我々はすでに多くの個人情報を提供してしまっているとは理解していたとしても、例えそれが自身の良識を証明するものだとしても、プラットフォーマーの側からそれを監視されることを望む人は少ないと思います。

よって、「良識に従った行動を取る人」を可視化するためには、さらにもう一歩発想を飛躍させる必要があります。


04.自らが良識に従った行動を取る人間であるという宣言


誰かから「この人は良識に従って行動する人だ」と評価してもらうわけではありません。それは特定の個人でもなければ、AIなどのテクノロジーでもありません。

自らが良識に従って行動をするということを、自らで宣言するのです。
「私は決して他者の尊厳を踏みにじらない」という誓いを、わざわざ立てるのです。

大多数の人はふわっと「善人である」と認識されています。しかし、それを自らが表明しているわけではありません。「悪意による行動」が排除できない現代社会では、逆に自分自身が「良識に従った行動を採る」人間であると宣言することの意味は大きいと感じます。


05.宣言を証明するための仕組みと組織


「私は良識に従った行動を取る」と宣言した人間を認証・証明する団体が存在することを、あるいは世界規模での統一した何らかの仕組みが生まれることを妄想し望んでいます。

決して他者の尊厳を踏みにじらないという誓いを立て、その行為を担保するものとして自らが何者であるのか(個人情報)を己の意志でその団体に預ける。団体は見返りとして、その個人が良識に従った行動を取る人間であるという認証を与えます。

例えば私がこの宣言をする場合、宣言に対する同意の表明と併せて免許証などに類する個人情報を管理団体ないしは仕組み側に対して提供し、管理団体側はそれを認証します。

SNS大手プラットフォーマーの協力が必要になるでしょうが、その認証を可視化するバッジのようなモノが各SNS上で付与されるとさらに良いでしょう。

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管理団体は特別なことをしているわけではありません。良識に従った行動を取ると宣言した人の情報を受け取り・持っておくことが基本の事業。その団体に宣言した人の監視をしてほしいわけではありません。自分自身が「良識に従った行動を取る」という宣言を受け取る器が必要であるだけです。

だから、当然「自分自身の個人情報」を世に公開するわけではなく、それは管理団体が保有しておくだけです。宣言自体は本名でなければ出来ませんが、宣言した人間の本名がSNSで公開されるわけではありません。SNS上では本名でないニックネームを使っていたとしてもアカウントに紐づいて他者の尊厳を傷つけないということが分かればよいのです。

例え本名を名乗っていないアカウントであったとしても、その認証バッジがあれば「自らの情報を管理団体に預け、良識に従った行動を取ると宣言した人」であることが分かるのです。

管理団体に提供する情報は以下のイメージです。

・本人を証明する情報(免許証やパスポートなど)
・登録しているすべてのSNSアカウント情報
・宣言書、または規範を守ることに対する同意書

管理団体は基本的にその宣言者の情報を管理しておくだけですが、宣言者がその規範に対して反する行為を行った場合には、その認証を削除して再登録を許可しないといった対策を取ることが考えられます。


06.悪意の重量に対抗する、良識の視覚化


世界全体の潮流として、個人情報をいかに守るかという点はヨーロッパの動きなどを見ても明らかです。これから先、このような流れはさらに進むことでしょう。一人一人の情報に対する価値が高まっているという状況であるとも考えることができます。

ということは、自らがある種のリスクを背負って個人情報を活用することが「一つの証明」として機能するのではないかと考えたのです。守られるべき情報であるからこそ自らの意志でそれを提供することに対する価値も高まっていく。

ここでの個人情報の提供目的は「自らの身分を証明するもの」としての機能に限定するため、管理側がその情報をビジネスに活用しないという前提が必須になります。

個人情報を預ける先の管理規範、ハッカーの脅威に対するセキュリティのあり方、活動に対する世間の認知と信頼、多くの前提が成立するということが条件にはなるでしょうが、自らの情報を提供することで「良識に従って行動する人間である」ということが一つの証明になる社会が訪れたのなら、私は行動するでしょう。

いまの社会は、少数の「悪意をカタチにしてしまう人」が巻き起こす行動によって「多数の良識ある行動を取る人」がある種の敗北を喫しているような状況と感じてしまっています。誰かの悪意を恐れ、良識に従った意志を表明することさえ恐れてしまう。

しかし、大多数の「良識に従う人」がその意志を明確にすれば、社会は「多数の良識ある行動を取る人」の元に戻ってくるのではないでしょうか。

私は少数の悪意が形成する社会の重苦しさに抵抗したい、ほとんどの人は良識に基づいて行動を取っているのに、カタチになって見えるのは悪意だけ、だから良識もカタチにすれば圧倒的な物量の差で社会が前向きに変化すると感じているのです。


07.想像される問題点は、モノゴトの本質ではないかもしれない


本当に、こんなコトを実行しようとするならば立ち塞がる問題は多いでしょう。

そんな団体ができたとして信用できる組織になるのか、複数アカウントを持っているけど隠して運用していたらどうするのか、悪意のある人間は悪意を持って認証を取得しようとするのではないか、宣言者が本当にアカウントを運用している本人であるとプラットフォーマー側で紐づけできるのか、そもそも何が「他者の尊厳を踏みにじる行為なのか」という定義ができるのか。山のように課題はありそうです。

この妄想の本質は「権威のある団体を作って、信用される認証制度を作りましょうね」ということではありません。「良識に従って行動する人を可視化する」ために「自らが良識に従って行動する人間であるという宣言」という手段を採っているということです。

だから、管理団体でなくても良いのかもしれません。他にも方法があるかもしれません。


08.「可視化する」ことで「仕組み」が生まれる


さて、「良識に従って行動する人」を可視化する最大の意味とは。

それは、「悪意を行動に移す人」を排除する取組みよりも「良識に従って行動する人」を可視化する取組みの方が、社会を前進させる原動力になる可能性を持っていると感じるトコロです。

もちろん、「悪意を行動に移す人」の排除は必要です。許されざる行為に対して毅然と立ち向かうこと社会の、私たちの責任でもあります。しかし、そこにばかり目が向いていて根本的な解決が見られないのであれば、視点の転換が効果的だと感じるのです。

例えば先に挙げたようなSNS上での認証が実際に現実化したと考えてみましょう。

そこでは、「良識に従って行動する人」のバッジがついたアカウントのみがフィルタリングされて閲覧可能になります。仮に社会全体のうち良識に従って行動している大部分の人がこのバッジを取得するような状態を実現できていたとすれば、そのバッジがついたアカウントだけを閲覧しておけばよいのです。ほとんどの人は良識に従って行動する人なのですから。

そうなると、認証を取った人間のアカウントしか影響力を持たなくなります。その他のアカウントについては「良識に従った行動を取る人と宣言しない」という状態ですので、そこから出てくる「悪意としての行為」については無視しやすくなるでしょう。

良識に従った行動を取る人間の言しか影響を与えない社会であるならば、悪意を行動として移す人間はその行為に意味を感じなくなるかもしれません。いくら自分が悪意を行動として移しても「なしのつぶて」。そして、影響を与えようとするのであれば良識に従った行動を取るという誓いを立てなければいけないのです。

特定の思想に社会を染め上げたいというモノとは次元が異なります。あらゆる思想が共存する社会を考えるために、私たちは最低限何を守らなければいけないのかということを、常に社会全体で問いかけるための取組みです。だから「自ら誓いを立てる」のです。

そして、自ら誓いを立てる人が増えれば増えるほど、その行動はより強化されていくでしょう。前半で述べたとおり「言葉は人格をつくる」ものです。

常識・モラルといった概念に頼りすぎて自ら言語化してこなかった「人間としての基本的あり方」を敢えて宣言することで思考を深めるのです。社会に存在するあらゆる価値観が共存するあり方を模索していくために、他者の尊厳を守る自分であると誓う行為がスケール感を伴えば、必ず世界を前進させるでしょう。

何が他者の尊厳を傷つける行為なのか。この定義は難しく、また決して「できない」ものなのかもしれません。その定義は時代の空気を反映してフワフワと境界線を変え続けていくのでしょう。

しかし、決して「定義できないもの」であると分かってはいても、その時代が求める「良識」の正体を定義しようとする行為、境界線の解像度を高めようとする行為は、どんな時代を生きる人にも必要なものではないでしょうか。

普段、常識やモラルといった言葉で抽象的に表現されている概念だからこそ、私たちはその境界線を考えることを避けてしまってはいないかと感じます。もっと議論が必要で、議論をする行為こそが人間的な営みの一つだとも言えるでしょう。


09.「悪意」そのものは誰もが持ちうるもの


悪意を持つ人と、悪意を行動に移す人は別。私だって、大っぴらには言えない他者に対する悪意に類する感情を抱いたことも当然あります。想いを抱いてしまうことは人間である以上避けられません。しかし、その悪意が行動に反映されない限りは善人と何ら変わりはありません。

悪意を抱いてしまったときに、それを表に出さないようにするのが「理性」。何を行動に出し、何を行動に出すべきでないかを判断するのが「良識」でしょう。

そして、その「理性」と「良識」のあり方を自らに問いかけることを、現代社会の「悪意がカタチになる脅威」に晒されている私たちは取り組まなければいけないのだと感じています。

常識・モラルという言葉の解像度を高めていく、常識・モラルという言葉の捉え方が他者とどう異なるのかを理解する、常識・モラルという言葉が社会でどんな存在であるべきなのかを議論する。

その意識と行動に繋げるための、啓発ではなく「仕組み化」です。社会において一定の信頼を得ようとするならば(SNSの認証バッジを獲得しようとするのなら)、自ら誓いを立てなければいけません。

自ら誓いを立てるという行為自体が、この領域に対する思考を深める第一歩なのです。


10.到底実現が遠そうな妄想を語る意味は

未だ何かを成し遂げたとは言い難い、一人の人間の妄想にどんな価値があるのでしょうか。私は、誰しもが「アイデア」を語る社会になることが、最も世界を前進させる原動力になると感じています。

この地球には、社会には、コミュニティには「課題」だらけ。しかし「課題」の存在を語るだけでなく、粗いものでよいからもっと「解決策」を語りたいのです。

解決策を見出そうという大きなうねりが、世界を前進させる原動力になると信じています。粗いアイデアの集合体が、誰かのひらめきに対する呼び水になったり、思いもしない結合へと繋がる可能性があるはず。

だから「アイデア自体に価値はない、実現しなければ意味がない論」はキライです。この主張自体が「アイデアを生むこと」に対する原動力を奪っているとも感じています。

確かに現実化されないアイデア自体は、現実化されたものと比較したときに意味を成しているようには見えません。しかし、アウトプットされたアイデアはそれが実現されなくとも下敷きとして機能していることは考えられます。そして、アイデアは常に生み出す環境になければ多くの人からうねりとなって生み出されはしないのです。

世の中のアウトプットを見てください。圧倒的に「今までの経験知」と「現在・近い未来の課題」を語っていることが多くないでしょうか。その先に何を生み出すのかというアイデアが、本当はもっと増えてほしいのに。

だから、アイデアを語る世の中であってほしいのです。荒唐無稽でも、現実を見ていないと言われようと、勉強不足だと言われようと、アイデアを生もうとする行為は止めるべきではありません。その行為の連続が、今よりステキな未来を作ると信じています。

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