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自分の「できる」は誰が決める?【できるの相対化】


\絵を描けるひと、手を挙げて〜!/


というと、大概オトナは手が挙がりません。

実際にオトナが集まる場所で聞いてみたこともあります。見事なまでに挙がらないんです。誰も「うまく描ける人」なんて聞いてないですよ。これを「下手な絵が描ける人」と聞くと途端に手が挙がります。

さてさて、そんなことを皆さんに聞く僕は絵が描けますよ。

この「うろ覚えピカチュウ」を見てください。絵が描けますよ。

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どうも僕らは「絵が描ける」=「うまく絵が描ける」だと思い込んじゃってるようです。

でも、子どもに同じ質問をしてみたらどうでしょうね。ウチのムスコもムスメも何の躊躇いもなく手を挙げると思います。自信満々に絵が描けると言うと思います。

同じような例で「ピアノ弾けるか」に対するアメリカ人のリアクションを挙げているTwitterのツイートを見つけました。どうやら向こうの人は鍵盤を鳴らすことができるなら「自分は弾ける」と判断する人が多いようです。

僕らはどうでしょうね?、絵よりさらにハードルが上がりそうです鍵盤を鳴らすことができる“程度”の自分で手を挙げることができるのかどうか。まぁ、その勇気がある人は少ないでしょう。

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とは言え、冷静に「できる」という言葉を見つめてみてください。

字句通りの言葉の意味で捉えてみましょう。「できる」か「できないか」で言えば「できる」はずです。

ほとんどの方は「絵を描くこと自体」はできるはず、いまコレを読んでいるあなたも絵を描くことができますよね?、上手いとか下手とか評価を除けば「できる」ですよね?

僕らは「できる」って言葉に対して勝手に「他者が評価するぐらい」って枕詞をつけてしまっています。「できる」に対する意識は「自分がどう思うか」より「他者が評価する」に囚われているわけです。言い換えると、「できる」は相対化しているんです。

_210705できるの判断


なぜ「できる」を相対化して考えてしまうのか。一つは教育に原因があるのは間違いないと思います。

「評価」という軸が入ることによって、自分の「できる」と「できない」に線が引かれていく。誰にでも経験のあることだと思います。幼い頃は好きだった絵を描くことや歌うことが、いつの間にか周りの上手い人と「比べる」ことによって嫌いになっていく経験。

自分自身の記憶を引っ張り出しても、シンプルに絵を描くことが好きだった幼いときの感性が、いつの間にか「上手い人」と比較されることでキライになっていった記憶がある。あぁ、そう言えば写生大会の絵を体育館に一斉に貼り出すイベントがイヤだったなぁ。すぐ近くにある上手いヤツの絵との差を見せつけられてる気がして。

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でも、教育だけに責任を押し付けるのも違うと思うんですよね。もう一つの原因は僕らの心にもある。

僕が自信満々に「オイラ絵が描けるよ!、ホラっ!」って見せてきたのがさっきの「うろ覚えピカチュウ」だったらどう思いますかね?

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「描けへんやんけ!」とか「どこがやねん!」ってツッコミを入れてしまうでしょう。

いや、こんなことを言ってる自分も同じですよ。「できる」って言った人から「うろ覚えピカチュウ」が出てきたら反射的にツッコミを入れてしまいそう。そう考えてしまう思考が染み付いているわけです。

誰かの「できる」に対して、勝手に相応のレベルを求めてないでしょうか。

サッカーできます。勉強できます。パソコンをできます。Excelできます。デザインできます。こんな言葉に勝手に「他者が評価するぐらい」って枕詞をつけて見ていないでしょうか。

「できる」に対して「他者が評価するぐらい」を求めるならば、枕詞を他者側が定義して伝えないとコミュニケーションが成立しないはずなんですよね。でも、その枕詞を省略しちゃう。勝手に相手に期待をかけちゃってるわけです。

で、その挙句「えっ!?、出来るって言ったのにそんなレベルなの?」とか思っちゃうんです。自分もですよ、自分も思っちゃってる、実際。

でも、そんな状況が当たり前になると「できるか?」を問われた側は「他者が評価するぐらい」じゃないと「できる」とは言わないですよね。「できる」と思い込んでいた自分に対して「できないじゃん」って評価がくだされる日々、そりゃ「できる」とは思わなくなる。

問われる側は別のタイミングでは問う側にも回る。自分が「できる」に対して他者の評価を基準にする思考であるならば、問われる側であっても問う側であっても結果は同じ。そして、どんどんその連鎖が続いているのがいまの社会とも言えるのかな。

自分も含めて、「できる」に他者評価が入ってくるところ、ちょっとずつ変えていきたいなぁ。そう思うのです。

とは言え、いきなり「できる」をそれぞれの主観に変えていくのも、染み付いた思考を変える難しさもあるんですよね。そう考えないように!と思ってソレが変えられるなら苦労しない。意識することは大切ですけどね。

だから問いかけの工夫です。絵だったら「下手な絵を描ける人」、歌だったら「オンチに歌える人」、演技だったら「棒読みで演じられる人」、意識的にそう問いかけることで色んな人の中にある「できるの固定観念」を問い直していく。

ちょっと間を取っているような中途半端な着地なようですが、こんなアプローチかな?とか考えています。ベターかどうかはわかりません、他にもアプローチがあるかもしれない。ちょっと考えていきたいテーマなんです。


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