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吉川英治『三国志』新聞連載版(4)張飛卒

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(一)

  白馬は疎林の細道を西北へ向つて驀(まつ)しぐらに駆けて行つた。秋風に舞ふ木の葉は、鞍上の劉備と芙蓉の影を、征箭(せいや)のようにかすめた。
 やがて曠(ひろ)い野に出た。
 野に出ても、二人の身を猶(なほ)、箭(や)うなりがかすめた。今度のは木の葉のそれではなく、鋭い鏃(やじり)を持つた鉄弓の矢であった。
「オ。あれへ行くぞ」
「女を騎(の)せて——」
「では違ふのか」
「いや、やはり劉備だ」
「どつちでもいゝ。逃がすな。女も逃がすな」
 賊兵の声々であつた。
 疎林の陰を出た途端に、黄巾賊の一隊は早くも見つけてしまつたのである。
 獣群の声が、鬨(とき)を作つて、白馬の影を追ひつめて来た。
 劉備は、振向いて、
「しまつた!」
 思はず呟いたので、彼と白馬の脚とを唯一の頼みにしがみついてゐた芙蓉は、
「あゝ、もう……」
 消え入るやうに顫(をのゝ)いた。
 万が一つも、助からぬものとは観念しながらも、劉備は励まして、
「大丈夫。大丈夫。唯(たゞ)、振り落されないやうに、駒の鬣(たてがみ)と、私の帯に、必死でつかまつておいでなさい」と、いつて、鞭打つた。
 芙蓉はもう返事もしない。ぐつたりと鬣に顔を俯伏せてゐる。その容貌(かんばせ)の白さは戦(をのゝ)く白芙蓉の花そのままだつた。
「河まで行けば。県軍のゐる河まで行けば! ……」
 劉備の打ちつゞけていた生木(なまき)の鞭は、皮が剝げて白木になつてゐた。
 低い土坡(ドハ)の蜿(うね)りを躍り越えた。遠くに帯のやうな流れが見えて来た。しめたと、劉備は勇気をもり返したが、河畔まで来てもそこには何物の影もなかつた。宵に屯(たむろ)してゐたという県軍も、賊の勢力に怖れをなしたか、陣を払つて何処かへ去つてしまつたらしいのである。
「待てツ」
 驢に騎(の)つた精悍な影は、その時もう五騎六騎と、彼の前後を包囲して来た。いふまでもなく黄巾賊の小方等(ら)である。
 驢を持たない徒歩の卒共は、駒の足に続き限(き)れないで、途中で喘いでしまつたらしいが、李朱氾を初めとして、騎馬の小方(小頭目)たち七、八騎は忽(たちま)ち追ひついて、
「止れツ」
「射るぞ」と、呶鳴(どな)つた。
 鉄弓の絃(つる)を離れた一矢は、白馬の管囲に突き刺つた。
 喉に矢を立てた白馬は、棹立ちに躍り上がつて、一声(イツセイ)嘶(いなな)くと、だうと横ざまに仆れた。芙蓉の身も、劉備の体も、共に大地へ抛(はう)り捨てられてゐた。
 そのまゝ芙蓉は身動きもしなかつたが、劉備は起ち上つて、
「何かつ!」
 と、さけんだ。彼は今日まで、自分にそんな大きな声量があらうとは知らなかつた。百獣も為に怯み、曠野を野彦(のびこ)して渡るやうな大喝が、唇(くち)から無意識に出てゐたのである。
 賊は、恟(ぎよ)つとし、劉備の大きな眼の光に愕(おどろ)き、驢は彼の大喝に、蹄をすくめて止つた。
 だが、それは一瞬で、
「何を、青二才」
「手抗(むか)ふ気か」
 驢を跳びおりた賊は、鉄弓を捨てゝ大剣を抜くもあり、槍を舞はして、劉備へいきなり突つかけて来るもあつた。
[18]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月15日(金)付夕刊掲載

(二)

  何(ど)ういふ悪日と凶(わる)い方位を辿つて来たものだらうか。
 黄河の畔から、ここ迄(まで)の間といふもの、劉備は、幾たび死線を彷徨した事か知れない。これでもかこれでもかと、彼を試さんとする百難が、次々に形を変へて待構へてゐるやうだつた。
「もうこれ迄」
 劉備も遂に観念した。避けようもない賊の包囲だ。斬死せんものと覚悟を定めた。
 けれど身には寸鉄も帯びてゐない。少年時代から片時も離さず持つてゐた父の遺物(かたみ)の剣も、先に賊将の馬元義に奪(と)られてしまつた。
 劉備は、併(しか)し、
「たゞは死なぬ」
 と思ひ、石ころを摑むが早いか、近づく者の顔へ投げつけた。
 見くびつてゐた賊の一名は、不意を喰つて、
「呀(あ)ツ」
 と、鼻ばしらを抑へた。
 劉備は、飛ついて、その槍を奪つた。そして大音に、
「四民を悩ます害虫ども、もはや免(ゆる)しは置かぬ。涿県の劉備玄徳が腕のほどを見よや」
 と云つて、捨身になつた。
 賊の小方、李朱氾は笑つて、
「この百姓めが」
 と半月槍を揮つて来た。
 元より劉備はさして武術の達人ではない。田舎の楼桑村で、多少の武技の稽古はした事もあるが、それとて程の知れたものだ。武技を磨いて身を立てる事よりも、蓆を織つて母を養ふ事のはうが常に彼の急務であつた。
 でも、必死になつて、七人の賊を対手(あひて)に、やや暫くは、一命を支へてゐたが、そのうちに、槍を打落され、蹌(よろ)めいて倒れた所を、李朱氾に馬のりに組み敷かれて、李の大剣は、遂に、彼の胸いたに突きつけられた。
 ——おゝういつ。
 すると、……いや先刻(さつき)からその声は遠くでしたのだが、剣戟のひびきで、誰の耳にも入らなかつたのである。
 遙か彼方の野末から、
「——おゝういつ。待つてくれい」
 呼ばはる声が近づいて来る。
 野彦のやうに凄い声は、思はず賊の頭(かうべ)を振向かせた。
 両手を振りながら韋駄天と、此方(こなた)へ馳けて来る人影が見える。その迅い事は、まるで疾風に一葉の木の葉が舞つて来るやうだつた。
 だが瞬く間に近づいて来たのを見ると、木の葉どころか、身の丈七尺もある巨漢(おほをとこ)だつた。
「やつ、張卒(チヤウソツ)ぢやないか」
「さうだ。近頃、卒の中に入つた下ツ端の張飛だ」
 賊は、不審さうに、顔見合せて云ひ合つた。自分等(ら)の部下の中にゐる張飛という一卒だからである。餘(ほか)の大勢の歩卒は、騎馬に追ひつけず皆、途中で遅れてしまつたのに、張卒だけが、たとひ一足遅れたにせよ、この位の差で追ひついて来たのだから、その脚力にも、賊将たちは愕(おどろ)いたに違ひなかつた。
「なんだ、張卒」
 李朱氾は、膝の下に、劉備の体を抑へつけ、右手(めて)に大剣を持つて、その胸いたに擬しながら振向いて云つた。
「小方。小方。殺してはいけません。その人間は、わしに渡して下さい」「何? ……誰の命令で貴様はそんな事をいふのか」
「卒の張飛の命令です」
「ばかつ。張飛は、貴様自身ぢやないか。卒の分際で」
 と、云ふ言葉も終らぬ間に、さう罵つてゐた李朱氾の体は、二丈もうへの空へ飛んで行つた。
[19]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月16日(土)付夕刊掲載

(三)

  卒の張飛が、いきなり李朱氾を抓(つま)み上げて、宙へ投げ飛ばしたので、
「やつ、こいつが」
 と、賊の小方たちは、劉備もそつちのけにして、彼へ総掛りになつた。
「やい張卒、何で貴様は、味方の李小方を投げ居つたか。又、おれ達のすることを邪魔だてするかつ」
「ゆるさんぞ。ふざけた真似すると」
「党の軍律に照らして、成敗してくれる。それへ直れ」
 犇(ひしめ)き寄ると、張は、
「わはゝゝゝゝ。吠えろ/\。胆をつぶした野良犬めらが」
「何。野良犬だと」
「さうだ。その中に一匹でも、人間らしいのが居るつもりか」
「うぬ。新米の卒の分際で」
 喚(をめ)いた一人が、槍もろ共、躍りかゝると、張飛は、団扇(うちは)のやうな大きな手で、その横顔を撲(は)りつけるや否や、槍を引ツ奪(た)くつて、蹌(よろ)めく尻を強(したた)かに打ちのめした。
 槍の柄は折れ、打たれた賊は、腰骨が砕けたやうに、ぎやつともんどり打つた。
 思はぬ裏切者が出て、賊は狼狽したが、日頃から図抜けた巨漢(おほをとこ)の鈍物と、小馬鹿にしてゐた卒なので、その怪力を眼に見てもまだ、張飛の真価を信じられなかつた。
 張飛は、さながら岩壁のやうな胸いたを反(そ)らして、
「まだ来るか。むだな生命(いのち)を捨てるより、おとなしく逃げ帰つて、鴻家の姫と劉備の身は、先頃、県城を焼かれて鴻家の亡びた時、降参と偽つて、黄巾賊の卒に這入(はい)つてゐた張飛といふ者の手に渡しましたと、有態(ありてい)に報告しておけ」
「あつ! ……では汝は、鴻家の旧臣だな」
「今気が着いたか。此方は県城の南門衛少督を勤めてゐた鴻家の武士で名は張飛、字(あざな)は翼徳と申すものだが無念や此方が他県へ公用で留守の間に、黄巾賊の輩(やから)の為に、県城は焼かれ、主君は殺され、領民は苦しめられ、一夜に城地は焦土と化してしまつた。——その無念さ、いかにもして、怨みをはらしてくれんものと、身を偽り、敗走の兵と化けて、一時、其方共の賊の中に、卒となつて隠れてゐたのだ。——大方馬元義にも、又、総大将の兇賊張角にも、よく申しておけ。いづれ何時(いつ)かはきつと、張飛翼徳が思ひ知らせてくるゝぞと」
 雷(いかづち)のやうな声だった。
 豹頭環眼、張飛がさう云つて刮(くわ)つと睨(ね)めつけると、賊の小方等(ら)は、足も竦(すく)んでしまつたらしいが、まだ衆を恃(たの)んで、
「さては、鴻家の残兵だつたか。さう聞けば猶(なほ)の事、生かしてはおけぬ」
 と、一度に打つてかゝつた。
 張飛は、腰の剣も抜かず、寄りつく者を把(と)つては投げた。投げられた者は皆、脳骨を砕き、眼窩は飛び出し、瞬くうちに碧血の大地惨として、二度と起き上がる者はなかつた。
 劉備は、茫然と、張飛の働きをながめてゐた。燕飛龍鬂(エンピリウビン)、蹴れば雲を生じ、吠ゆれば風が起るやうだつた。
「何といふ豪傑だらう?」
 残る二、三人は、驢に飛びついて逃げ失せたが、張飛は笑つて追ひもしなかつた。そして踵(きびす)を回(めぐ)らすと、劉備のはうへ大股に近づいて来て、
「いや旅の人。えらい目に遭ひましたなあ」
 と、何事も無かつたやうな顔して話しかけた。そして直ぐ、腰に帯びてゐたる二剣のうちの一つを外し、又、懐中(ふところ)から見覚えのある茶の小壺を取出して、
「これは貴郎(あなた)の物でせう。賊に奪(と)り上げられた貴郎の剣と茶壺(チヤコ)です。さあ取つて置きなさい」
 と、劉の手へ渡した。
[20]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月17日(日)付夕刊掲載

(四)

 「あ。私のです」
 劉備は、失くした珠が返つて来たやうに、剣と茶壺(チヤコ)の二品を、張飛の手から受取ると、幾度も感謝を表して、
「すでに生命(いのち)もない所を救つて戴いた上に、この大事な二品まで、自分の手に戻るとは、何だか、夢のやうな心地がします。大人(タイジン)のお名前は、先程聞きました。心に銘記しておいて、御恩は生涯忘れません」
 と、言つた。
 張飛は、首(かうべ)を振つて、
「いや/\徳は孤(こ)ならずで、貴公がそれがしの旧主、鴻家の姫を助け出してくれた義心に対して、自分も義を以てお答へ申したのみです。ちやうど最前、古塔の辺りから白馬に騎(の)つて逃げた者があると、哨兵の知らせに、こよひ黄巾賊の将兵が泊つていた彼(あ)の寺が、すはと一度に、混雑に墜ちた隙をうかゞひ、夕刻見ておいた貴公のその二品を、馬元義と李朱氾の眠つてゐた内陣の壇からすばやく奪ひ返し、追手の卒と共にこれ迄(まで)馳けて来たものでござる。貴公の孝心と、誠実を天もよみし賜うて、自然(ジネン)お手に戻つたものでせう」
 と、理由(わけ)をはなした。張飛が武勇に誇らない謙遜なことばに、劉備はいよ/\感じて、感銘の餘り二品のうちの剣の方を差出して、
「大人、失礼ですが、これは御礼として、貴郎(あなた)に差上げませう。茶は、故郷(くに)に待つてゐる母の土産なので、頒(わか)つ事はできませんが、剣は、貴郎のやうな義胆の豪傑に持つて戴けば、むしろ剣そのものも本望でせうから」
 と、再び、張飛の手へ授けて言つた。
 張飛は、眼をみはつて、
「えつ、此品(このしな)をそれがしに、賜はると仰つしやるのですか」
「劉備の寸志です。どうか納めておいて下さい」
「自分は根からの武人ですから、実をいへば、この剣の世に稀な名刀だといふ事は知つてゐますから、欲しくてならなかつた所です。けれど、同時に貴公とこの剣との来歴も聞いてゐましたから、望むに望めないで居りましたが」
「いや、生命(いのち)の恩人へ酬いるには、之(これ)を以(もつ)てしても、まだ足りません。しかも剣の真価を、そこ迄、解つて居て下されば、猶更(なほさら)、差上げても張合ひがあり自分としても満足です」
「さうですか。然(しか)らば、他ならぬ品ですから、頂戴しておかう」
 と、張飛は、自身の剣をすぐ解捨(ときす)て、渇望の名剣を身に佩いていかにも欣(うれ)しさうであつた。
「ぢやあ早速ですが、又賊が押返して来るにきまつてゐる。それがしは鴻家の御息女を立てゝ、旧主の残兵を集め、事を謀る考へですが——貴公も一刻もはやく、郷里へさしてお帰りなさい」
 張飛のことばに、
「おゝ、それでは」
 と、劉備は、芙蓉の身を扶けて、張飛に託し、自分は、賊の捨てた驢をひろつて跨つた。
 張飛は、先に自分が解捨てた剣を鞍上の劉備の腰に佩かせてやりながら、
「こんな剣でも帯ておいでなされ。まだ、涿県までは、数百里もありますから」
 と、云つた。
 そして張飛自身も、芙蓉の身を抱いて、白馬の上に移り、名残り惜気(をしげ)に、
「いつか又、再会の日もありませが、では御機嫌よく」
「おゝ、きつと又、会ふ日を待たう。貴郎も武運めでたく、鴻家の再興を成し遂げらるゝやうに」
「ありがとう。では」
「おさらば——」
 劉備の驢と、芙蓉を抱へた張飛の白馬とは、相顧(あいかへ)りみながら、西と東に別れ去つた。
[21]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月19日(火)付夕刊掲載

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