吉川英治『三国志』新聞連載版(5)桑の家
(一)
涿県の楼桑村は、戸数二、三百の小駅であつたが、春秋は北から南へ、南から北へと流れる旅人の多くが、この宿場で驢を繫ぐので、酒を売る旗亭もあれば、胡弓を弾(ひ)く鄙(ひな)びた妓(をんな)などもゐて、相当に賑はつてゐた。
この地は又、太守劉焉の領内で、校尉鄒靖といふ代官が役所をおいて支配してゐたが、何分、近年の物情騒然たる黄匪の跳梁に脅やかされてゐるので、楼桑村も例に洩れず、夕方になると明るいうちから村端(はづ)れの城門をかたく閉めて、旅人も居住者も、一切の往来は止めてしまつた。
城門の鉄扉が閉まる時刻は、大陸の西厓(サイガイ)にまつ赤な太陽が沈みかける頃で、望楼の役人が、六つの鼓(コ)を叩くのが合図だった。
だから此辺(このへん)の住民は、そこの門の事を、六鼓門と呼んでゐたが、今日も亦(また)、赤い夕陽が鉄の扉(と)に映(さ)しかける頃、望楼の鼓が、もう二つ三つ四つ……と鳴りかけてゐた。
「待つて下さい。待つて下さいつ」
彼方から驢を飛ばして来たひとりの旅人は、危(あやふ)く一足ちがひで、一夜を城門の外に明かさなければならない間際だつたので、手をあげながら馳けて来た。
最後の鼓の一つが鳴らうとした時、からくも旅人は、城門へ着いて、
「おねがひ致します。通行をおゆるし下さいまし」
と、驢をそこで降りて、型の如く関門調べを受けた。
役人は、旅人の顔を見ると、
「やあ、お前は劉備ぢやないか」
と、云つた。
劉備は、こゝ楼桑村の住民なので、誰とも顔見知りだつた。
「さうです。今、旅先から帰つて参つたところです」
「お前なら、顔が手形だ、何も調べはいらないが、いつたい何処へ行つたのだ。今度の旅は又、ばかに長かつたぢやないか」
「はい、いつもの商用ですが、何分、どこへ行つても近頃は、黄匪の横行で、思ふやうに商(あきなひ)もできなかつたものですから」
「さうだらう。関門を通る旅人も、毎日減るばかりだ。さあ、早く通れ」
「ありがたう存じます」
再び、驢に騎(の)りかけると、
「さうさう、お前の母親だらう、よく関門まで来ては、けふもまだ息子は帰りませぬか、今日も劉備は通りませぬかと、夕方になると訊ねに来たのが、此頃すがたが見えぬと思つたら、煩病(わづら)つて寝てゐるのだぞ。はやく帰つて顔を見せてやるがよい」
「えつ。では母は、留守中に、病気で寝てをりますか」
劉備は遽(にはか)に胸さわぎを覚え、驢を急がせて、関門から城内へ馳けた。
久しく見ない町の暮色にも、眼もくれないで彼は驢を家路へ向けた。道幅の狭い、そして短い宿場町は直ぐとぎれて、道はふたゝび悠長な田園へかゝる。
ゆるい小川がある。水田がある。秋なのでもう村の人々は刈入にかゝつてゐた。そして所々に見える農家の方へと、田の人影も水牛の影も戻つて行く。
「ああ、わが家が見える」
劉備は、驢の上から手をかざした。舂(うすづ)く陽(ひ)のなかに黒くぽつんと見える一つの屋根と、そして遠方から見ると、まるで大きな車蓋のやうに見える桑の木。劉備の生れた家なのである。
「どんなに自分をお待ちなされて居ることやら。……思へば、わしは孝養を励むつもりで、実は不孝ばかり重ねてゐるやうなもの。母上、済みません」 彼の心を知るか、驢馬も足を早めて、やがて懐(なつか)しい桑の大樹の下まで辿りついた。
[22]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月20日(水)付夕刊掲載
(二)
この桑の大木は、何百年を経たものか、村の古老でも知る者はない。
沓(くつ)や蓆(むしろ)を製(つく)る劉備の家——と訊けば、あゝあの桑の樹の家さと指さすほど、それは村の何処からでも見えた。
故老が言ふには
「楼桑村という地名も、この桑の木が茂る時は、まるで緑の楼臺のやうに見えるから、この樹から起つた村の名かもしれない」
との事であつた。
それはともかく、劉備は今、漸(やうや)く帰り着いたわが家の裏に驢を繫(つな)ぐとすぐ
「おつ母さん、今帰りました。劉備です。劉備ですよ」
と、広い家の中へ馳け込むやうに這入(はい)つて行つた。
旧家なので、家は大きいが、何一つあるではなく、中庭は、沓を編んだり蓆を織る仕事場になつて居り、そこも劉備の留守中は職人も通つてゐないので、荒れたまゝになつてゐた。
「オヤ。何(ど)うしたのだらう。燈火(あかり)もついてゐないぢやないか」
彼は召使の老婆と、下僕(しもべ)の名を呼びたてた。
ふたり共、返辞もない。
劉備は、舌打しながら、
「おつ母さん」
母の部屋をたゝいた。
劉備か——と飛びつくやうに迎へてくれるであらうと思つてゐた母の姿も見えなかつた。いや母の部屋だけにたつた一つあつた箪笥も寝台も見えなかつた。
「や? ……何(ど)うしたのだらう」
茫然、胸さわぎを抱いて、佇んでゐると、暗い中庭のはうで、かたん、かたん——と蓆を織る音がするのであった。
「おや」
廊へ出てみると、そこの仕事場にだけ、淡暗(うすぐら)い灯影がたつた一つ提(かか)げてあつた。その灯(ひ)の下に、白髪の母の影が後ろ向(むき)に腰かけてゐた。たゞ一人で、星の下に、蓆を織つてゐるのだつた。
母は、彼が帰つて来たのも気がついて居ないらしかつた。劉備が縋りつかんばかり馳け寄つて
「今、帰りました」
と顔を見せると、母は、びつくりしたやうに起つてよろめきながら、
「オゝ、劉備か、劉備か」
乳呑み児でも抱きしめるやうにして、何を問ふよりも先に、欣(うれ)し涙を眼にいつぱい溜めた儘(まゝ)、暫(しば)しは、母は子の肌を、子は母親のふところを、相擁して温(ぬく)め合ふのみであつた。
「城門の番人に、おまへの母親は病気らしいぞといはれて、気もそぞろに帰つて来たのですが、おつ母さん、何(ど)うしてこんな夜露の冷える外で、今頃、蓆など織つていらつしやるのですか」
「病気? ……あゝ城門の番人さんは、さう云つたかも知れないね。毎日のやうに関門までおまへの帰りを見に行つてゐたわたしが、この十日ばかりは行かないでゐたから」
「では、御病気ではないんですか」
「病気などはしてゐられないよ、おまへ」
と、母は言つた。
「寝台も箪笥もありませんが……」
劉備が問ふと、
「税吏が来て、持つて行つてしまつた。黄匪を討伐するために、年年軍費が嵩(かさ)むといふので、ことしは途方もなく税が上り、おまへが用意しておいただけでは間に合はない程になつたんだよ」
「婆やが見えませんが、婆やはどうしましたか」
「息子が、黄匪の仲間にはいつてゐるという疑ひで、縛られて行つた」
「若い下僕は」
「兵隊にとられて行つたよ」
「——噫(あゝ)! すみませんでしたおつ母さん」
劉備は、母の足もとに、ひれ伏して詫びた。
[23]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月21日(木)付夕刊掲載
(三)
詫びても/\詫び足らないほど、劉備は母に対して済まない心地であつた。けれど母は、久しぶりに旅から帰つて来た我が子が、そんな自責に泣き愁(かなし)む事は、かへつて不愍やら気の毒やらで、自分の胸も傷むらしく、
「劉備や、泣いておくれでない。何を詫(わび)ることがあるものかね。お前のせゐではありはしない。世の中が悪いのだよ。……どれ粟でも煮て、久しぶりに、ふたりして晩のお膳を囲まうね。さだめし疲れてゐるだらうに、今、湯を沸かしてあげるから、汗でも拭いたがよい」
と、蓆機(むしろばた)の前から立ちかけた。
子の機嫌をとつて、子の罪を責めない母の餘りなやさしさに、劉備は猶(なほ)さら大愛の姿に額(ぬかづ)いて
「勿体ない。私が戻りましたからには、そんな事は、劉備がいたします。もう御不自由はさせません」
「いゝえお前は又、あしたから働いておくれ。稼ぎ人だからね、婆やも下僕(しもべ)も居なくなつたのだから、台所の事ぐらゐは、わたしがしませうよ」
「留守中、そんな事があらうとは、少しも知らず、つい旅先で長くなつて、思はぬ御苦労をかけました。さあ、こんな大きな息子が居るんですから、おつ母さんは部屋へ這入(はい)つて、安楽に寝臺へ寝てゐて下さい」
と、云つて劉備はむりに母の手を誘(いざな)つたが、考へて見ると、その寝臺も税吏に税の代りに持つて行かれてしまつたので、母の部屋には、身を横たへる物もなかつた。
いや、寝臺や箪笥だけではない。それから彼が灯(あか)りを持つて、臺所へ行つて見ると、鍋もなかつた。四、五羽の鶏と一匹の牛もゐたのであるが、さうした家畜類まで、すべて領主の軍需と税に徴発されて、目ぼしい物は何も残つてゐなかつた。
「こんなに迄(まで)、領主の軍費も詰まつて来たのか」
劉備は、身の生活を考へるよりも、もつと大きな意味で、暗澹となつた。
そして直ぐ、
「これも、黄匪の害の一つのあらはれだ。あゝ何(ど)うなるのだらう?」
世の行末を思ひやると、彼はいよいよ暗い心に閉(とざ)された。
物置をあけて、彼は夕餉にする粟や豆の俵を見まはした。驚いた事には、多少その中に蓄へておいた穀物も干肉も、天井に吊しておいた乾菜(カンサイ)まできれいに失くなつてゐるのだつた。——もう母に訊くまでもない事と、彼は又、そこでも茫失してゐた。
すると、むりに部屋へ入れて休ませておいた母が部屋の中で、何か小さい物音をさせてゐた。行つて見ると、床板を上げて、土中の瓶の中から、わづかな粟と食物を取出してゐる。
「……ア。そんな所に」
劉備の声に、彼女はふり向いて、浅ましい自分を笑ふやうに、
「すこし隠しておいたのだよ。生きてゆくだけの物はないと困るからね」
「…………」
世の中は急転してゐるのだ。これはもう凡事(ただごと)ではない。何億の人間が、生きながら餓鬼となりかけてゐるのだ。反対に、一部の黄巾賊が、その血をすゝり肉をくらつて、不当な富貴(ふつき)と悪辣な栄華を恣(ほしいまゝ)にしてゐるのだ。
「劉備や……。灯りを持つておいで、粟が煮えたよ。何もないけれど、二人して喰べれば、美味(おいし)からう」
やがて、老いたる母は、貧しい卓から子を呼んでゐた。
[24]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月22日(金)付夕刊掲載
(四)
貧しいながら、母子は久しぶりで共にする晩の食事を楽(たのし)んだ。
「おつ母さん、あしたの朝は、きつと歓んで戴けると思ひます。こんどの旅から、私はすばらしいお土産を持つて帰つて来ましたから」
「お土産を」
「ええ。おつ母さんの、大好きな物です」
「ま。何だらうね?」
「生きてゐるうちに、もいちど味(あぢは)つてみたいと、いつか仰有(おつしや)つた事がありましたらう。それですよ」
母を楽ませる為に、劉備も、それが洛陽の銘茶であるといふことを、暫(しばら)く明かさなかつた。
母は、わが子のその気持だけでも、もう眼を細くして歓んでゐるのである。焦(じ)らされてゐると知りながら
「織物かへ」
と訊いた。
「いゝえ。今も云つたとほり、味(あぢは)ふ物ですよ」
「ぢやあ、喰べ物?」
「——に、近いものです」
「何ぢやろ。わからないよ、劉備や。わたしにそんな好物があるかしら」
「望んでも、望めない物と、諦めの中に忘れておしまひになつたんでせう。一生に一度は、とおつ母さんが何年か前かに云つた事があるので、私も、一生に一度はと、おつ母さんにその望みをかなへて上げたいと、今日まで願望に抱いてをりました」
「まあ、そんなに長年、心にかけてかえ? ……猶更(なほさら)、分らなくなつてしまうたよ劉備。……いつたい何だねそれは」
「おつ母さん、実は、これですよ」
錫の小さい茶壺(チヤコ)を取出して、劉備は、卓の上に置いた。
「洛陽の銘茶です。……おつ母さんの大好きなお茶です。……あしたの朝は、うんと早起しませう。そしておつ母さんは、裏の桃園に莚(むしろ)をお敷きなさい。私は驢に乗つて、こゝから四里ほど先の鶏村まで行くと、とてもいゝ清水の湧いてゐる所がありますから、番人に頼んで一桶清水を汲んで来ます」
「…………」
母は眼をまろくしたまゝ錫の小壺を見つめて、物も云へなかつた。やゝ暫くしてから怖い物にでも触るやうに、そつと掌(て)に乗せて、壺の横に貼つてある詩箋のやうな文字などを見てゐた。そして大きな溜息をつきながら、眼を息子の顔へあげて、
「劉備や。……お前、いつたいこれは、何(ど)うしたのだえ」
声まで密(ひそ)めて訊ねるのだつた。
劉備は、母が疑ひの餘り案じてはならないと考へて、自分の気持や、それを手に入れた事など、嚙んでふくめるやうにして話して聞かせた。民間では殆ど手に入れ難い品にはちがひないが、自分が求めたのは、正当な手続きで購(あがな)つたのだから少しも懸念をする必要はありません——とも追(つ)け加へて云つた。
「ああ、お前は! ……なんていふやさしい子だらう」
母は、茶壺を置いて、わが子の劉備に掌をあはせた。
劉備は、あわてゝ、
「おつ母さん、滅相もない。そんな勿体ない真似はよして下さい。ただ歓んでさへ戴ければ」
と、手を取つた。そうして相擁したまゝ、劉備は自分の気もちの酬いられた欣(うれ)しさに泣き、母は子の孝心に感動の餘り涙にくれてゐた。
翌る朝——
まだ夜も白まぬうちに起(おき)て、劉備は驢の背に水桶を結ひつけ、自分も騎(の)つて、鶏村まで水を汲みに行つた。
[25]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月23日(土)付夕刊掲載
(五)
もちろん劉備が出かけた頃、彼の母も夙く起きてゐた。
母はその間に、竈の下に豆莢(まめ)がらを焚いて、朝の炊(かし)ぎをしておきやがて家の裏のはうへ出て行つた。
桑の大木の下を通つて、裏へ出ると、牛の居ない牛小屋があり、鶏のゐない鶏小屋があり、何もかも荒れ果てゝ、いちめんに秋草がのびてゐる。
だが、そこから百歩ほど歩くと這ふやうな姿をした果樹が、背を並べて、何千坪かいちめん揃つてゐた。それはみんな桃の樹であつた。秋は葉も落ちて淋しいが、春の花のさかりには、この先の蟠桃河が落花で紅くなるほどだつたし桃の実は、市に売りに出して、村の家何軒かで分け合つて、それは一年の生計の重要なものになつた。
「……オオ」
彼女は、ひとりでに出たやうな声を洩らした。桃園の彼方から陽が昇りかけたのだ。金色の日輪は、密雲を嚙み破るやうに、端だけ見えてゐた。今や何か尊いものがこの世に生れかけてゐるやうな感銘を彼女もうけた。
「…………」
彼女は、跪(ひざま)づいて、三礼を施した。子どもの事を禱(いの)つてゐるらしかつた。
それから、箒を持つた。
たくさんな落葉がちらかつてゐる。桃園は村の共有なので、日頃誰も掃除などはしない。彼女も一部を掃いただけであつた。
新しい莚(むしろ)をそこへ敷いた。そして一箇の土炉と茶碗など運んだ。彼女は元々氏素性の賤しくない人の娘であつたし、劉家も元来正しい家柄なので、さういふ品も何処かに何十年も使用せずに蔵(しま)つてあつた。
清掃した桃園に坐つて、彼女は水を汲みに行つた息子が、やがて鶏村から帰るのを、心静かに待つてゐた。
桃園の梢の湖(うみ)を、秋の小禽(ことり)が来てさま/\な音いろを転(まろ)ばした。陽はうら/\と雲を越えて、朝霧はまだ紫ばんだまゝ大陸に澱んでゐた。
「わしは倖せ者よ」
彼女は、この一朝の満足をもつて、死んでもいゝやうな気がした。いや/\、さうでないとも思ふ。独り強くさう思ふ。
「あの子の将来(ゆくすゑ)を見とゞけねば……」
ふと彼方を見ると
その劉備の姿が近づいて来た。水を汲んで帰つて来たのである。驢に騎(の)つて、驢の鞍に小さい桶を結ひつけて。
「おゝ。おつ母さん」
桃園の小道を縫つて、劉備は間もなくそこへ来た。そして水桶を降ろした。
「鶏村の水は、とてもいゝ水ですね。さだめし、これで茶を煮たらお美味(いし)いでせう」
「ま。御苦労であつたねえ。鶏村の水のことはよく聞いてゐるけれど、彼処はとても恐い谷間だといふぢやないか。後でわたしはそれを心配してゐたよ」
「なあに、道なんかいくら嶮(けは)しくても何でもありませんがね、清水には水番が居まして、なか/\ただはくれません。少しばかり金をやつてもらつて来ました」
「黄金の水、洛陽のお茶、それにお前の孝心。王侯の母に生れてもこんないゝ思ひには巡り会へないだらうよ」
「おつ母さん、お茶はどこへ置きましたか」
「さうさう、私だけが戴いてはすまないと思ひ、御先祖のお仏壇へ上げておいたが」
「さうですか、盗まれたらたいへんです。直ぐ取つて参りませう」
劉備は、家のはうへ馳けて、宝珠を抱くやうに、茶壺を捧げて来た。
母は、土炉へ、火をおこしてゐた。その前に跪づいて劉備が茶壺を差出すと、その時、何が母の眼に映つたのであらうか、母は手を出さうともしないで、劉備の身のまはりを改まつた眸でじつと見つめた。
[26]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月24日(日)付夕刊掲載
(六)
劉備は、母が遽(にはか)に改まつて自分の身装(みなり)を見てゐるので、
「どうしたのですかおつ母さん」
不審(いぶか)しげに訊いた。
母は、いつになく厳粛な容子を作つて、
「劉備」
と、声まで、常とはちがつて呼んだ。
「はい。何ですか」
「お前の佩いてゐる剣は、それは誰の剣ですか」
「わたくしのですが」
「嘘をお云ひ。旅に出る前の物とはちがつてゐる。お前の剣は、お父さんから遺物(かたみ)に戴いた——御先祖から伝はつてゐる剣の筈です。それを、何処へやつてしまったのです?」
「……はい」
「はいではありません。片時でも肌身から離してはなりませぬぞと、わしからも呉々(くれぐれ)云つてある筈です。何(ど)うしたのだえ、あの大事な剣は」
「実は、その……」
劉備はさし俯向いてしまつた。
母の顔は、いよ/\峻厳に変つてゐた。劉備が口ごもつて居ると、なほ追及して、
「まさか手放してしまつたのではあるまいね」
と念を押した。
劉備は、両手をつかへて、
「申しわけありません。実は旅から帰る途中、或者に礼として与へてしまひましたので」
云ふと、母は
「えつ、人に与へてしまつたツて。——ま!あの剣を」
と、顔いろを変へた。
劉備はそこで、黄巾賊の一群につかまつて、人質になつた事や、茶壺も剣も奪り上げられてしまつた事や、それから漸(やうや)く救はれて、賊の群から脱出して来たが、再び追ひつかれて黄匪の重囲に陥ち、すでに斬死しようとした時、卒の張飛といふ者が、一命を助けてくれたので、欣(うれ)しさの餘り、何か礼を与へようと思つたが、身に持つてゐる物は、剣と茶壺しかなかつたので、やむなく、剣を彼に与へたのです——と審(つぶ)さに話して
「賊に捕まつた時も、張卒に助けられた時も、その折はもう何も要らないといふ気持になつてゐたんです。……けれど、この銘茶だけ、生命がけでも持つて帰つて、おつ母さんに上げたいと思つてゐました。剣を手放したのは申しわけありませんが、そんなわけで、この銘茶を、生命から二番目の物として、持ち帰つたのでございます」
「…………」
「剣は、先祖伝来の物で、大事な物には違ひありませんが、沓(くつ)や蓆を製(つく)つて生活(くら)してゐるあひだは、張卒から貰つた之(これ)でも決して間にあはない事もありませんから……」
母の惜しがる気持を宥めるつもりで彼がさう云ふと、何思つたか劉備の母は
「ああ——わしは、お前のお父様に申しわけがない。亡き良人(をつと)に顔向けがなりません。——わたしは、子の育て方を過つた!」
と、慟哭して叫んだ。
「何を仰つしやるんです。おつ母さん!……何(ど)うしてそんな事を」
母の心を酌みかねて、劉備がおろおろと云ふと、母はやにはに、眼の前に在つた錫の小さい茶壺を取上げ
「劉備、おいで!」
と、きつい顔して、彼の腕を片手で引つ張つた。
「何処へです。おっ母さん。……ど、どこへいらつしやらうと云ふんですか」
「…………」
彼の母は、答へもせず、劉備の腕くびを固くつかんだ儘(まま)、桃園の果(はて)へ馳け出して行つた。そして其処の蟠桃河の岸まで来ると、持つてゐた錫の茶壺を、河の中ほど目がけて抛(はふ)り捨てゝしまつた。
[27]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月26日(火)付夕刊掲載
(八)
[補註]新聞連載版には「桑の家(七)」がなく、以下(九)(十)と続く
「あツ。——何で?」
びつくりした劉備は、われを忘れて、母の手頸(てくび)を捉(とら)へたが、母の手から投げられた茶の壺は、小さい飛沫(しぶき)を見せて、もう河の底に沈んでゐた。
「おつ母さん!……おつ母さん!……一体、何がお気に障つたのですか。何で折角の茶を、河へ捨てておしまひになつたんですか」
劉備の声は、顫(ふる)へてゐた。母に欣(よろこ)ばれたいばかりに、百難の中を、生命がけで持つて来た茶であつた。
母は、歓びの餘りに、気が狂(ふ)れたのではあるまいか?
「……何を云ふのです。譟(さわ)がしい!」
母は、劉備の手を払つた。
そして亡父(ちち)のやうな顔をした。
「…………」
劉備は、きびしい母の眉に、思はず後へ退がつた。生れてから初めて、母にも怖い姿があることを知つた。
「劉備。お坐りなさい」
「……はい」
「お前が、わしを歓ばせるつもりで、遙々苦労して持つてお出(い)でた茶を、河へ捨てゝしもうた母の心がわかりますか」
「……わかりません。おつ母さん、劉備は愚鈍です。何処が悪い、何が気にいらぬと、叱つて下さい。仰有つて下さい」
「いゝえ!」
母は、つよく頭(かうべ)を振り、
「勘ちがひをおしでない。母は自分の気儘から叱るのではありません。——大事な剣を人手に渡すやうなお前を育てゝ来た事を、わたしは母として、御先祖にも、死んだお父さんにも、済まなく思うたからです」
「私が悪うございました」
「お黙りっ!……そんな簡単に聞かれては、母の叱言(こごと)がおまえに分つて居るとはいへません。——私が怒つてゐるのは、お前の心根がいつのまにやら萎(な)へしぼんで、楼桑村の水呑百姓に成りきつてしまうたかと——それが口惜(くやし)いのです。残念でならないのです」
母は、子を叱るために励ましてゐるわれとわが声に泣いてしまつて、袍の袖を、老(おい)の眼に当てた。
「……お忘れかへ、劉備。おまへのお父様も、お祖父様(ぢいさま)も、おまへのやうに沓(くつ)を作り蓆を織り、土民の中に埋もれたまゝお果てなされてはゐるけれど、もつともつと先の御先祖をたづねれば、漢の中山靖王劉勝の正しい血すじなのですよ。おまへは紛れもなく景帝の玄孫なのです。この支那をひと度(たび)は統一した帝王の血がおまへの体にながれてゐるのです。彼(あ)の剣は、その印綬と云ふてもよい物です」
「…………」
「だが、こんなことは、めつたに口に出す事ではない。なぜならば、今の後漢の帝室は、わたし達の御先祖を亡(ほろぼ)して立つた帝王だからです。景帝の玄孫とわかれば、とうに私たちの家すじは断ち絶(き)られて居るでせう。……だからというて、お前までが、土民になりきつてしまつてよいものか」
「…………」
「わたしは、そんな教育を、お前にした覚えはない。揺籃(ゆりかご)に入れて、子守唄をうたうて聞かせた頃から——又、この母が膝に抱いて眠らせた頃から——おまへの耳へ母は御先祖のお心を血の中へ訓(をし)へこんだつもりです。——時の来ぬうちはぜひもないが、時節が来たら、世のために、又、漢の正統を再興するために、剣を把(と)つて、草廬から起たねばならぬぞと」
「……はい」
「劉備。——その剣を人手に渡して、そなたは、生涯、蓆を織つてゐる気か。剣よりも茶を大事とお思ひか。……そんな性根の子が求めて来た茶などを、歓んで飲む母とお思ひか。……わたしは腹が立つ。わたしはそれが悲しい」
と、母は慟哭しながら、劉備の襟をつかまへて、嬰児(あかご)を懲(こら)すやうに折檻した。
[28]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月27日(水)付夕刊掲載
(九)
母に打ちすゑられた儘(まま)、劉備は身うごきもしなかつた。
打々(ちやう/\)と、母が打つたびに、母の大きな愛が、骨身に沁み、さんさんと涙がとまらなかつた。
「すみません!……」
母の手を宥(いたは)るやうに、劉備はやがて、打つ手を抑へて、自分の額に、押しいたゞいた。
「わたくしの考へ違ひで御座いました。まつたく玄徳の愚(おろか)が致した落度でございます。仰有る通り、玄徳もいつか、土民の中に貧窮してゐる為、心まで土民になりかけてをりました」
「分りましたか。劉備、そこへ気がつきましたか」
「御打擲(ごちやうちやく)をうけて、幼少の御訓言が、骨身から喚び起されて参りました。——大事な剣を失ひました事は、御先祖へも、申しわけありませんが……御安心下さいお母さん……劉備の魂はまだ此身(ここ)にございます」
——するとそれ迄(まで)、老の手が痺れるほど子を打つてゐた母の手は、やにはに劉備のからだを犇(ひし)と抱きしめて、
「おゝ!劉備や!……ではお前にも、一生土民で朽ち果てまいと思ふ気もちはおありかえ。まだ忘れないで、わたしの言葉を、魂のなかにお持ちかえ」
「なんで忘れませう。わたしが忘れても景帝の玄孫であるこの血液が忘れるわけはありません」
「よう云ひなすつた。……劉備よ。それを聞いて母は安心しました。ゆるしておくれ、……ゆるしておくれよ」
「何をなさるんです。わが子へ手をついたりして、勿体ない」
「いゝえ。心まで落魄(おちぶ)れ果てたかと、悲しみと怒りの餘り、お前を打擲したりして」
「御恩です。大愛です。今の御打擲は、わたくしに取つて、真の勇気を奮ひたゝせる神軍の鼓でございました。仏陀の杖でございました。——もしけふのお怒りを見せて下さらなければ、劉備は何を胸に考へてゐても、お母さんが世にあるうちはと、卑怯な土民を装つてゐたかも知れません。いゝえそのうちについ年月を過して、ほんとの土民になつて朽ちてしまつたかもしれません」
「——ではお前は、何を思つても、この母が心配するのを怖れて、母が生きてゐるうちはたゞ無事に暮してゐる事ばかり願つてゐたのだね。……ああ、さう聞けば、猶更(なほさら)わたしの方が済まない気がします」
「もう私も、肚がきまりました。——でなくても、今度の旅で、諸州の乱れやら、黄匪の惨害やら、地上の民の苦しみを、眼の痛むほど見て来たのです。おつ母さん、劉備が今の世に生れ出たのは、天上の諸帝から、何か使命を享(う)けて世に出たやうな気がされます」
彼が、真実の心を吐くと彼の母は、天地に黙禱をさゝげて、いつ迄も、両の腕(かひな)の中に額を埋めてゐた。
然(しか)し、この日の朝の事は、どこ迄も、母子(おやこ)ふたりだけの秘(ひそ)か事だつた。
劉備の家には、相変らず蓆機(むしろばた)を織る音が、何事もなげに、毎日、外へ洩れてゐた。
土民の手あきの者が、職人として雇はれて来て、日毎(ひごと)に中庭の作業場で、沓(くつ)を編み、蓆を荷造りして、それが溜ると、城内の市(いち)へ持つて行つて、穀物や布や、母の持薬などゝ交易して来た。
変つた事といへば、それくらゐなもので、家の東南(たつみ)にある高さ五丈餘の桑の大樹に、春は禽(とり)が歌ひ、秋は落葉して、いつかこゝに三、四年の星霜は過ぎた。
すると、浅春の一日(あるひ)。
白い山羊の背に、二箇の酒瓶(さかがめ)を乗せて、それを曳(ひ)いて来た旅の老人が、桑の下に立つて、独りで何やら感嘆してゐた。
[29]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月28日(木)付夕刊掲載
(十)
誰か、のつそりと、無断で家の横から中庭へ這入つて来た。
劉備は、母と二人で、蓆を織つてゐた。無断と云つても、土塀は崩れたまゝだし、門はないし、通り抜けられても、咎めるわけにもゆかない程な家ではあったが——
「……おや?」
振向いた母子(おやこ)は目をみはつた。そこに立つた旅の老人よりも、酒瓶(さかがめ)を背にのせてゐる山羊の毛の雪白な美しさに、すぐ気を奪(と)られたのである。
「御精が出るなう」
老人は、馴々(なれ/\)しい。
蓆機(むしろばた)のそばに腰をおろし、何か話しかけたい顔だつた。
「お爺さん、何処から来なすつたね。たいそう毛のいゝ山羊だな」
いつ迄(まで)も黙つてゐるので、かへつて劉備から口を切つてやると、老人はさも/\何か感じたやうに、独りで首を振りながら云つた。
「息子さんかの。このお方は」
「はい」
と、母が答へると、
「よい子を生みなすつたな、わしの山羊も自慢だが、この息子には敵(かな)はない」
「お爺さんは、この山羊を曳(ひ)いて、城内の市へ売りに来なすつたのかね」
「なあに、この山羊は、売れない。誰にだつて、売れないさ。わしの息子だものな。わしの売物は酒ぢやよ。だが道中で悪漢(わるもの)に脅されて、酒は呑まれてしまうたから、瓶(かめ)は二つとも空いぽぢや。何もない。はゝゝゝ」
「では、折角遠くから来て、おかねにも換へられずに、帰るんですか」
「帰らうと思うて、こゝまで来たら、偉い物を見たよわしは」
「何ですか」
「お宅の桑の樹さ」
「ああ、あれですか」
「今まで、何千人、いや何万人となく、村を通る人々が、あの樹を見たらうが、誰も何とも云つた者はゐないかね」
「べつに……」
「さうかなあ」
「珍しい樹だ、桑でこんな大木はないとは、誰もみな云ひますが」
「ぢやあ、わしが告げよう。彼の樹は、霊木ぢや。此家から必ず貴人が生れる。重々(ちよう/\)、車蓋のやうな枝が皆、さう云つてわしへ囁いた。……遠くない、この春、桑の葉が青々とつく頃になると、いゝ友達が訪ねて来るよ。蛟龍が雲を獲(え)たやうに、それから此家(ここ)の主(あるじ)はおそろしく身上(みのうへ)が変つて来る」
「お爺さんは、易者かね」
「わしは、魯の李定といふ者さ。というて年中飄々としてをるから、故郷(くに)にゐたためしはない。羊を曳(ひ)つぱつて、酒に酔うて、時時、市へ行くので、皆が羊仙(ヤウセン)と云つたりする」
「羊仙さま。ぢやあ世間の人は、あなたを仙人と思つてゐるので?」
「はゝゝゝ。迷惑なはなしさ。何しろけふは欣(うれ)しい人とはなし、珍しい霊木を見た。この子のおつ母さん」
「はい」
「この山羊を、お祝に献上しよう」
「えつ?」
「おそらく、この子は、自分の誕生日も、祝はれた事はあるまい。だが、今度は祝つてやんなさい。この瓶に酒を買ひ、この山羊を屠(ほふ)つて、血は神壇に捧げ、肉は羹(あつもの)に煮て」
初めは、戯れであらうと、半ば笑ひながら聞いてゐたところ、羊仙はほんとに羊を置いて、立ち去つてしまつた。
驚いて、桑の下まで馳け出し、往来を見まはしたが、もう姿は見えなかつた。
[30]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月29日(金)付夕刊掲載
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