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作戦を学ぶ

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戦略と戦術の中間にあたる作戦を学ぶためのマガジンです。
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記事一覧

第一次世界大戦の経験をもとに機動戦の可能性を追求したフラーの考察

20世紀のイギリスの軍人ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーは、第一次世界大戦に参加し…

戦間期の米軍はいかに「作戦」の視点を確立したのか:Carrying the War to the Enemy(…

現在の軍事理論では、軍隊の戦略行動と戦術行動を統合し、指導する技術を作戦術(operational …

論文紹介 軍事作戦において指揮官が認識すべき情報の意義と限界

マイケル・ハンデル(Michael I. Handel)は軍事学の分野で情報戦に関する業績を数多く残した…

論文紹介 戦争の複雑性とマーケット・ガーデン作戦の敗因

軍事学の研究では戦争の結果は完全な予測が不可能であり、複雑性に富んだ現象であると考えます…

複数国が参加する連合作戦は外交交渉と不可分の関係にある:1943年のカサブランカ会談…

1943年1月14日、フランス領モロッコで開催されたカサブランカ会談は、第二次世界大戦で同盟関…

論文紹介 中東欧に構築されたソ連式の兵站システムの長期的影響

軍事思想を読み解く上で、兵站は二つの側面において重要な意味を持っています。第一に、兵站は…

第一次世界大戦におけるフランス軍の戦略と作戦を分析したPyrrhic Victory(2008)の紹介

第一次世界大戦(1914~1918)でフランスは西部戦線の作戦で中心的な役割を果たしました。フランス軍が戦場に送り出した兵の数は841万名に上り、そのうちの138万名が命を落としました。Robert A. Doughty氏の『ピュロスの勝利(Pyrrhic Victory)』(2008)は陸上戦を中心にフランス軍の戦略と作戦の変遷を記述した研究成果です。 Doughty, R. A. (2008). Pyrrhic Victory: French Strategy and

メモ 1967年の第三次中東戦争でイスラエルが実施した空軍による奇襲

イスラエルは建国当初から周辺諸国と対立してきましたが、国土が狭隘であったために、軍事態勢…

メモ 機甲師団はどのような編成で運用されるべきなのか?

1955年に主権を回復し、再軍備を開始した西ドイツは、北大西洋条約機構(NATO)の一員としてソ…

論文紹介 朝鮮戦争とベトナム戦争で米軍が消耗戦を選んだ理由は何か?

消耗戦(attrition warfare)が望ましくないもの、非合理なものと見なされることが多い主な理…

メモ 時代によって軍事的プロフェッショナリズムの内容は変化していく

近世ヨーロッパにおいて軍人、特に将校の階級は貴族の男性だけに開放されており、金銭で職位が…

資料紹介 湾岸戦争で米軍の兵站家が指摘した作戦兵站の課題は何か?

1990年にイラクがクウェートに侵攻し、湾岸戦争が始まったとき、アメリカ陸軍軍人ウィリアム・…

情報技術の視点で20世紀の海軍史を捉え直すNetwork-centric Warfare(2009)の紹介

ネットワーク中心の戦い(network-centric warfare)とは、遠く離れた離れた部隊を広域的な通…

メモ クラスター弾などの無誘導爆弾だけで戦局を一変できるわけではない

クラスター弾とは、複数の子弾を内蔵し、それを目標に向けて散布できるように設計された砲弾、ロケット弾、爆弾などの総称です。対人、対戦車、対舟艇、対都市など、さまざまな種類が開発されており、それぞれ効果が異なりますが、多数の不発子弾が地面に残されることから、戦後も市民が無差別に犠牲になる事例が出ており、これが人道上の問題であるという見方が強まっていました(クラスター爆弾禁止条約(2008年採択、2010年発効)では使用、製造、取引が規制されています)。 大きな威力を持つことが知