消えてなくなりたいたいのに死ぬ勇気が出ない人の気持ちを想像してみた
そもそも医療の分野でさえ積極的安楽死が認められていない日本で、毎日生きるのが辛いからなんて理由で気やすく死ぬことはできない。だから大抵ものすごく痛くて苦しい思いをしなくてはならない。まずそのハードルが大きすぎる。
そこまで思うときは大抵のことに絶望していて、多くの人のことを嫌いになったりもして、自分を傷つけたひとが私が死んで後悔したらいいな、なんて考えたりもする。もしその人が真面目で誠実で本当は私を傷つけたくなどなかったなら、ものすごく後悔するだろう。一方で、そうでないひとなら、後悔なんてきっと一瞬。つまり、思いやりが深くて誠実な潤に、そこはなんの狂いもなく傷つける。
最後に、生きることへの執着という本能の手強さ。絶対に確実と思う方法をとっても、ギリギリで足掻いて自分の命だけを助けてしまうかもしれない。宙吊りになったまま息も苦しいのにロープを解いたり、飛び降りる途中でわずかな手探りにしがみついたり。そして、命以外の多くを失ってでも命だけで残される。消えてなくなりたい者にとっては、それは最悪のパターン。
そんなことをつらつら妄想していたら、なぜわざわざ電車に飛び込むのか、なぜわざわざ樹海に迷い込むのか、少し理解できる気がした。全く望ましいことではないけれど、身を投げるひとが出るたびに、死ぬなら勝手に死ねよーっていうのが気の毒だなと思ったので。少し想像したかった。(あ、他人を巻き込んで無差別殺人とかは全く別です。あれは一般人の脳で解釈するのは難しい、病気に近いものだと思うので)
そして再び先の妄想に戻る。そんなにハードルが高いのにやり遂げてしまう人は余程辛かったのだろう。そんな可能性を読むこともできないほど脳が疲弊していたか。ご冥福を祈りたい。
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