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広海

いつもの信号待ち。だいたい7時3分。2月も半ばを過ぎてずいぶん日の出が早くなった。交差点を隔てていても彼女の頬が赤いのがわかる。ほんの一瞬だけ、彼女が俺の方を見た気がした。
信号が青になる。
毎朝すれちがうだけ。
ひとつにまとめた長い髪。S女子高の制服。紺のハイソックス。黒のローファー。マフラーは白。自転車のフレームも白。学校指定の鞄と、スポーツブランドのリュック。
すれ違う瞬間は下を向いてしまう。目を見てあいさつできたらいいのに。できるわけない。

もし彼女に話しかけるチャンスがきたら、まず何て言う?
朝いつも会いますね。バトン部の朝練ですか?
(あ、自己紹介しなきゃ。)
俺はC高1年の森野っていいます。

で?
そこから先が続かない。
そもそもそんなチャンス来るのか?


来た。
嘘だろ。

「書店員になったつもりでレビューを書こう。ただし、直木賞受賞作家の作品に限る」という国語の課題が出たので俺は図書館に来ていた。
作家は島本理生に決めていた。クラスメイトが貸してくれた「小説を音楽にするユニット」の原作小説に感動して以来、この人の書いたほかの小説も読みたいと思っていたからちょうどよかった。

国内作家「し」の棚の前でまさに島本理生の「ファーストラヴ」をパラパラめくってみている彼女がいた。

「あ」
俺の声に彼女は顔を上げた。
「あ、えっと…朝の、信号の…」
彼女はびっくりした顔で俺を見つめた。
「あ、あの、俺…」
自己紹介しかけたその時、
「ヒロミ!あっち空いてた。」
連れ、しかも男が現れた。
スマートを絵に描いたような男。
「あれ?なに?知り合い?」俺にちらっと一瞥をくれる男。
「うん、朝学校行くときいつも会う人」
「ふーん」
「じゃっ、じゃあ俺、失礼します!」
必要以上に深々と頭を下げて俺は回れ右して出口に向かった。

自己紹介もできなかった。彼女の名前が俺と同じヒロミだった。ただそれだけ。好きにすらなっていない。だから大丈夫。大丈夫なはずなのに、どうして悲しいんだ。


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