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至る先がわからない道

未来のことを考えるときに、今の尺度で物事を考えていいのか?という議論があります。


1時間後・明日・来年と考えるなら、この一瞬からの連続性がありそうな気がするので、まあ今の尺度で考えてもいい気もするけど、
かなり遠く未来を想定したときに、今この手元にある、この思考の枠組みで未来を想定していいのか?と考えるわけです。スパンとしては自分が死んだ後とかその先。


現在の積み重ねで未来は招かれると考えるのは正しいのかなと思うのと同時に、未来への積み重ねの分岐を、今という時点から捉えると、かなり違ったベクトルで解釈する可能性も高い気もします。


そういうとき、今手元にある思考の枠組み・前提、っていうものを一回脇に置いてみるのもいいのかもしれないと思っています。個人的な感想として、最近特に。


精度よく想定される未来に対して、自分たちの在り方を合わせていく、というのも建設的。未来は振れ幅のあるものだから、あまり今の前提にこだわりすぎずにやってみたいことをやるのも、それもまた建設的。


ただ、私は後者の考えでいきたいですね。
種を蒔く。芽がでなくてもいいので。

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道作ってます。本題です。

綺麗になった竹林内の轍にチップを蒔いてます。


東欧で戦争がはじまってちょうど2日後でした。

20世紀初頭のリバイバルみたいな光景。なかなかしんどい心持ち。ますますいろんなことの解像度が下がるんだろうな。


今の私には、人と顔を合わせて話すのは救いです。いい大人が竹林整備して、みんなで刀削麵食べて、ぼそぼそっと適当なことを喋ってたこの平和な時間に救われていました。


この道づくりに意味あるのかなとも頭の片隅に少し思いつつ、
既成の意味の有無を求めてここに来てるんじゃないんよな、と改めて思いながら、ぼんやりと作業した先々週です。


未来はどこにあるんでしょうね。


                               しん

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