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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第28回

7月下旬になりました。梅雨が明け、本格的に厳しい夏になりましたが、皆様健やかにお過ごしでしょうか。
熱中症アラートが発令される程の高温になるなどしており、皆様健康や災害には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第28回。 
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>藤原宣孝から娘の誕生を聞かされる藤原道長。
>道長は、自身が実父であると気付いていないのか。
>宣孝は、自らの出世のためにそうと知らせたいのか。
長保2年(1000)2月3日、宇佐八幡宮の奉幣使だった藤原宣孝公は馬二匹を献上し、直廬にて道長卿に謁見します。道長卿は馬二匹を献上した事に対し宣孝公に礼を述べました。
宣孝公は「実は先日子が生まれまして恐れながらその喜びも込めてでございます」と道長卿に伝え、道長卿は「これはめでたい」と祝辞を述べます。
さらに宣孝公は「はじめての女子でございましてもう可愛くてなりませぬ」と満面の笑みで報告し、道長卿から「まだまだ仕事精を出さねば」と声をかけられます。
宣孝公の退出後、道長卿は手を組み思案した後、何かに気付いた様に顔をあげます。
宣孝公は「(貴方の)子は無事に生まれて育っております。」と報告しており、言葉に出さずとも「私はまひろの事も産まれた子の事も分かっております。出世もよしなに」と牽制していたのではないでしょうか。そして道長卿は石山寺での逢瀬を思い出し察したのではないでしょうか。

>長保元年(999年)、女児を出産したまひろ。
長保元年(999年)11月、まひろさんは女の子を出産しました。

『光る君へ』より

まひろさんは慣れない手つきでおしめを替えようと四苦八苦していますが、乳母のあささんが「お方さま、その様な事は私がが致しますので。乳母はそのためにおります」と言います。
まひろさんは「私がやってみたいの」と言い、あささんは手を取りおしめの当て方を教え、汚れ物をきぬさんに渡しました。
そこへ惟規さまが来て「学問は得意だけど乳飲み子の扱いは下手だな」と誂います。
まひろさんが「初めてだから仕方ない」と答え、「きぬやあさがいてくれてよかった」と惟規さまが言います。
赤子を見た惟規さまは「赤子のおでこのあたりが宣孝様に似ている」と言い「さらにあの辺りも、耳とかも似ている」と言ったため、まひろさんは惟規さまを止めます。
惟規さまが「だって女子は父親に似るって言うから」と答え、まひろさんの複雑そうな顔を見て、薄々察しているかの様に「無理…してないよ、別に」と付け加えました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>もしもこの子が実父に似てきたらどうするのでしょうか。
『どうするのでしょうか』とは具体的にどうしてほしいのでしょうか。
実父に似てきたからといってまひろさんが腹を傷めて産んだ我が子を道長卿に委ねるとは考えにくく、平安時代の慣例に従い母方で養育されると思います。
『源氏物語』第七帖「紅葉賀」では、源氏の君が母・桐壺更衣への思慕から父・桐壺帝の女御・藤壺と密通し、男御子が産まれました。
源氏の君と藤壺女御の間の子・冷泉帝は藤壺女御が動揺するほど実父の源氏の君に瓜二つでした。我が子と信じる桐壺帝は「源氏と第10皇子は似ているが、並ぶものなき優れた者同士は似通っているものなのだろう」と語り、源氏の君と藤壺女御は強い罪悪感を覚えます。
11歳で即位された冷泉帝は母・藤壺に仕えていた老僧により出世の秘密を知ります。

『源氏物語』第七帖「紅葉賀」
『源氏物語絵巻』第三十八帖「鈴虫」
五島美術館蔵

・どうやって帝を説得する??

>詮子は、一帝二后の案を聞き「道長はすごいことを考えるようになった」と感心しています。
道長卿は一帝二后の考えを詮子さまに打ち明けました。
詮子さまは「一人の帝に二人の后なんて道長もすごいことを考えるようになったのね」と感心しながらも、道長卿に同意します。
詮子さまは「私は亡き円融院に女御のまま捨て置かれた身。それを考えれば悪い話ではない」と言います。
道長卿は「それを文にして帝にとどけて欲しい」と頼みました。
詮子さまは蔵人頭・藤原行成卿に取りに来させるように言います。
詮子さまは、「帝が私の文くらいでこの案を呑むかどうか分からない」と不安そうです。
道長卿は「女院さまのお言葉にお逆らいになりますまい」と言い、詮子さまは頷きました。
行成卿は詮子さまの文を帝に届けました。
帝は「これはどうしたものか」と仰り、行成卿に「考えを聞かせよ」とお命じになります。
口篭った行成卿に帝は「朕の考えを女院さまと左大臣に伝えよ」とお命じになります。

『光る君へ』より

帝は「皆が定子を好きでないことは知っていても、后を2人立てるなぞ受け入れられるものではない!朕の后は定子1人である!」と仰いました。
道長卿に「いかがであったか」と訊かれた行成卿は「お考えくださるご様子ではございました」と答えます。
道長卿は「迷われるのは当然だ」と言いつつも、「されどそこを押して、何とか彰子様を中宮に立てる流れを作って貰いたい」と行成卿に指示しました。

>母子の齟齬が道長には見えていませんし、帝の心もわかっていないのでしょう。
帝が「朕も母上の操り人形でした。父上から愛でられなかった母上の慰み者でございました」と仰ったのは詮子さまの前だけであり、詮子さまも周りに対して打ち明けたり相談していないならば、その場にいなかった道長卿がどうやって親子の口論を聞き理解するというのでしょうか。
定子さまの出家により、中宮の執り行う神事が滞る状態を解消するために一人の帝に二人の后(皇后・中宮)が並び立つ『一帝二后』を進めるという政が大事で道長卿は個人の感情を問うてはいないと思います。

迷われるのは当然だ。
>そう道長は言いながら、そこをなんとかして欲しい、彰子を中宮に立てられないかと行成に懇願。
道長卿は「(帝が)迷われるのは当然だ」としながらも、「されどそこを押して、何とか彰子様を中宮に立てる流れを作って貰いたい」と明確に指示しています。

>これが藤原実資だったら即座に断るかもしれませんが、人が好い行成だから押し付けているように見える。
藤原実資卿は長保元年(999年)の時点で正三位中納言参議です。
藤原行成卿は従四位上蔵人頭です。
蔵人頭の職務は常に天皇の側近に侍り、文書の作成や保管、物資の調達、勅命の伝達、上奏の取次ぎを行い、殿上人の指揮監督にあたる事です。(出典 ブリタニカ国際大百科事典 )
行成卿が『人が良いから押し付けた』のではなく、機密文書や詔勅を取り扱い、天皇の秘書官として公卿達との取次ぎ役を担う蔵人頭の行成卿だからこそ、道長卿は『一帝二后』について一条帝にお伺いを立てる役目を頼んだのだと思います。

・帝の心に入るには??

>一方、妻の源倫子は、彰子が帝の心に入るためのコツを、その母である詮子に相談しています。倫子さまは詮子さまに、「どうすれば彰子が帝のお心を捉え奉ることができるか」と尋ね、「お好きなお読み物、お遊び事などご存知であられましょう?帝のお好きな物を教えてください」と助言を乞いました。
しかし、詮子さまはしばらく考え「んー…よく知らない」と言い、逆に倫子さまに「貴方は子らの好きな物を知っているの?」と尋ねました。
倫子さまは「もちろんでございます」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

「田鶴(後の藤原頼通卿)は体を動かすのが大好きでございます。妍子(きよこ)は華やかな装束や遊び道具を好みます。せ君(後の藤原教通卿)はまだ小そうございますが駆け競べが大好きでございます」と子供たちの特徴を述べる倫子さまに、詮子さまは笑顔を見せました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

一方内裏。
「赤染衛門は彰子の女房になっていました」と語りが入ります。
藤壺では、彰子さま付きの女房となっていた赤染衛門が「このお歌は女御さまのご先祖の藤原良房公のお歌にございます」と、藤原良房卿の「年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし」という和歌を読み聞かせています。

年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし
藤原良房

意訳:
長い年月が経てしまい、私は老齢になった。
しかしなれども(目の前にある)桜の花を見れば物思いに沈むことなど何もない。

古今和歌集

赤染衛門は「良房公は権勢を誇る摂政であらせられましたが同時に歌詠みの名手でもありました」と教えますが、彰子さまは無表情のままでした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

そこへ帝がお渡りになりました。
彰子さまは赤染衛門に促されて一条帝に一礼して上座を譲ります。
帝はそれを「よい」と制し、「今日は寒いのう」「暖かくして過ごせよ」と彰子さまにお声をかけられましたが、彰子さまは小声で「はい」と答えるのみです。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

帝は「今日はそなたに朕の笛を聞かせたい」と仰り、柱にもたれ演奏します。
しかし彰子さまは帝の方を見ようともしません。帝は「なぜ朕を見ぬのだ?」とお尋ねになります。
さらに帝は「こちらを向いて聴いておくれ」とお声をかけられますが彰子さまは黙したままです。
赤染衛門が「女御様お答えを」と促し、彰子さまは「笛は聴くもので見るものではございませぬ」と答えました。
これには赤染衛門が眉間にシワを寄せ険しい表情になりました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

帝は「これはやられてしまったな」と仰り、「中宮になりたいのか」とお尋ねになります。
帝はお立ちになり、「左大臣はそなたが中宮になることを望んでおる。そなたはどうなのだ?」とお尋ねになりますが、彰子さまは「仰せのままに」と答えます。
「誰の仰せのままだ」と帝がさらにお尋ねになりますが、彰子さまは「仰せのままに」を繰り返すのみです。
これには赤染衛門も目を閉じ嘆くばかりです。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>彰子は「聴かせる」という点に一点集中し、見て欲しい帝の気持ちは理解できていなかったのでしょう。
得意の笛をお聞かせになる一条帝でしたが、彰子さまが一向に見る気配が無く「こちらを向いて聴いておくれ」と仰るも彰子さまが「笛は聴くもので見るものではございませぬ」と答えたエピソードは『栄花物語 巻第六「かかやく藤壺」』にあります。
『栄花物語』を下敷きとし、作中では作者とされる赤染衛門が同席し実際に見聞きした事として物語が展開している様です。
『栄花物語』では彰子さまが「笛は聴くもので見るものではございませぬ」と答えた後、帝が自らを『七十の翁』と呼び「まだ子供なのに翁(実際は19歳)の様な朕をやり込めてしまうとは」と冗談を仰る姿も描かれています。

『栄花物語 巻第六「かかやく藤壺」』

>定子ならば、帝に明るい瞳を見せてきたことでしょう。
>自分の意見を言い、微笑んだことでしょう。
紫式部が書いた『紫式部日記』によると、彰子さまは内向的で真面目、色事をあまり好まない方だった様です。
また、彰子さまは「ものづつみ」(控えめ、内向的)だとも紫式部は言っています。

『紫式部日記』

一方、定子さまは明るく、優しく、よく笑い、ユーモアと才気に溢れた方だったと伝えられています。

・帝も認めてしまう?

>彰子は己というのものがない――
>帝はそう行成に漏らします。
帝は蔵人頭・藤原行成卿に、「彰子には己というものがない。少しかわいそうになった」と打ち明けられました。
さらに帝は「朕も母上の言いなりであったから我が身を見る様な心持ちになった」と仰います。
そして帝は、「朕に取って愛しき女子は定子だけだが、されど彰子を形の上だけでも后にしてやってもよいのやも知れぬ。朕も左大臣と争うのはつらい」と仰いました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>帝も、道長とは争いたくないのだと。
>道長が兼家のような性格ならば、帝もかえって反発できたのかもしれない。
>しかし、そういかないところが道長のおそろしいところです。
「朕も左大臣と争うのはつらい」と帝は仰いますが、『一帝二后』を受け入れたほうが左大臣と争い公卿達との余計な軋轢を生まなくて済むという帝の政治的判断で道長卿が恐ろしいからではないと思います。
また、『己というものがない』仰せのままにと答えるばかりの彰子さまに帝が『母の言いなりだった我が身』を重ねられ、同情された事もあると思います。

・道長、行成の腕の中に倒れる?

>行成は道長に対し「彰子様を中宮にしてもよいとはっきり仰せになった」と報告しています。
行成卿は道長卿に「彰子さまを中宮にしてよいと仰いました」と報告しました。
道長卿は「帝の心を動かしてくれた」と行成卿の労を労って礼を言います。
行成卿は「もったいないお言葉でございます」と答えます。
道長卿は「四条宮で学んでいた頃より、そなたは俺にいつもさりげなく力を貸してくれた」と語ります。
道長卿は「今日までの恩、決して忘れぬ」と袖で包むようにして行成卿の腕を掴みます。
そして「そなたの立身は俺が、そなたの子らの立身は俺の子らが請け合う」とはっきり伝えました。
しかし次の瞬間、道長卿は行成卿の腕の中に倒れ込み行成卿が人を呼ぼうとしますが、「誰も呼ぶな…大事ない」と行成卿を止めます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>しかし、行成はどうにも人が好すぎるせいか、相手の望む答えのほうへ引き寄せて語るのですよね。
>実資あたりとは真逆に思えます。
帝は『彰子には己というものがない。少しかわいそうになった』『朕も母上の言いなりであったから我が身を見る様な心持ちになった』『朕に取って愛しき女子は定子だけ』と仰っていますが、これはあくまで帝ご自身の心持ちです。
行成卿は道長卿から「何とか彰子様を中宮に立てる流れを作って貰いたい」と指示されており、帝ご自身のお心よりも『彰子を形の上だけでも后にしてやってもよい』という言質を取れた事の方が大事なのだと思います。
屏風の和歌に示された通り公卿の多くが彰子さまの入内を支持しており、もともと藤原実資卿も『出家した中宮定子さまでは神事のある宮中に留まれない、不可解』という考えでした。
行成卿とは『真逆』とはどういった答えを望んでいるのでしょうか。

>しかし、ここで道長が続ける言葉に、平安貴族らしい生々しさがある。
>「其方の立身はもちろん、其方の子らの立身は俺の子らが請け負う」
>父の夭折で、出世しにくい行成にとっては、これが一番欲しいものだとは思います。
>あとは唐物や越前紙を含めた文房四宝でも贈ればきっと行成は喜びますね。
藤原行成卿は右少将・藤原義孝卿の長男として生まれ、祖父で摂政・藤原伊尹卿の猶子となっていましたが、天禄三年(972年)に祖父がこの世を去り天延二年(974年)父・義孝卿が疫病により21歳の若さで亡くなります。
その後、外祖父・源保光卿の庇護を受け漢学などの教育を受けました。
正暦四年(993年)には従四位下になりこれは源保光卿の庇護があっての昇進なのだそうです。
しかし、寛和の変で花山院が退位された後、長く散位状態で地下人(清涼殿の殿上間への昇殿を許されていない四位以下の貴族)だった行成卿は、蔵人頭権左中弁・源俊賢卿の参議昇進で後任として蔵人頭に任官されました。
俊賢卿の推挙もあり蔵人頭になった行成卿。
能書家としての才も評判となり、長徳四年(998年)に功を帝に認められ従四位上に昇進するなど、その職務に忠実になり真面目な事で道長卿始め公卿達の信頼を得たのではないかと思います。
外祖父・源保光卿も長徳元年(995年)に亡くなっており、後ろ盾の無い行成卿にとって公卿で最高位にあり官位官職の安堵をしてくれる道長卿の『一族の身元保証』の申し出はありがたい事ではないでしょうか。
唐物や越前紙を含めた文房四宝は官位官職が安定し昇進するなどすれば手に入れられる可能性は十分にあります。
蔵人頭の職務は連勤の激務だった様なのでできれば休日の方が良いかと思います。

『歴史探偵』光る君へコラボSPより

・まひろの個性あふれる育児方針?

>まひろが子ども向けの漢籍である『蒙求』を読み聞かせています
所変わってまひろさんの宅。
外は雪が舞っています。
まひろさんが生まれたばかりの我が子を抱きながら「王戎簡要、裴楷清通、孔明臥龍…」と『蒙求』を口ずさみ、乳母のあささんに「お方さま、流石にそれは…まだ早いと存じますが…」と言われています。
まひろさんは「いいのよ。子守歌代わりに聞いていれば、いつの間にか覚えてしまうもの」と言います。
「姫様でございますけどね」とあささんが言いますが、まひろさんは「学問の面白さの分かる姫になってほしいの」と言います。
そしていとさんは、「学問も然る事ながら、そろそろ姫様に名前が欲しいのですが」と言います。
まひろさんは宣孝公が豊前から戻ってから付けて貰おうと考えていました。
そして再び姫に『蒙求』を口ずさんでいます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>子守唄代わりに聴かせれば覚えてしまうとまひろは語りますが、あさにしてみれば、なぜ女児に漢籍を?という思いなのでしょう。
『蒙求』は唐時代にできた伝統的な中国の初学者向け教科書で児童向けの書であり、太古から南北朝期までの古人の言行や事跡を四字句が対をなす韻文で構成した故事集です。
後述されますが、明子さまの産んだ道長卿の子息達も諳んじていた様に、長く貴族の子弟達の基礎教養として盛んに用いられました。
例えば『孫康映雪 (出典:『初学記』二引「宋斉語」) 』『車胤聚螢 (出典:『晋書』「車胤伝」)』は『蛍雪之功』の故事としてその勤勉さが謳われ、日本では『蛍の光』の歌詞の基になりました。

まひろさんが「学問の面白さが分かる姫になってほしい」と我が子に読み聞かせていた『王戎簡要 裴楷清通 孔明臥龍 呂望非熊』の部分です。
第1回では為時公が『蒙求』を太郎さま(惟規さま)に読み聞かせるも興味がなく、掃除をしながら聞いていたまひろさんが先に覚えて諳んじてしまい、さらに河原で三郎さま(道長卿)相手に披露する場面がありました。
『勧学院の雀は蒙求を囀る(さえずる)』という言葉があります。
藤原氏の子弟教育のための学校『勧学院』に巣をつくる雀は、学生たちが朝夕朗読する『蒙求』を覚えて声を合わせて囀るという意味です。

勧学院の雀は蒙求を囀る

身近に見たり聞いたりしている事は、自然に習い覚える事の例え。

出典 ことわざを知る辞典

漢籍の教養が自ずと耳に入る環境にいたまひろさんからすれば為時公が聞かせた様にしているだけなのですが、事情を知らない乳母のあささんは漢籍教養があまり必要ない女性でありながら姫君に読み聞かせるまひろさんの姿は不思議だったのでしょう。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>この一連のやりとりは、当時の事情を知ればなかなか笑える場面でしょう。
『当時の事情』とは具体的にどんな事柄でしょうか。
平安時代、男性貴族は7〜8歳になると『読書始』という初めて漢籍を読む儀式を経た後、漢学の勉強を始めます。 
『源氏物語』第一帖「桐壺」では6歳で祖母君と死別した第二皇子(=光源氏)が父・桐壺帝の許で読書始の儀に臨み、桐壺帝が畏怖する場面があります。

『源氏物語』第一帖「桐壺」

一方、女性はというと『第一に書、第二に箏、第三に和歌』が重視されました。
『枕草子』二十三段」「清涼殿の丑寅の隅の」には、村上天皇の女御・芳子さま(宣耀殿女御)が父の小一条左大臣から教えられた貴族女性の必須の教養が示されています。
大臣クラスの姫君、女房勤めの下級中級貴族の子女に関わらず、美しい筆跡・琴などの楽器・『古今集』などの和歌の教養が必要とされていました。

『枕草子』二十三段」「清涼殿の丑寅の隅の」(抜粋)

>紫式部自身、宮中で「女のくせに漢籍知ってるとかありえなくない?」と言われ、『源氏物語』でも漢籍教養を自慢する痛い女エピソードを盛り込み、中々わけのわからん女ぶりが出ているエピソードだと思います。
宮中で「女のくせに漢籍知ってるとかありえなくない?」と言われたエピソード』、『「源氏物語」での漢籍教養を自慢する痛い女エピソード』を具体的に提示してください。
『紫式部日記』では、紫式部が彰子さまの許に出仕していた時、藤壺にお渡りになられた一条帝が『源氏物語』を人に読ませお聞きになられ、「この人は、日本紀を読んでいるのだろう。本当に漢字の才があるに違いない。」と紫式部をお褒めになりました。
しかし、左衛門内侍という女房が「ひどく学才をひけらかしている。」と殿上人などに言いふらし『日本紀の御局』とあだ名を付けました。
漢籍は基本女性の教養ではなく、紫式部は昔弟よりも早く漢籍を覚えた事で父・為時公が「男子にて持たらぬこそ、幸ひなかりけれ。(男子としてもたなかったことは、不幸なことであった)」と嘆いた事を思い出します。
「男でさえ学才をひけらかすような人は、いかがであろうか。はなばなしく栄えることができないだけだろうよ。」とは言われるうち、「一」という文字さえ書く事もしなくなったそうです。

『源氏物語』自体が漢籍の知識をふんだんに取り入れており、玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を謡った長恨歌を踏まえた『桐壺』など、読む側に漢籍の知識があればあるほど紫式部が漢籍素養のある人であると分かったでしょう。
紫式部は彰子さまに白居易『白氏文集』の中の『新楽府』を御進講するようになりますが、ひけらかしだと思われない様に他の女房たちが側に仕えていない合間を縫って行うほど気を遣っていたそうです。(一条帝も道長卿もこの事はご存知だったそうです。)
彰子さまの藤壺には赤染衛門、出羽弁、和泉式部、伊勢大輔など、和歌だけでなく漢籍素養も持ち合わせた女房たちが出仕していました。

中宮彰子(左)に「白氏文集」の「新楽府」を進講する紫式部
「紫式部日記絵巻」蜂須賀本

>教養溢れる堅物、例えば実資あたりが事情を知ったら、「そんなに教養と見識があるのに、抱いているのは不義の子かよ!」と、ツッコミそうではありますね。
家庭事情である不貞をしたり漢籍教養があるというだけで藤原実資卿が女性を貶めた様な記述は証明できるでしょうか。
故実に明るい実資卿の様な教養人がいくら左大臣と不義密通したといえ(ドラマ設定)、わざわざ殿上人でもない受領層の娘で面識が無い妾でもない召人(主人と男女の関係にある女房)の様な女性に『抱いているのは不義の子』などと品の無い相手に恥をかかせる様な罵倒をするでしょうか。
実資卿に仮託して記述していますが何見氏が教養のある既婚女性や奔放な女性に敵意を向けているのではないでしょうか。

・道長、彰子立后を進め、それを日記に書く?

>年が明けて長保2年(1000年)
年が明け長保2(1000)年になりました。
道長卿は安倍晴明公に彰子の立后が決まった事を伝え、「正式な詔が出る前に立后に良き日をを決めておきたい」と言います。
晴明公は「藤壺の女御様(彰子)の立后は2月25日にございます」と答え、「こうなる事は分かっておりましたので、先に占っておきました」と言いました。
晴明公は「国家安寧のために先を読むのが、陰陽師の仕事なれば」と言います。
道長卿が日記をつけています。

雪が一尺二、三寸ほど積もった。
晴明を召して立后の雑事(ぞうじ)などを勘申させた。
女院様に献上する事とする
晴明が申した事には…

『御堂関白記』長保二年(1000年) 正月十日条

道長卿はさらに晴明公が占った日取り2月25日の『廿(二十)』まで書こうとして、「まだ詔はおりてはおらぬ」と気付き、該当箇所2行の文章を塗りつぶして消してしまいました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>でた、道長の雑な削除!
>これは解読できるので、まだマシなほうでしょう。
『御堂関白記』長保二年(1000年)正月十日条には『雪が大いに降った。一尺二、三寸ほど積もった。(安倍)晴明を召して、立后の雑事等を勘申させた。初め□□に献じた。晴明が申して云ったことには、「□□にはございません」と。そこで二十□□。』とあります。(□内抹消箇所)

『御堂関白記』長保二年(1000年)正月十日条
『御堂関白記 』
長保二年(1000年) 正月十日条 (自筆本)

長保二年正月十日条(自筆本)では、三行にわたってそれぞれ五本の線で抹消しているそうです。
時代考証の倉本一宏氏によると『道長の方は、十二月二十七日に彰子立后について一条の勅許が下ったと思い込み、年明け早々の長保二年(一〇〇〇)正月十日、安倍晴明を召して立后の雑事(ぞうじ)を勘申(かんじん)させた。そして、二十□日という日付が宜しき日と出て、その結果を詮子、ついで一条に奉献したものと考えられる。ところが、詮子はともかく、まだ彰子の立后に逡巡していた一条は、道長に対してもストップをかけたのであろう。『御堂関白記』の長保二年正月十日条を記しはじめた道長は、彰子立后勘申に関する部分のみを一生懸命に抹消している。こちらは陽明文庫で『御堂関白記』の自筆本を調査して、抹消した墨の下に記されていた字を推定したものである』との事です。
(『「御堂関白記」を読む』:倉本 一宏(講談社学術文庫より))


>解読できずに困るのは、途中で書き忘れている場合です。
>脱落が多いうえに悪筆であり、しかも漢文の文法がおかしい。
>ミスが多いのが道長の著作です。
他人の間違いを指摘して叩いたり嗤う時はすごく楽しそうですね。
『御堂関白記』は藤原道長卿の私的日記で陽明文庫所蔵のものは国宝・世界記憶遺産に指定されています。
公的・準公的日記を除き、私人の日記で『自筆による原本』が現存する事は非常に珍しい事なのだそうです。
公家の日記は通常まとめて清書される中、御堂関白記は清書していない過ちや削除箇所もそのままの生々しさが残り、道長卿の人となりが見える事も貴重な史料として価値があるのだと思います。

・帝を説得する行成?

>行成がまたもや帝に呼ばれていました。

内裏では帝が藤原行成卿をお呼びになり、「彰子の立后のことでまだ心が決まらぬ」と仰います。
帝は彰子さまの立后を耳にし、「定子を傷つけるのでは」とお案じになり、「くれぐれも公にする事のない様、よしなに取り計らってくれ」と仰いました。
しかし行成卿が「恐れながら、お上はお上にあらせられまする。一天万乗の君たる帝が、下々の者と同じ心持で妻を思うことなぞ、あってはなりませぬ」と進言します。
さらに行成卿は必死に苦言を呈します。
「大原野社の祭祀は代々藤原氏出身の皇后が神事を勤めるならわしです。しかし定子さまの出家以来神事を勤める后が居りません。為すべき神事が為されぬは神への非礼でごさいます。このところの大水や地震などの怪異は神の祟りではないかと私は考えまする。左大臣さまもその事を憂えて姫様を奉ったのではありませぬか」と言います。
「ここは一刻も早く彰子様を中宮となし奉り、神事を第一になすべきだと存じます。それがならなければ、世はますます荒れ果てましょう。何事も分かっておいででございましょう。お上、どうかお覚悟をお決めくださいませ」と行成は帝に圧をかける様に具申し、帝はついに『一帝二后』を承諾されました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

「一条天皇は一帝二后を承諾した。前代未聞のこの宣旨を聞いて反発する公卿はいなかった。あのご意見番の実資さえ異を唱えなかったのである」と語りが入ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>なすべき神事を為しておらぬことが神への非礼であり、それが天変地異という神の祟りにつながっているのだ。
>そう行成が滔滔と語るのは「天譴論」です。
『権記』長保二年(1000年)一月二十八日条によると、『現在いらっしゃる藤原氏の皇后は、東三条院(藤原詮子)・皇后宮(藤原遵子)・中宮(藤原定子)である。皆、出家しているので、氏の祭祀を勤める事は無い。
職納の物を神事に充てるというのは、すでにその数が決まっている。
ところが、入道の後は、その事を勤めない。…いたずらに私用に使って、空しく公物(くもつ)を費している。
神事を勤める事が無いというのは、これを朝政に論じると、全く何の益も無い。度々怪異によって、所司が神事の違例を卜申するというのも、疑慮の至るところであって、恐らくはその祟りは、このような事によるものであろうか。』とあり、太皇太后昌子内親王の崩御後、皇太后、皇后、中宮の御三方が皆出家し、神事を勤める事ができず祟りで天災が起きるため、行成卿は帝に彰子さまの立后を迫っています。 
時代考証の倉本一宏氏は、一条帝が立后を逡巡されている事を知った行成卿は立后を正当化する理屈をたびたび帝に説き、『定子が漢の哀帝(あいてい)の乱代と同じように廃后となったら大変である。』と言ったという資料があると解説しています。
『権記』長保二年(1000年)一月二十八日条には『永祚年間(989~990)には四后がいた。これは漢の哀帝の乱代と同じ例である。その漢の后たちは皆、貶されて廃退され、別宮に住まわされた。事の不吉は、これでわかるところである。このような事態は避けるべきである。』とあり、作中の行成卿の進言は『権記』の記述によるものになっています。
漢の哀帝は前漢末期の第12代皇帝です。
腹心の董賢と男色の関係にあったと伝えられ、哀帝が共寝する董賢との昼寝から目覚めた時、帝の袖を下に敷いて眠っている董賢を起こさない様に気遣い袖を断ち切って起きたという『断袖』の故事で知られます。

『権記』長保二年(1000年)一月二十八日条

・姫は賢子と名付けられる?

>宣孝が久々にまひろのもとを訪れます。
宇佐八幡宮の奉幣使の任を終えた藤原宣孝公が豊前から戻り、使用人たちは土産に驚いています。そしてまひろさんも姫を抱いて宣孝公を出迎えます。
宣孝公は「父上だぞ」と声をかけ、「何やら照れるのう」と言い、まひろさんは宣孝公が勤めを果たした事を労いました。
宣孝公は「土産を沢山持って帰った」と言い、まひろさんは「そうだろうと思って思っておりました」と答え、宣孝公は「お前には見透かされておる」と笑います。
そして、まひろさんに促され宣孝公が姫を抱きます。
宣孝公は乳飲み子の扱いがまひろさんよりも上手く、「お前より長く生きて来たからな」と言いました。
姫が可愛くてたまらず「まひろの機嫌のいい時の顔に似ている」と言い2人で笑い合いました。
そしてまひろさんは宣孝公に「名前を決めてくださりませ」と頼みます。
姫は生まれてから2か月も名のない状態だったのです。
宣孝公は「もう決めておる、賢子(かたこ)じゃ。」と言い、まひろさんは「か…カタコ…?」と戸惑っています。
「賢い子と書く。まひろの子供故賢いことに間違いはない」と言い、まひろさんは礼を言いました。
「母上も気に入ってくれて、父上もほっとしたぞ賢子」と宣孝公は上機嫌です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

宣孝公が内裏の直廬に道長卿を訪ね、帰洛の挨拶をしています。
恒方さんによると、馬を二疋(二匹)献上しているとの事です。
赤の袍に身を包んだ宣孝公は「宇佐八幡宮への奉幣使の務め滞りなく果たし、無事立ち帰りました」と報告しました。
道長卿は宣孝公を労い、「馬を二匹も献上してくれたそうだな。礼を言う」と言います。
宣孝公は「実は先日子供が生まれまして。恐れながらその喜びも込めてでございます」とまひろさんに子が産まれた事を打ち明けました。
「そうであったか。これまためでたい」と道長卿が寿ぎます。
「初めての女子でございまして、もう可愛くてなりませぬ」と自慢げに話す宣孝公に、道長卿は「うむ、まだ仕事に精を出さねばならぬな」と言います。
宣孝公は「よろしくお引き立てのほどを」と言い道長卿は頷きます。 
道長卿は一人になり、手を組み考え込んでしまいました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>同時に馬を二疋献上しているところが宣孝の如才のないところでして、道長は馬が好きなのです。
道長は馬が好き』という逸話の出典を具体的に提示してください。
『御堂関白記』長保二年(1000年)二月三日条には『宇佐使(藤原)宣孝朝臣(あそん)が、馬二疋(ひき)を献上してきた。』とあります。

『御堂関白記』長保二年(1000年)二月三日条

平安中期には行宮(天皇の行幸時などの一時的な宮殿)・離宮・公卿の邸宅・神社の境内などで臨時の競馬が行われました。
馬の飼育には軍事的要素も含まれていたので臣下がみだりに行う事は出来ず、摂関かそれに類する公卿のみの特権でした。
藤原道長卿は私的な競馬を度々開催して藤原実資卿から批判されています。

賀茂競馬図屛風 江戸時代
サントリー美術館
『小右記』 長保元年(999年) 九月十三日条
『小右記』 長保元年(999年) 九月十六日条
『小右記』 長保元年(999年) 十月二十日条

・帝と后の愛は永遠に?

>彰子が立后のため内裏を退出すると、帝はなんと定子と皇子を呼び寄せました。
彰子さまは『立后宣命』の儀式のため内裏を一旦退出し土御門殿に戻りました。
一条帝は袈裟をかけた定子さまと敦康親王たちを内裏にお呼びになりました。
口さがない女房達が「どういうつもりで内裏にいらしたの?」「最低」「敦康様のお顔を御覧になりたいからよ」「どの面を下げていらしたのかしら。恥知らず」と陰口を叩いています。
帝は嬉しそうに敦康親王を抱き、泣き声を上げる親王に「父であるぞ」と声をおかけになりました。
夕刻。
帝は定子さまと二人になると「后を2人にする事を許せ」と仰いますが、定子さまは「私こそ詫びなければ」と答えます。
定子さまは「両親が世を去り、兄と弟が没落する中で我が家のことばかり考え、お上の苦しみよりも私のそれに心が囚われておりました。どうか私のことは気になさらず彰子様を中宮にしてくださいませ。さすれば、お上のお立場も盤石となりましょう。」と言います。
それを聞いた帝は、「そなたは朕を愛おしく思うていなかったのか?」とお尋ねになります。
定子さまは「お慕いはしている、しかし私も元々家のために入内した身でございます。それは彰子様さまと変わりませぬ」と言います。
帝はさらに「これまでの事は、全て偽りであったのか…?」とお尋ねになり、無言の定子さまを「偽りでも構わぬ。朕はそなたを離さぬ。」と抱き寄せ「朕はそなたを離さぬ」と仰います。
定子さまは「人の思いと行いは裏腹にございます。彰子さまとて見えておるものだけが全てではございませぬ。どうか……、彰子さまとご一緒の時は、私の事はお考えになられませぬ様、どうか…。」と帝を諭す様に言葉をかけます。
帝はさらに定子さまを抱きしめられました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

長保2年(1000)2月25日。
内裏では彰子さまの『立后の儀』が執り行われました。
『先例なき一帝二后の始まりだった。』と語りが入ります。
黄櫨染の袍をお召しになった帝の御前で藤原実資卿が『立后宣命』を詠み上げます。

「天皇(すめら)が 詔旨(おおみことらま)と 勅りたまふ 命(おおみこと)を親王(みこたち) 諸王(おおきみたち) 諸臣(おみたち) 百官人等(もものつかさのひとども)…」

その後公卿や官人たちが居並ぶ中、土御門殿では『本宮の儀』が執り行なわれました。
御簾が巻き上げられ、物具装束姿(もののぐしょうぞくすがた)の彰子さまが姿を見せました。
傍らでは父・道長卿、母・倫子さまが控え様子を見守っています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は高松殿に明子さまを訪ねました。
明子さまとの間には3人の男児と4人目の女児がいます。
明子はその女児を抱いて「いずれこの子も殿のお役に立ちます様に心して育てます」と言います。
しかし道長卿は「入内して幸せなことはない。その子は穏やかに生きた方がよい」と諭します。
明子さまは3人の息子たちを見ながら「この子らも『蒙求』を諳んじる事ができるのでございますのよ」と言います。
道長卿の前で巌君、苔君、は君の兄弟が大声で「王戎簡要、裴楷清通、孔明臥龍〜」と『蒙求』の暗誦を始めます。
しかし道長卿は、「今度ゆっくり聞かせてくれ、父は疲れておる故」と席を立ちます。
明子さまが子供たちを下がらせ「子供らのことに気を取られておりました」と道長卿を休ませようとします。
道長卿は「少しじっとしていれば治まる」と言いましたが、歩き出そうとして胸の痛みを訴えそのまま倒れてしまいました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>彰子が立后のため内裏を退出すると、帝はなんと定子と皇子を呼び寄せました。
>女房たちが「最低だ、恥知らずだ、どのツラ下げて」と陰口を叩く。
>それでも帝は、敦康を抱いて無邪気に喜んでいます。
>まるで何もなかったような穏やかな光景です。
(中略)
>確かにあそこで発作的に出家をしたことは過ちだったのでしょうが、それで定子を責めるのは酷にも思えます。
『御堂関白記』長保二年(1000年)二月十一日条には『中宮(藤原定子)が内裏(だいり)に参入された。神事の日に参入されるというのは、如何(いかが)なものであろうか。春日祭の神事は、通常とは相違してしまった。』とあります。

『御堂関白記』長保二年(1000年)二月十一日条

『春日祭』とは奈良の春日大社で執り行なわれる朝廷主催の神事・祭祀で葵祭、石清水祭と並ぶ三大勅祭(天皇の名代である勅使の参向を仰ぐ祭り)です。
年2回、旧暦の2月と11月の上の申の日が式日であったことから申祭とも呼ばれ、国家の安泰と国民の繁栄を祈ったそうです。

一条帝が中宮定子さまを内裏にお召しになったのは宮中祭祀である『春日祭』の日であり、仏門に入った身である(作中の定子さまは袈裟を掛けている)定子さまが入られた事で、後宮の女房達が「どういうつもりで内裏にいらしたの?」「最低」「敦康様のお顔を御覧になりたいからよ」「どの面を下げていらしたのかしら。恥知らず」と陰口を叩いていたのだと思います。
定子さまだけを責めるのは酷ですが、皇太后・皇后がいずれも出家しており、中宮である定子さまが出家した事で祭祀に障りが出てくるという弊害もあるので彰子さまの立后は望まれたものだったのでしょう。

『光る君へ』より

>そして、内裏では彰子立后の儀が始まりました。
彰子さまが臨んだ『立后の儀』についてどの様な儀式なのか紹介しないのですか。
時代考証の倉本一宏氏によると『立后』は『立后宣命』『宮司除目(みやづかさじもく)』『本宮の儀』の3段階に分かれているそうです。
内裏ではまず『立后宣命』という后(きさき)に立てるという天皇の詔(みことのり)を宣します。
その後、『宮司除目(みやづかさじもく)』が行われ、長官となる大夫をはじめ、后を補佐し後宮の事務などを行う職員を任命します。

『御堂関白記』長保二年(1000年)二月二十五日条には『午剋(うまのこく/午前11時~午後1時ごろ)に、私は内裏(だいり)に参入した。酉剋(とりのこく/午後5時~午後7時ごろ)に立后宣命が読まれた。右大臣(藤原顕光)が上卿を勤めた。(一条)天皇は紫宸殿(ししんでん)に出御された。清涼殿に還御された後、宮司除目(みやづかさじもく)があった。』とあります。

『光る君へ』より

風俗考証・佐多芳彦氏によると、『立后の儀』の際、紫宸殿にお出ましになった一条帝は重要な行事の際の天皇の正装である『黄櫨染』の御袍をお召しになっているそうです。
黄櫨染は平安時代初期に出来上がり、非常に特殊な染料を使い特殊な染め方をしたもので、桐竹鳳凰麒麟の文様が織り出され、象牙の笏を持つそうです。
現代でも、今上天皇陛下が令和元年の即位式で『黄櫨染』の御袍をお召しになりました。

『光る君へ』より

后の実家である里邸では『本宮の儀』が執り行なわれます。
后など身分の高い人物がいる場所には、『宮』や『院』という言葉が使われ『本宮』とは后の実家の事で、后は実家で立后宣命を聞きます。
その後、夜には公卿と殿上人たちの宴が行われます。
宴は屋敷の主(彰子さまの場合は道長卿)が主催します。
『本宮の儀』に臨む彰子さまは女房装束に裙帯比礼(くんたいひれ)を付け、垂髪の頭頂部を結い上げ宝冠を付けた『物具(もののぐ)装束』を着用しています。

『御堂関白記』長保二年(1000年)二月二十五日条には『除目(じもく)が終わって、中宮(藤原彰子)の許へ参った。前例によって、列には立たなかった。・・・中宮の御前において御楽遊があった。』とあります。

『光る君へ』より
『御堂関白記』長保二年(1000年)二月二十五日条

・道長、危篤となる?

>三日後のこと。
>源倫子は、道長が立て続けに高松殿の源明子のもとにいることに苛立っているようです。
土御門殿では、一向に帰宅しない道長卿を案じた倫子さまが百舌彦さんに「殿は今宵も高松殿なのですか。3日になりますが内裏に参られてはいないのですか?」と問い糾しています。
百舌彦さんは事情を話そうとしましたが、その時侍女が駆け寄り、「高松殿より使者が参りました」と伝えます。
倫子さまは明子さまがいる高松殿へ赴きました。
倫子さまは道長卿の手に添えた明子さまの手を払うかの様に自らの手を重ね、病臥している道長卿に声をかけますが、道長卿は目を覚ましません。
倫子さまは「お世話になります」と明子さまに声を掛けます。
「とんでもない事でございます。薬師の話では…」と言いかける明子さまでしたが、倫子さまは「薬師の話は今そこで聞きました。道長様は心の臓に乱れがありますのね」と言います。
そして倫子さまは道長卿に呟く様に「うちでお倒れになればよいのに…。でも大丈夫、貴方は死なないわ」と言います。 
そして倫子さまは「この様なご容体では動かしてはよくありません。どうぞ我が夫をこちらで看病願いますね」と言い、明子さまも「承知いたしました」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

左大臣・道長卿の体調不良は瞬く間に内裏にも知れ渡り、殿上の間では公卿達がヒソヒソと何かを話しています。
道綱卿に至っては心配そうに実資卿に、「ねぇねぇ、道長死なないよね?」と尋ねる有様です。
実資卿は「そのような事があれば、朝廷は大崩れにございます」と言い、道綱卿が「そうなの?」と聞きます。
そして実資卿は「この度の一帝二后のこと、左大臣様はやや強引ではありましたが…お心は広くあらせられました」と言い道綱卿が「だよね」と相槌を打ちます。
さらに実資卿は「右大臣さま、内大臣さまでは頼りにならず」と続け、その都度道綱卿が「だよね」と相槌を打ちます。 
実資卿が「私ならば…私ならば…」と言いかけ、道綱卿が再び「だよね」と言ったため、怪訝そうな顔をしています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんの宅ではまひろさんが娘の賢子さんに『李嶠百詠断簡』を詠み聞かせ、いとさんとあささんが顔を見合わせています。

虚室重ねて招き尋ぬ  言を忘れて断金契る  英は漢家の酒に浮かび  雪は…
伯牙絕弦

『蒙求』

そこへ宣孝公が帰宅し、いとさんとあささんに人払いを促しました。
厳しい表情の夫にまひろさんは「どうなされました」と尋ねます。
「言うべきか言わずに置くべきか迷ったが、知らせないのも悪いと思ったので言うことにする」と宣孝公は前置きし、「左大臣さまが高松殿で倒れられご危篤だ」と告げます。
宣孝公は「余計なことを申したかのう」と言いましたが、まひろさんは教えてくれた事への礼を言います。
宣孝公は「できる事は、我らにはないがのう」と言い帰って行きました。
まひろさんは道長卿の容態が気になり、夜、水面に浮かぶ月を見て涙を流し心の中で「逝かないで」と叫びました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

その頃、昏睡状態の道長卿は眩しい光の中、自分の手をまひろさんが取って「戻って来て」と言う夢を見ていました。
「まひろ…」と呟いた道長卿が目を覚ますと、目の前にいたのは明子さまでした。
「明子にございます。ようございました」と涙ぐむ明子さまの背を道長卿が安心させる様に左手で撫でます。
まひろさんが手に取ったと思ったその手でした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

従者に傘を差し掛けられ道長卿は土御門殿へ戻るりました。
土御門殿では倫子さまを始め家族や女房が出迎えます。
そして階を上った道長卿に、「ご快癒、祝着至極に存じます」と倫子さまが声を掛け、道長卿は「心配をかけた」と答えます。
倫子さまは「私共は何もしておりませんが、必ずお帰りになると信じておりました」と言い、道長卿も頷きます。

『光る君へ』より
 

>なんでも薬師の話では、心臓に乱れがあるとか。
政務に忙殺される道長卿は内裏の藤原行成卿同席の場で倒れ、さらに心の臓の乱れが元で高松殿で倒れ危篤に陥りました。
道長卿は30歳代半ばですが決して丈夫とは言えなかったようです。
『権記』によれば、二后冊立から2か月後の4月下旬、道長卿は内裏で発病し、5月には道長邸から呪詛の道具が見つかり、病気はさらに重症化したそうです。

『権記』 長保二年(1000年) 四月二十七日条
『権記』 長保二年(1000年) 五月十一日条

『権記』 長保二年(1000年) 五月十九日条には、道長卿の次兄・故道兼卿の霊の出現を行成卿が経験し、『左大臣・道長さまの顔つきは病気にしては血色がよかった。かつての右大臣・故道兼さまの気概は、死後も昔のとおりだった。』と記述されています。

『権記』 長保二年(1000年) 五月十九日条

>実資の分析によると、この異例の措置も道長の度量の大きさでまとまったとか。
>右大臣と内大臣では頼りにならないとか。
実資卿は「この度の一帝二后のこと、左大臣様はやや強引ではありましたが…お心は広くあらせられました」と言い、さらに「右大臣さま、内大臣さまでは頼りにならず」と言っています。
道長卿の容態を知らされた直後で言い方は穏やかながら度量の大きさを手放しで喜んているわけではなく、やや強引ではあったと指摘しています。

>『蒙求』を賢子に読み聞かせるまひろ。
『蒙求』の『伯牙絕弦』の部分です。
『蒙求』は著名人の業績を覚えやすくできるように詩にしたものでこの詩は日本に伝わり、鎌倉時代に源光行公が『百詠和歌』を著し、『蒙求和歌』として広く親しまれたそうです。 
『断琴の交わり』という故事成語でも有名です。

伯牙絶絃
琴の名手である伯牙は、自分の一番の理解者であり、親友だった鍾子期が亡くなり、自分の琴を理解してくれる人はもういないといい、琴の弦を切って、二度と弾くことはなかったという故事から。
「伯牙」は中国の春秋時代の人物

『列子』湯問

断琴の交わり
( 昔、伯牙が自分の琴を聞いてこれを解し得た鍾子期を唯一の友とし、子期の死とともにその琴の弦を断って一生琴を手にしなかったという故事から ) 非常に親密な友情・交際。

出典 精選版 日本国語大辞典

・いつも、いつも、あなたのことを?

>定子は三度目の懐妊を迎えました。
長保二年(1001年)五月。
定子さまは3人目の御子さまを身籠っていました。
水で絞った手拭いで首筋を拭く定子さまに、ききょう(清少納言)さんが「節句の頂き物で青ざしと言う麦のお菓子でございます」と言って青ざしを差し出します。
「これなら少しは召し上がれるかと」と言うききょうさんに、定子さまは「そなたはいつも気が利く」と言います。
身重の自分を気遣ってくれた礼を述べる定子さまは菓子を載せた紙を半分に切り、そこに和歌を書き綴りました。

みな人の 花や蝶やと いそぐ日も わが心をば 君ぞ知りける

意訳:
人々が「花だ蝶だ」といそいそと浮かれているこの日(端午の節句)にも、貴方だけは私の心を分かってくれているのですね。

『枕草子』第二二四段
「三条の宮におはします頃」

「そなただけだ、私の思いを知ってくれているのは」と言う定子さまに、ききょうさんは「長いことお仕えしておりますゆえ」と答えます。
定子さまに「いつまでも私の側にいておくれ」と言われ、ききょうさんは「私こそ、末長くお側に置いていただきたく、いつもいつも、念じております」と言います。
定子さまは「そなたの恩に報いたいと、私もいつもいつも思っておる」と言います。
2人で言葉を交わし「いつも、いつも」と笑い合います。
定子さまは「少納言と話をしていたら力が出て来た」と青ざしを口にし「おいしい」と言い、ききょうさんを喜ばせました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

長保二年(1001年)十二月十六日。
定子さまの3度目の出産が迫っていました。
敦康親王の出産時の様に伊周卿と隆家卿は『鳴弦の儀』のため弓の支度をしていました。
そこへききょうさんが現れます。
伊周卿が「皇子であるか?」と尋ねますがききょうさんは黙ったままでした。
不審に思った伊周卿が穢も構わず産屋へ入ります。
しかし定子さまは姫皇子を出産した後、亡くなっていました。
「定子は姫皇子を出産し、世を去った」と語りが入ります。

『光る君へ』より

ききょうさんは御帳台の帷子の紐に結び付けられていた紙を見つけます。
そしてそれを開いて伊周卿に見せました。
それは定子さまが詠んだ辞世の
歌でした。

夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき

意訳:
一晩中契りを交わしたことをお忘れでないなら、(私が死んだ後)貴方様は恋しいと泣いてくれるでしょう。その涙の色が知りたい

『栄花物語』「鳥辺野」
『後拾遺和歌集』「哀傷」五三六

伊周は「こんなにも悲しい歌を」と涙を流しながら言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

伊周卿は「全て……あいつのせいだ」と言い、訝るききょうさん。
伊周卿は「左大臣だ!」と激昂します。
さらに伊周卿は、「あいつが大事にしているものを、これから俺が悉く奪ってやる!」と言い、人目憚らず号泣します。
その様子を隆家卿が部屋の外で聞いています。
内裏に定子さま崩御の報が伝えられ、帝が1人玉座で涙を流しています。そしてこの一報は道長卿にも伝えられました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

その頃、まひろさんの宅では、賢子さんが健やかに成長して幸福に溢れていました。

『光る君へ』より

>端午の節句のあと、清少納言は“青ざし”という麦の菓子を出します。
>これなら少しは召し上がれるのではないかとのこと。 
>礼を言い、菓子に敷いた紙を切ると、定子は歌を書き付けます。
定子さまは一条帝との間に敦康親王を産みますが「一帝二后」のための措置により、2月に皇后になりました。
作中では長保二年(1000年)五月。
端午の節句の日、届いた『青ざし』というお菓子を清少納言が定子さまに差し上げたところ、お菓子を載せた紙の端を切り取り『みな人の 花や蝶やと いそぐ日も わが心をば 君ぞ知りける』と和歌をしたため清少納言に贈ったという『枕草子』第二二四段「三条の宮におはします頃」のエピソードが描かれました。
『傍目ではすっかり道長卿の権勢に世は流れて行き、『花や蝶や』と忙しく動いている中私の心を分かってくれるのは貴方(清少納言)だけだ』と寂しくも二人の信頼が垣間見える歌です。

清少納言が定子さまにお持ちした『青ざし』について。
風俗考証・佐多芳彦氏によると、『煎った麦を臼(うす)で挽(ひ)き、よった糸のようにしたお菓子だといわれています。葛(くず)の汁を煮詰めた甘葛(あまづら)を入れて、甘みを付けたりしているのではないでしょうか。』との事です。

『光る君へ』より

>清少納言は几帳にくくりつけられた何かに気づきます。
>それは定子が残した辞世の歌でした。

長保二年(1000年)十二月 十六日、定子さまは第二皇女・媄子内親王を出産します。
しかし、胎盤と卵膜(らんまく)が出ず、後産がうまく進まなかったためか定子さまは息を引き取ってしまいます。
『枕草子』155段「心もとなきもの」にも『気持ちが落ち着かないもの』として、『子産むべき人の、そのほど過ぐるまで、さるけしきもなき。(子供を産む人が、出産予定の時間を過ぎても、赤ちゃんが産まれてくる様子がない時)』や『子産みたる後のことの久しき。(子供を産んだ後、後産(胎盤など)が長く出てこない時)』とあり、後産は出血や胎盤などが出ない事で命を落としかねない『心もとなきもの』だった様です。

『栄花物語』「鳥辺野」では伊周卿が息を引き取り冷たくなっていく定子さまの体を抱き上げて号泣した逸話が描かれています。

『栄花物語』「鳥辺野」

定子さまは出産に際し、産屋の御帳台の帷子の紐に和歌を3首したためた紙を結び付けていました。
御帳台は寝台のある個室です。

夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき

意訳:
一晩中契りを交わしたことをお忘れでないなら、(私が死んだ後)貴方様は恋しいと泣いてくれるでしょう。その涙の色が知りたい

『栄花物語』「鳥辺野」
『後拾遺和歌集』「哀傷」五三六

知る人も なき別れ路に 今はとて 心ぼそくも いそぎ立つかな

意訳:
誰も知る人のいない死出の旅路に、今はもうこれまでと心細い気持ちで急ぎ出立することです

『栄花物語』「鳥辺野」
『後拾遺和歌集』「哀傷」五三七

煙とも 雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露を それとながめよ

意訳:
煙とも雲ともならないこの身であろうとも、草葉に置く露をこの私と思い、しのんでください

『栄花物語』「鳥辺野」

都は大雪が降り、伊周卿・隆家卿らが付き従い、黄金造りの糸毛の車で運ばれ、定子さまの亡骸は鳥辺野に葬られました。
帝であり触穢の観点から一条帝は定子さまの葬儀に参加する事ができません。
夜を明かされた帝は歌を詠み、土葬ゆえに立ち上る煙を遠くに眺める事もできなかったと『栄花物語』は記しています。

野辺までに 心一つは 通へども 我がみゆきとは 知らずやあるらん

意訳:
鳥辺野までわたしの心は慕って野辺送りをするけれど、この雪の中の私の行幸であると定子は知らないでいるのだろうか

『栄花物語』「鳥辺野」
『後拾遺和歌集』五四三

・MVP:定子と清少納言?

>まず、道長と行成。
>行成も敬愛する道長にああも言われて感動はしていて、美しい姿に見えます。
>しかし、幼馴染としての関係のあとに、将来の出世を持ち出すことで濁ったようにも思えます。>利益ありきに思えてしまう。
作中、
道長卿は『一帝二后』について一条帝の許しを得る事に尽力する行成卿に対して、「今日までの恩、決して忘れぬ」と袖で包むようにして行成卿の腕を掴み、「そなたの立身は俺が、そなたの子らの立身は俺の子らが請け合う」と伝えます。
『権記』長保元年十二月七日条には道長卿から『行成が蔵人頭として天皇の身近に仕えるようになって以来、折に触れて自分のために取り計らっていてくれたことは知っていたが、感謝の気持ちを示すことができなかった。今こそこの厚い恩の深さを知った。行成自身のことについては勿論何も心配することはなく、お互いに子の代になっても必ずこの恩に報い、兄弟のように親しくするように言い含めておく」』と感謝の言葉を受けた事が記述されています。

『権記』長保元年十二月七日条

親族を次々に亡くし後ろ盾のない行成卿にとって左大臣である道長卿に自身の立身出世の約束と一族の安寧の保証を取り付けてもらった事もですが、推しの道長卿に功績を認めてもらえ報われたという気持ちもあったのではないでしょうか。



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