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【映画解釈/考察】『MEMORIA メモリア』 「刹那的な意識と記憶をめぐる冒険」

『MEMORIA メモリア』(2021) アピチャッポン・ウィーラセタクン監督
『アフター・ヤン』(2022) コゴナダ監督



記憶をめぐる冒険

 前の記事で、『アフター・ヤン』を老荘思想と関連付けて解釈を試みました。奇しくも、2022年日本公開の映画には、『アフター・ヤン』の他に、記憶をめぐる印象的な作品が2つありました。それは、『メモリア』と『林檎とポラロイド』です。特に『メモリア』は『アフター・ヤン』と記憶や意識についての共通の思想を多分に感じ取ることができます。今回は、『メモリア』について考察をしてみたいと思います。

 『メモリア』は、前半については、意味不明な描写が続くため、とても眠気を誘う作品で、綿密に練られているプロットが見逃されがちです。しかし、後半に、前半の描写の種明かしが行われます。そのため、まずは、前半部分の、不可解な点の整理から行っていきます。

頭内爆発音症とジェシカの症状の特異性


冒頭、就寝中である主人公のジェシカが映し出され、急な爆発音で目が覚めるところからが物語が始まります。これは、頭内爆発音症という言われるもので、実際に存在する症例です。この症状は、睡眠中に限定して起こる、脳のシステムエラーのようで、正確な原因はまだ解明されていないようです。

ただこの作品のジェシカは、就寝中だけではなく、覚醒時においても、爆発音が聞こえます。


ジェシカの妹の不可解な言動


ジェシカは、病気で入院している妹の元を訪ねた場面で、ジェシカは、深い眠りについている妹のそばに寄り添っています。すると、突然、目を覚まします。すでに妹と眠りに就く前に会話をしていたにも関わらず、ジェシカにいつから居たのかと尋ねます。まるで寝る前の記憶を、失くしてしまっているかのようです。そして、自身が体調を崩した原因は、車に轢かれた犬の呪いのせいかもしれないという話をします。そして、その話が終わると、再び眠りに就きます。

次に、ジェシカの妹が登場するのは、妹の家族とディナーを共にする場面です。ジェシカの妹がいるのは想定外だったようで、ジェシカの妹は今日、退院したと答えています。そして、体調を崩した原因は、仕事で関わっている見えない人々である先住民の呪いであると病院で話した内容と異なった見解を話します。しかも、ジェシカの妹はそれを覚えていないかのような反応示します。また、ジェシカの妹は、亡くなったはずの歯医者とメールをしていると話したり、仕事の同僚の現在の様子も答えることができません。

ここで、ジェシカの妹は、現在生きているのかという疑問が生じます。なぜなら、最初の方で、妹の夫と妹が亡くなった後の事務的処理を一緒に行っているかのような場面があるからです。そうなると、ジェシカの記憶の時間軸に乱れがある可能性が生じます。


ジェシカの記憶の混濁と青年エルナンの不在


ジェシカは、頭の中に聞こえる爆発音を再現するために、音楽家の青年エルナンの元を訪ねます。そして、エルナンはジェシカの爆発音を見事に再現し、音源をジェシカにプレゼントします。しかし、再び音響施設を訪ねると、エルナンは不在で、施設の人に尋ねても、エルナンンの存在を知る者はいません。エルナンという人物がまるで、最初から存在していなかったかのようにです。そうなると、エルナンが所属しているという「妄想の深淵」の音楽ユニット名の通り、エルナンは、ジェシカの妄想の中にいる人物の可能性が出てきます。



パラノイア的なジェシカは正常なのか


頭の中の爆発音は何かということに囚われているジェシカはとてもパラノイア(偏執症)の人物と言えます。それを裏付ける描写が、街中で、ジェシカが犬につけられていることを気にしている場面です。また、絵画展で何者かによって電気が消されたような描写もその一環だと思われます。

では、パラノイア的な傾向や、記憶の混濁が見られる、ジェシカの精神状態は正常なのかということになります。

 しかし、結論から言えば、ジェシカが認識していることの方が正しかったというのがこの映画作品の主題になります。それを証明してくれているのが、後半に邂逅する村人のエルナンです。


エルナンとは何者なのかー私たちの意識や記憶は、どこから来て、どこへ行くのかー


 ジェシカは、妹の入院する大学病院で出会った人類考古学者の女性に誘われて熱帯雨林のある町を訪れます。そして、「音」に誘われて辿り着いた川で、エルナンと名乗る村人と邂逅します。

 エルナンというの名前に、ジェシカは一瞬驚きの顔を見せます。それは、もちろん、「音」を再現してくれた謎の青年エルナンと同じ名前だったからです。

 そして、エルナンは、ジェシカの「音」の謎を解く手がかりとなる、記憶や意識に関する不思議な話を、断片的に述べます。

 その一つが、「宇宙で彷徨っていて、恋人たちを見たら、自分が生まれた」という発言です。これは、前出の『アフター・ヤン』と同様に、老荘思想(道家思想)の「道」、または、唯識の「阿頼耶識」を想起させます。

エルナンは、自身をハードディスクとも表現していることから、「道」や「阿頼耶識」のようなものの化身とみることができます。

つまり、私たちの意識は、宇宙の他の次元にある「道」や「阿頼耶識」のようなものから、刹那的に発生していて、さらに、私たちの記憶は刹那的に、「道」や「阿頼耶識」のような場所に送られるという考え方です。

 つまり、すべての宇宙の万物の意識や記憶が集まっている「道」や「阿頼耶識」のような場所が存在していて、エルナンはその記憶の一部を持ったハードディスクのような存在(化身)であるという考え方(解釈)です。

記憶を読み取るアンテナとしてのジェシカ


そして、エルナンはジェシカのことをアンテナ的な存在であると言っています。つまり、ジェシカは、「道」や「阿頼耶識」のような場所にある記憶(または意識)を読み取りやすい人間であるという解釈ができます。

 前で述べたように、ジェシカのパラノイア的な気づきは、アンテナの感度が優れていたからということになります。

 そこで、なぜ、ジェシカのアンテナは、受信することが可能だったのかという疑問が、浮かび上がります。

 エルナンは、「私は、村を出たことがない。テレビも見ない。多くのものを見てしまうと記憶の嵐を制御することができないからだ。」という発言をしています。


都会の喧騒は受信を妨げる


しかし、ジェシカは、コロンビア第二の都市メデジンに住んでいます。

 この映画の前半で、街中でバスがエンストしてしまう場面があります。大きな「音」に、驚くジェシカですが、視線の先には、他の人とは、異なった反応をしている人がいて、「音」から違った記憶を受信している人であると想像できます。そして、その他の人は、通り過ぎていきます。

 これは、社会において、人々が「音」(記憶)の受信に対して鈍感になっていることを表現しているものと考えられます。

 また、パラノイア的な精神疾患とされてしまう人々に、処方される薬物も、記憶や意識の受信を妨げるものとして考えられます。


言語と詩と記憶・意識の受信


では、ジェシカは「音」(記憶)を受け取るアンテナになれたのか。

その一つ目は、言語に関する距離感が考えられます。

 言葉は、どうしても人為的な介入が許してしまうために、老荘思想では、「道」に近づく上で、妨げになるものとされています。

 ジェシカに関する細かい情報が提供されているわけではありませんが、ティルダ・スィントン同様に英語が母国語であるようで、公用語であるスペイン語の影響をダイレクトには受けない立ち位置にいます。

また、ジェシカは詩に強く関心を持っています。詩は、送られてきた記憶や意識を元に、言葉が出てきて、成立します。つまり、詩は、記憶や意識を受信しようとする試みと言えます。

また、音楽や絵画にもジェシカは関心を持っていており、非言語に接する時間が人より長いことが推測されます。


万物と接しようとする姿勢


エルナンは、また、「木や石、そして自分の体も、波動を受信している」と言っています。ここでは、波動とは記憶と置き換えることができます。

量子物理学の量子のもつれの考え方と同様に、物質に刻まれた記憶が、別の場所・次元にある「道」や「阿頼耶識」と情報を共有していて、エルナンはそこにある記憶を、ジェシカに伝えています。

老荘思想では、人為的なものを廃して、万物に直接、接することで、「道」に近づくことができると教えています。

 ジェシカは、ランの栽培を生業としているようですが、そのため、万物に接する時間が長い人物と言えます。それは、『アフター・ヤン』のジェイクがお茶屋を営んでいるのと重なります。また、ランは、菌類と共生をする代表的な花であり、ジェシカは、菌類にも強い関心を持っています。菌類は極めて原始的な生物であると言えます。

また、特にジェシカが敏感である「音」や音楽は、前半にギターの話も出てきますが、波動を多く含んでいる万物の一つだと言えます。


眠りと転生


ここからは、ジェシカの妹の不可解な言動について考えたいと思います。

ジェシカの妹とエルナンには、深い眠りにおいて共通点があります。

エルナンは「夢は見たことがない」と発言しています。そして、ジェシカはエルナンの眠りが見たいと言い、起きると、「死は、どうだったか」と聞きます。それに対して、それに対して「別にどうでもない」と答えます。

では、寝てる間にエルナンの意識はどこに行っていたのかというと、当然、「道」や「阿頼耶識」に相当する場所ということになります。

『老子』にある「胡蝶の夢」の話は、本来は、目覚める度に、人から蝶に、蝶から人に、転生している可能性について説いたものです。

唯識や老荘思想においては、意識や記憶は、刹那的に「道」や「阿頼耶識」を行ったり来たりしているとされています。つまり、常に、私たちの意識は、転生していることになります。

そうすると、ジェシカの妹の不可解な言動や、そしてジェシカ自身の記憶の混濁の説明がつきます。エルナン同様に、ジェシカの妹も、「道」や「阿頼耶識」と表現されるものの化身であると言えます。

そして、妹の病院で出会った人類考古学者の女性も、骨に吸収された死者の記憶=波動を聴こうとする存在です。そのため、ジェシカとその女性は同じ音を聞くことができたのです。

爆発「音」の正体と記憶をめぐる冒険の答え


 そして、エルナンから記憶を受け取ります。それは、石に刻まれた波動=記憶から始まり、おそらくアマゾンの見えない人(先住民)に殺された二人の男の波動=記憶などを聞きながら、到達したのが、ジェシカの耳の中で聞こえていた爆発音の正体です。

 それは、クジラのようにも見える宇宙船が旅立つ音だったというものです。あまりにも唐突な結末に戸惑うわけですが、何かを表象したものと受け取る方が自然だと思われます。では、何を表しているのか。それは、やはり、「道」や「阿頼耶識」のような宇宙規模の意識(記憶)=想像の存在だと考えてしまいます。



車の点滅と盛大な装置としてのエンドロールの雨音


そして、映画の冒頭近くで出てくるクラクションを伴う車の点滅の謎ですが、私たちが、突然点滅をする車と同様に、意識(記憶)を刹那的に受信している存在であることを表したものではないかと考えられます。

そして重要なのが、最後のエンドロールです。音楽ではなく、すべて、雨音になっています。この雨音は、とても重要な役割果たして、記憶を受信する=「道」や「阿頼耶識」に近づく前に、雨音が必ず登場しています。おそらく、雨音は他の音をかき消す力を持ち、人為的な音を排除することができるからです。

このことから、エンドロールの雨音は、ジェシカ同様に、私たちが、記憶を受信し、「道」や「阿頼耶識」のようなものに近づくための装置だったと言えるのではないでしょうか。






 













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