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山路を登りながら -自己に潜る期間としてのXSCHOOL- #2

「自己に潜る期間」と題して2回目の更新です。

さて、前回はXSCHOOLへ参加した経緯をお話しました。
今回からは、自分の幼少期からの記憶を辿って印象に残っている出来事からその時の家族との関係を抜き出し、それが現在の私をどう形成したのかを考えてみます。

予告通り、過去の記憶を振り返って書こうと思いますが、まずは私のことをご存じない方ばかりだと思いますので、簡単に自己紹介をします。

1985年生まれ、新潟県在住。
職業はデザイナーですが、今も昔も「デザイナー」の定義が広すぎてこの5文字では語りきれませんね。
社員70名ほどの制作会社で、主にWEBサイトのデザインや設計・運用やグラフィックデザインなどを主な業務として働いています。

いまのところ幸いにも両親は健在、両親は2人とも新潟出身で、
父親が大学進学で県外から新潟に戻った際、お見合いで出会ったそう。

兄弟は3つづつ離れた兄と姉がひとり、3人兄弟の末っ子です。
結婚はしていますが、子どもはいません。

小さい頃は絵を描くのは好きで、よくKOKUYOのキャンパスノートやジャポニカ学習帳を丸々一冊使って、マンガや手書きのゲームをつくっていました。
小・中・高と大きく非行に走ることもなく、なんとなくやり過ごす日々が多かった気がします。
ただ少しだけ絵が上手かったという理由で県内で唯一のデザイン系の大学を選び、うまく高校の推薦枠に滑り込んだAO入試の面接では、今となっては何を話したかも記憶にありません。

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前回、転校初日、帰る方向が分からなくなって泣いた日と書きました。

前述した通り、県内の地方銀行の職員だった父親の仕事の関係で、何度か県外に引っ越しもしていますが、私が小学校に上がる90年代初頭にはまだ田んぼだらけだった新興住宅地に一軒家を建て、以来わたしの家族はそこに暮らし続けています。

その家を建てたおかげで小学校1年生の頃に1度だけ転校したことがあるのですが、転校と言っても車で20分も行けば着いてしまう、校区が1つ違う程度の距離でした。

小学校に入学して数ヶ月も経たずして転校したおかげか、ほとんど他のみんなと大差なく学校生活に溶け込めるようになっていたのは、今思えば両親の配慮もあったのかもしれません。

そんな転校初日の記憶が強く残っています。
小学校から自宅の間を結ぶ細い通学路は、両側に一面の田んぼが広がっており、いわばトラクターが走る農道を通学用に心ばかり整地したような道でした。

かろうじてアスファルトで舗装されている箇所もあるが、ところどころから雑草がのぞく、でこぼこした道。

あたたかい春の日差しの中、その道を教師に連れ沿われて帰るひとりの少年が、わたしです。

わたしは転校初日、下校時に自宅への帰り道が分からなくなって泣いていたところを同級生に声を掛けられ、一度学校に戻ったところ担任の教師(だったかは記憶が曖昧です)に自宅まで連れ帰ってもらったようです。

帰り道に教師と自分が何を話し、家に帰ってからも親とどんな会話をしたかは全く覚えていません。
おぼろげな記憶ですが、登校は休みの日に両親と一緒に小学校までの通学路を何度か事前に歩いていたのだと思います。

ただ鮮明に覚えているのは、「なんとなく歩いていけば家に帰れるだろう」と言う楽観的な考えと、根拠のない自信。

転校初日の朝の記憶はなくても、その帰り道の記憶と自分の頭で下した判断は今でも時々思い出すくらい、強い印象となって残っている。

今も昔も変わらない自分の性格を、とてもよく表しているエピソードだと思うのです。

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どこまで書き続けられるか分かりませんが、もうしばらくの間は過去の自分を内省する日々を送ってみようと思います。

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