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❖ルーティンは知里にも知理にもなる❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年10月21日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

形に残すルーティンは、あとで材料として大きな武器になる。創作に対して一気に取り掛かる熱量や集中力に欠ける私は、大規模な表現が苦手だ。しかし今まさに実行しているルーティンの形で、少しずつでもコツコツと、表現を形に残しておくと、積み重なった素材は後々、それらを組み合わせたり、それらを発展させたりして、豊かな表現を可能にする。以前はアナログのメモ帳に、思いつくままに走り書きしていた。それはそれで自然で純粋な表現の姿。しかし日によって表現ゼロも起こり得たし、走り書きの集積物は間違いなく貴重な素材だが、振り返るのに手間がかかり、ややもするとせっかくの素敵な表現素材が忘れ去られてしまうことも多かった。久しぶりにメモ帳を見つけ、こんなアイデアがあったかと、はっとすることも。それは古いアルバムを懐かしむような気分で、味わいがあるが、表現活動とは言えなくなる。久しぶりに思い出して、そこから表現が息を吹き返して、表現が広がっていくことは確かにある。だがそれよりも、忘れて放置の方が多い。だから現在のように、デジタルの力を借りて、スマホにメモしたり、SNSに投稿したりしておくことで、表現素材が埋もれにくくなると同時に、粗いもののデジタルで具現化されている分、アナログのときの走り書きよりも表現素材を今後に続く表現に転化させやすい。以前にも、「知識の素材だから、知識の源、ふるさとだから、知里(ちり)だろうか。知識の原理だから、知理(ちり)だろうか。」と書いていた。まさに、「知里も積もれば山となる」、「知理も積もれば山となる」。日々のルーティンで積み重ねている表現素材は、更なる豊かな表現の可能性を持った、宝の山なのである。

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