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❖教員の賞味期限❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年11月15日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

2021年11月15日不遜な自分

昨日、昔の野球の動画を見ていた。そして落合や工藤の引退間際の動きを見ていて思った。教員のピークって何歳だろうと。当然のことながら、野球選手と教員は様々な面で異なっているので、単純な比較はできない。しかしスポーツ選手の場合、パフォーマンスが低下していくと、どこかで引退を決断しなければならない。年齢ではなく、ケガによる場合や、分析された結果として技術的に通用しなくなる場合もある。ケガは仕方ないところもあるが、安定したパフォーマンスを発揮するための身体や精神のメンテナンスもプロとして重要と考えれば、技術的に通用しなくなる場合と同様で、自己改善・自己研鑽の努力不足と評価することもできる。そしてそのような努力不足を若いうちから見直さないならば、若くして引退となるだろう。その努力をいくらしようとも、いつかは年齢によって乗り越えられなくもなるだろう。教員についても、自己改善・自己研鑽の努力不足を見直す気がなく、パフォーマンスが低下するならば、スポーツ選手と同様に通用しないことを自覚して引退しなければならないはずだろう。しかし教員はスポーツ選手のようにパフォーマンスの判断基準、評価基準が明確ではないため、判断・評価が難しい面はある。だから本当は良いパフォーマンスにも関わらず、正当に判断・評価をしてもらえない人も出てきてしまう。一方で逆もありうる。定年というのは、どれだけ努力をしていても、限界だろうと考えざるを得ないラインとすれば、ピークはもっと早い段階で過ぎていることになる。ピークを過ぎたから即戦力外で引退というわけではない。だが、求められる役割は変化するだろう。そうした変化に対応したがらなかったり、対応できなかったりすれば、そこで戦力外で引退となるだろうか。これは他者に対する刃ではなく、自戒の刃として示している。自分は一貫して教員ではあるものの、特定の場所に腰を据えて教員としてパフォーマンスを発揮しているわけではない。それゆえ、これまでは短期的な教員のパフォーマンスさえよければ、戦う場は必ずあると考えてきた。しかし、そのパフォーマンスもいつかはピークを過ぎる。また自己改善・自己研鑽の努力をどれだけしているかという指摘も耳が痛いところである。とにかくいずれなのか、既になのか、これまで頼ってきた短期的パフォーマンスのピークはくる。そのとき、特定の場所に腰を据えていない私に、変化した役割が求められることがあるのかというと、その可能性は高くない。だが、今すぐに私の置かれている状況は変わらないので、まずは自分のパフォーマンスができるだけピークアウトしないようにするため、自己改善・自己研鑽の努力をすることが大切である。昨今、授業の在り方にも様々な変化がある。変化が苦手とは言ってられない。焦りはある。しかしプライドが曲者である。ちっぽけなプライドだと自分自身でスパッと切り捨てられない複雑な気持ちもある。切り捨てず、切り抜けたいという強欲じみた卑しさも見え隠れする。変化の波をうまくとらえて、見事に進んでいる他者を見ると、自分だってという嫉妬も出てくる。にも関わらず、真剣に努力しようとしない非常に怠惰で不甲斐のない姿への激しい憤怒もある。それを紛らわせようと、目先の精神安定として暴食に手を染めた後の自己嫌悪もある。だが最も厄介なのは、こうして綴りさえすれば、何らかの贖罪がなされているのではと考えている楽観主義の自分が、この状況を俯瞰していて、どこか他人事なことかもしれない。客観で考えようとする自分を、俯瞰する不遜な自分。それをまず最初に戦力外通告すべきだろう。とにかく四の五の言わず真面目に謙虚に行動せよということ。

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