[Bali life] バーニングマンから学ぶ コミュニティーをビジネスにする怪しさと危うさ
友人がバーニングマンについてチャットに書いていたので、ちょっと考えてみました。バーニングマンとは、アメリカの砂漠に毎年三日間だけ街を作り、「分けあたえる行動をする」アートフェスティバルというかイベントです。バリ島のチャングーはヒップスターがたくさん住んでいるところで、ゆるーくバーニングマン的な文化とそのような格好に近いような人がいます。実際に、バーニングマンに参加したと言う知り合いも何人かいます。バリ島でも、毎年アートフェスティバルが行われていて、コミュニティーを強調していると言うことでは似たような雰囲気があります。
友人のチャットにはダイバーシティーを広めるために興味があると書いてありました。多分ビジネスとしても興味があるんだと思います。しかし、バーニングマンは多様性は広まらないでしょうし、これだけではビジネスにならないと思います。それはバーニングマンが下地があるお祭りに(まだ)なっていないからです。補足すると、バーニングマンはイベントビジネスにしようと思っていないです。バーニングマンのコミュニティーのお祭りの部分だけ真似して、下地を考えていないと、多分ビジネスにならないです。音楽や試合の観戦といった価値を提供するコンサートやスポーツイベントのようなコマーシャルイベントと、人とのつながりやその儀式を提供するお祭りは違うのです。このような人のつながりを金銭にすることに、怪しさというか心に暗いものを感じるので、そんなに大きな金額を請求できないと思います。
コミュニティーのイベントについてもう少し考えてみましょう。バーニングマンはそもそもこれをビジネスとして捉えていないので、これをビジネスにしましょうと言う話ではなく、同じコンセプトでビジネスを作る場合このお祭りだけではきっと収益になりにくいのではないかと思います。このバーニングマンはコンサートやスポーツイベントのようなビジネスではなく、あるコミュニティーが作ったお祭りだと多くの人は思っているでしょう。このバーニングマンが、村のお祭りと違うところは下地になっている継続したコミュニティーがないことです。バーニングマンの解説などを見ても、これは見学ではなく参加するイベントだと書いてはいても、多くの人は毎年運営から関わって参加している人は多くないでしょう。しかし、一方でビジネスイベントと思っていないためこの規模に見合った料金を請求することも難しそうです。参加費は、1人500ドル以下で三日間夜通し行われるイベントとしては低価格ではないでしょうか。そして、実際に、運営には非常にお金がかかっており採算取れるかどうか厳しいレベルのようです。昔ながらの村のお祭りと同様に、コミュニティーを前面に押し出した村のお祭り的なイベントはそんなに高い金額を請求できません。それは人のつながりをお金に変えていると言う疾しさを感じるからです。もし人のつながり以外の価値を提供せずに、コミュニティーの運営だけで相当の金銭を請求していたら、その運営者とのつながりを参加者は信用するでしょうか。昔ながらの村は、お祭りで生活費を稼ぐ収益を上げようと思っているわけでしょう。村は村を運営するための予算が別途にあり、村でお祭りを企画と運営する人も、給料を請求するようなこともないでしょう。そのため、昔ながらの村のお祭りは問題なく運営されていきます。バーニングマンも、ビジネスにしようと思っている感じではないので、問題ないでしょうし、もしかしたら今後オンラインのコミュニティーの村が発展して、バーニングマン村という下地が出来上がるかもしれません。問題なのは、このお祭りの部分だけのバーニングマンを切り取ってビジネスにしようとした場合、あまり多くの人は高い金額を払わないであろうことです。
下地がなぜそんなに大事かって言うと、そのお祭りの正当化させる理由があることと、金銭面からの継続性を与えられることです。バーニングマンとそんなに違わない歴史で、ねぶた祭りと言うものが日本の青森県にあります。この祭りも今のちょっと派手な巨大な人形を作るお祭りになってからは数十年位の歴史しかないのですが、この祭りに関して私は何ら怪しさも危うさも感じません。ねぶた祭りは、他の仕事をしてお祭りがなくても収入が得られる地元民に運営されているため、今後も継続的におこなわれていくでしょう。バーニングマンもきっと、オンラインを通した村と言う形で似たようになっていくでしょうが、そのコミュニティーがなければこのお祭りを継続していくのは難しいように思います。バリ島にあるアートフェスティバルも、ビジネスのイベントなのですが、外国人が運営しておりコミュニティーイベントとしての下地がなく、正当性とこのイベントで採算を取らなくてはいけないと言う危うさがあります。実際に、採算を取るのは結構難しいそうです。
下地がなく上っ面だけの華やかさだけを追いかける怪しさと危うさの例で啓蒙活動・アドボカシーをあげましょう。歴史に名を残した啓蒙活動の人は下地があります。例えば、公民権運動のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは牧師であり、彼の行ってきたことには牧師という正当性、アドボカシーの活動に自分の生活をかけなくても良い安定性があります。話す内容の根拠と生活の基盤がない人が、「啓蒙活動を職業とするのでお金をください」と言っても、怪しさと危うさを感じてしまいます。
最後に多様性の話もちょっと。そもそもアウトロー的な人は平均値から離れることで、多様性のように思いますが、そのアウトサイダーの人たちも、似たもの同士で群を作るので結局多様性にはなりません。高校時代の不良と言われる人や、暴走族が似たような話し方や格好をしていることが事実です。さらに、そのコミュニティーがオンラインになると、コミュニティーに入るのが簡単で、合わないやつを排除しやすくなります。そのため、 より似た者同士が集まることになるでしょう。だからバーニングマンのようなものを作っても、似たような変わり者が集まるだけで、多様性は期待できないでしょう。バーニングマンに行く人は、リッチなヒッピーで、似たような人たちです。内向的な本の虫はいないでしょう😉 。もし本当の村のように、ここで生まれた人は誰でも受け入れざるを得ず、よっぽどのことがない限り追放することもできないようなコミュニティーを形成できたのなら、そのコミュニティーと彼らのお祭りは多様性があるでしょう。
バーニングマンのようなイベントでビジネスを行うのでしたら、そのイベント以外ででも、収入も得られることを模索するべきでしょう。どちらにしろ、人のつながりと言うものを金銭にするのは怪しさがあるので、規模の経済が必要になるでしょう。結局それは安価のオンラインサロンになるだろうし、自分の経験からもそこに多様性を求めるのは難しいと思います。
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