永遠の未決存在者としての万能人からの脱却と神の受肉

私は永遠に決断をしたくない。だからこんなことになっているとも言える。何か。例えば社会における身の置き所。そこで稼いでそこで生きていくところのそこ。或いはまた、信念。私は今キリスト教において洗礼を受けようとしているが、私は信仰などまっぴらごめんである。入信しても決して信じたくない。しかし、身の置き所や信念体系の選択を決断しないとやっていけないような感覚がある。だから今、私は決断の時局にある。

最近の私が所謂ところの普遍性を感じさせるものを書かない理由。答え。それは真の普遍ではなく、個のものの固有を取りこぼすから。つまり私は、普遍性を求めることをやめたわけではないが、まるで真の普遍であるかのように偽って何かを取りこぼすような惨いことはしたくない。それは自分自身のためにこそそうしている。私は、ブッダやソクラテスが求めた「善」を、宮澤賢治の願った「ほんとうのさいわい」を、それをこそ希求している。だから、安直に内実を定めるような愚行は避けたい。避けないと、あまりにも辛い。しかし現に生きているというアクチュアリティがあるうえに、私は私自身をいつどこかに転落してもおかしくない存在だと感じて日々生きているから、待ったなしである。或いは、永遠に、或いは世の終わりまで全ては不均衡状態であり続けるということが宿命なのだろうか。但し少なくとも言えることを言う。なるようになり、ならぬようにはならぬ、しかし、なることとならぬことがどのように定まるのかはわからないし、現行の論理学が通用するのか否かさえ判断がつかないから、結局信念で内実を定めないかぎりこの言葉は気休めにならない。基本的には、自分自身に対する自信が強くあれば思い煩うことも少ないはずである。自信は、例えば病気になったときや死に際にあっても自分の自我は気を確かに持って全うできるという感覚に繋がる。また、選択的決断に際して、その選択が成功したり、或いは決断を後悔しないという感覚にも繋がる。よって、当面の課題はいかにして自信をつけるかということである。私には基本的な自信というものが欠落している。但し、いつも結果として私自身が私自身の凄さに驚かされることが多い。その意味では、結果からの逆算的に自信をつけていっているのかもしれない。だから、やることはといえば、どんどん決断し、どんどん進んでいくことかもしれない。しかし、しかしそれは「傲慢なモラトリアム人間としての普遍人」の幼児性を脱却するという体裁での、自己の狭隘化ではないか。あるいはこう考えるか。「私はもう十分に広い」。基本的に私の理想は人間離れした理想で、たんに神的な万能人というだけでなく、その各々の知識と能力でもその専門家顔負け、というものである。だから問題があるのである。時間と若さは、それに比すと、あまりにも短い有限である。だから、私は、制作者として神のように振る舞うか、或いは神をきっぱりと諦めて死すべき者としての生をしっかり見つめて、そしてまたしっかり選択的決断を実行して進み、無限の可能性を放棄して人間として生きるか、なのかと思う。だから、その分枝の先においていかに美しく咲き、よく実るか、ということが要なのかもしれない。いいことが言えたので、今回はここまで。

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