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第1章  武士の台頭

平安末期を古代とする時代区分はわかりづらい。武士が台頭してきた平安末期から中世に入ったとみよう。

目次
  939 承平・天慶の乱
1028 平忠常の乱
1051 前九年合戦
1069 延久の荘園整理令
1083 後三年合戦
1086 院政開始
1156 保元の乱
1160 平治の乱
1180 治承・寿永の乱
1183 寿永二年の十月宣旨
1185 平家滅亡

荘園の管理や開墾など、面倒臭い仕事を押し付けられ、バカにされ続けてきた武士。それでもなんとか公家に取り入ろうとしてきたけれど、、とうとう我慢できなくなった平将門と藤原純友が東西で偶然にも同時に反乱を起こします。武士が台頭するキッカケとなった重要な事件です。

939 承平・天慶の乱
 平将門が乱を起こした場所はどこ?
 将門を制したのは誰と誰?
 藤原純友を制したのは誰?

主役の平将門(下総)は同門の平貞盛押領使藤原秀郷に、藤原純友(伊予)は源経基に討たれます。なお、源経基は清和源氏の祖。

承平・天慶の乱から約100年後、朝廷から目が届きにくい東国で、力をつけてきた武士が勢力争いを激化。中でも平氏から源氏へ勢力が移った三つの戦いが頻出。

???? 平忠常の乱
 いつ、どこで起きた?
 誰が制した?

1051 前九年合戦
 誰が、どこで反乱を起こした?
 誰が制した?

1083 後三年合戦
 誰が、どこで起こした?
 内紛に介入したのは誰?

東国における源平勢力の交代のきっかけとなった上総で起こった平忠常の乱(1028)、前九年合戦(1051)と後三年合戦(1083)を同時に押さえる。平忠常を制したのは源頼信。前九年合戦で反乱を起こした安倍頼時陸奥)を制したのは源頼義。そして、清原氏出羽)の内紛である後三年合戦に介入したのが頼義の子源義家

源氏が東国で着々と力をつける一方、京都朝廷では藤原摂関家の権力に陰りが見え始めます。特に摂関家と関係を持たない後三条天皇は、大きな権力を発揮し始めます。

1069 ??の荘園整理令
 元号は何?
 誰が発布した?
 特徴は?2つ述べよ。
 誰がアイディアを出した?
 なぜできた?

延久の荘園整理令(1069)を後三条天皇が発布。1)形骸化していた荘園整理令の審査対象を摂関家、寺社まで拡大、2)記録荘園券契所を設置したこと、が特徴。大江匡房を重用しアイディアを出させました。なお、ひ孫の大江広元は幕府制度を考案しています。

どうしてこれほど強力な荘園整理令を出せたのか。理由は、道長の子で宇治殿と呼ばれた頼通は、天皇になる男子を授からず、藤原摂関家を外戚に持たなかったからです。

後三条天皇が権力を藤原摂関家から天皇家に取り戻し、子の白河天皇はさらに「院政」という強力な権力構造を作り上げます。

???? 院政開始
 誰が誰に譲って開始?
 いつ開始?
 
後三条天皇の後、白河天皇が即位。堀河天皇に譲り上皇となり院政開始(1086)。 鳥羽 - 崇徳 - 後白河と続く流れも重要です。平安末期、この6人だけは天皇の名前を押さえておいてください。

白河上皇が院政を開始し、権力を得ると、必ずと言っていいほど次の代で権力闘争が起こるのが歴史の真実。崇徳上皇と後白河天皇の兄弟喧嘩が勃発します。でも、実際に戦ったのは武士。貴族の権力抗争の道具に過ぎなかった武士が、武力を背景に主導権を握ることに繋がってしまいます。

1156 保元の乱
 誰と誰の喧嘩?

1160 平治の乱
 誰と誰の権力争い?
 清盛はなぜ権力を握れた?
 日宋貿易は誰が開始した?
 日宋貿易が栄えたのはどこの港?

崇徳上皇後白河天皇の兄弟喧嘩、保元の乱(1156)で後白河側が勝利。その後、後白河側に味方し勝利をもたらした平清盛源義朝の直接対決、平治の乱(1160)で清盛勝利。後白河天皇の寵愛を受け、父平忠盛が開始した日宋貿易を拡大させるため、大輪田の泊(摂津)を改築、貿易の権益を一手にしたことで権力を手中に。

清盛は娘徳子を高倉天皇の中宮とし、子の安徳天皇の外戚にするという、貴族的なやり方を行ったため、朝廷からも平氏以外の武家からも反感を買うことに。結果、命を救ってやった源義朝の子、頼朝に反乱を起こされます。

1180 治承・寿永の乱
 頼朝はまず何をした?
 主要な機構と要職に就いた人物は誰?

1183 ????
 後白河院に認めさせた東国支配権の宣旨名は?

1185 平家滅亡
 滅亡した場所はどこ?現在の何県?

以仁王の令旨(1180)によって源氏挙兵。頼朝は侍所を設置、初代別当和田義盛。清盛は翌年無念の死を遂げます。寿永二年の十月宣旨(1183)で事実上の東国支配権獲得。現在の山口県壇ノ浦(1185)で平氏滅亡。これら一連の戦いを治承・寿永の乱と言います。

後白河院は、頼朝を右大将には任じたものの、権力を奪われることを恐れ、征夷大将軍には絶対に任じませんでした。頼朝が征夷大将軍となったのは、後白河院の死後のことです。

第2章 北条得宗家の政治 に続きます。

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