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毎週一帖源氏物語 第十三週 明石

 このシリーズ第二週の「帚木」で、私は現代語訳で『源氏物語』を読もうとした過去の取り組みに触れて「須磨・明石くらいまで辿り着きはしたものの、帚木巻で勢いをそがれた」と書いた。しかし、実はそこまで行かずに挫折したのではないか。しばらく前から、そんな気がしていた。明石巻まで読み終えた今となっては、自分の記憶を上書きしていたことを認めざるをえない。明石の上について、私には何の印象も残っていなかったからである。『源氏物語』の成立過程について、まず須磨・明石の巻の構想があったという説に流されたものであろうか。

明石巻のあらすじ

 嵐はなおも収まる気配がない。京でも風雨は激しく、二条の院から須磨へ見舞いの使者が来る。源氏は住吉の神に願をかける。夢枕に立った故院も、「住吉の神の導きたまふままに、はや舟出して、この浦を去りね」(264頁)と仰せになる。
 明石の浦より、「前(さき)の守(かみ)新発意(しぼち)」が舟を出して源氏を迎えに来る。夢にそのようなお告げがあったのだという。源氏は自分が見た夢も思い合わせて、この申し出を受ける。
 入道の邸は浜辺近くにあり、立派に整えられている。高潮を警戒して、娘は岡辺の宿に移されている。うらぶれた須磨に比べると、明石は人が多すぎる難はあるものの、居心地はよい。入道は音楽談義にかこつけて娘の腕前を源氏に吹き込み、「都の貴(たか)き人にたてまつらむ」(280頁)という十八年来の願いを明かす。源氏は入道の気持ちに応えて娘に文を送るが、娘のほうでは身分の違いを思ってためらっている。
 この年の三月十三日、帝の夢枕に院が立ち、叱責を加えられた。帝は目を患い、母后も病み、祖父の太政大臣は亡くなった。帝は源氏追放の報いではないかと弱気になる。
 秋になり、源氏は入道の了解のもと娘と契るが、このことが京に伝わることを恐れ、先回りして二条の君に文を送ってほのめかす。その返りの文には末の松山にこと寄せた歌が添えられ、心変わりを恨む気持ちが読み込まれている。
 年が改まっても、帝の目の病は快方に向かわない。春宮に譲位するにしても、後見をすべき源氏が不遇をかこったままでは都合が悪い。七月二十余日、母后の反対を押し切って、帝は源氏召還の宣旨を下される。
 源氏としては、ようやくこの時がめぐってきたとは思いながら、六月頃に女君に懐妊の兆しがあったこともあり、名残惜しさも感じられる。
 八月、源氏は明石を発って京に帰る。入道も娘も嘆き悲しむが、懐妊のこともあるので、源氏はいずれ女を京に呼び寄せるつもりでいる。
 京に戻った源氏は、公私ともに晴れ晴れとしている。権大納言に昇進し、帝、春宮、入道の宮とも対面を果たす。二条の院では久しぶりに女君と再会し、どうして長い年月会わずにいられたのか不思議に思われるのだった。

摂津と播磨

 昔の国と現在の都道府県は、必ずしも一致しない。摂津国は現在の大阪府北部から兵庫県東南部に及び、播磨国は兵庫県西南部を占める。つまり、摂津と播磨の境目は兵庫県の中にあり、しかもそれは須磨と明石のあいだなのだ。源氏が須磨に流れ着いたとき、世話をしたのは摂津の国守であった(私は先週の記事でそう書いたが、あらすじでは原文の用語を尊重するという方針からすると、摂津と明示せず単に「国の守(かみ)」と書くべきだった)。一方、明石の入道は播磨の国司だった人である。退任しているとはいえ、隣国に住まう源氏との接触を試みるのは、そう簡単ではなかっただろう。
 この境界は単なる国境(くにざかい)ではない。畿内と山陽道を分け隔てている。逢坂の関が山城国(畿内)と近江国(東山道)を隔てるように、須磨の関は摂津国と播磨国のあいだに立ちはだかる。須磨と明石は目と鼻の先でありながら、心理的には遠い。住吉の神のご加護でもなければ、この一線は越えにくかったのではないだろうか。

明石の上の年齢

 父の入道が娘の将来のために「住吉の神を頼みはじめたてまつりて、この十八年になりはべりぬ」(279頁)という設定からすると、それがほぼ明石の上の年齢に当たると考えた場合、源氏が北山で噂を聞いたときはまだ九歳という計算になる。頭注はこの点に触れて、「代々の国司が求婚しているという話とは合わない」と指摘する。
 若紫巻からすでに九年が経過していたのかと思うと感慨深いが、そういう計算を抜きにしても、そもそも紫の上と明石の上の歳の差を考えてみれば、最初からちょっとおかしかったとも言える。若紫巻の時点での紫の上は、明らかに子供である。そのとき求婚の対象になっていた入道の娘は、紫の上よりもそれなりに年上でないと辻褄が合わない。だが、物語上は明石の上のほうが一つ年下のようだ。この手の矛盾は長篇ではよくあることなので、目くじらを立てるほどではない。

またも長い一文

 これまた先週の記事で、源氏が紫の上を須磨に連れて行くかどうか思い悩む一文が異様に長いと書いたところだが、明石巻でも同じくらい長い一文に出くわした。明石の上が自分の生い立ちを卑下して、源氏との関係であれこれと思い煩う場面である(287-288頁)。このくらいの長さで、いちいち驚いていてはいけないらしい。

良清の胸中

 源氏に明石の上の噂を吹き込んだのは、源少納言良清である(若紫巻)。その伏線がなければ、源氏が入道の娘に興味を覚えることはなかっただろう。
 明石の上は受領の娘なので、源氏とは身分が釣り合わない。良清が相手でもおかしくはないわけで、実際に若紫巻では周囲の者たちに冷やかされていた(若紫、第一分冊、187頁)。そういう経緯は源氏も覚えていて、良清が目をつけていた女を相手にするのは癪に障るし、気の毒でもあるらしい(「良清が領(らう)じて言ひしけしきもめざましう、年ごろ心つけてあらむを、目の前に思ひ違(たが)へむもいとほしうおぼしめぐらされて」(284頁))。八月十三夜、初めて明石の上のもとに通ったとき、供をさせたのが惟光だったのは(289頁)、せめてもの良清への心配りであろう。
 明石の浦を離れるときに源氏が感傷に浸っているのを見て、良清だけは明石の上に寄せる源氏の思いの深さに気づき、「おろかならずおぼすなめりかしと、憎くぞ思ふ」(301頁)。主君とはいえ、含むところがあるようだ。かわいそうに。

末の松山

 浮気をほのめかされた紫の上は、やんわりと歌で源氏を咎める。

うらなくも思ひけるかな契りしを
  松より波は越えじものぞと

明石、293頁

 頭注は二つの引き歌を示す。すなわち、「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」(『古今集』巻二十、陸奥歌)と「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」『後拾遺集』巻十四恋四、清原元輔)である。後者は百人一首でもお馴染みだ。波が末の松山を越えるのはありえないことのたとえで、決して心変わりはしないという誓いをこのように言う。しかし、歌に詠まれるときは、心変わりが起きてしまったときである。
 ちなみに、この「末の松山」というのは、現在の宮城県多賀城市あたりとされている。恥ずかしながら、私はつい最近までそのことを知らなかった。どこのことかと気にすることもなく、「松山なんだから伊予だろう」くらいに思っていたのだ。情けない。

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