「ラグナロック」
前書き
私がここに記するのは、妄想であり、虚構ではない。虚構(フィクション)はウソだと分かって創作しているものであり、妄想は違う。真実だと信じている点が、違うのだ。ただし、証明の手段はない。あくまでも、仮説ということであり、推理であり、科学でしかない。
よく勘違いされているが、科学とは、観察されたこと、あるいは、事実として(仮に)認識されたものを、組み立てて仮説を立て、それを検証していく態度をいう。
一般的に認められていないことを発言すると、科学的でない、などの批判を受けることは、ままあるが、それは間違っている。例えば、私自身は、幽霊を見ないし、UFOを見たこともないが、私の周辺にいる何人かの人からは、体験談を聞いたことがある。妄言をするような人物ではないし、私には経験はないけれども、真実ではない非科学的だと断じることは無い。それが真実だと仮定して、仮説を考える、その姿勢が科学なのだ。
まあ、これからここに書く内容は、科学と呼ぶには少々大雑把であることは否めないから、そこは飲み込んで、妄想と呼ぶことにした。
従って、以下書き記すことは、現在ある、いかなる団体、人物ともなんの関わりもない、ただの妄想に過ぎないと宣言しておく。なんでこんな煩わしいことを、わざわざ書くかは、この後を読めば分かってもらえると思う。さてそろそろ始めようか。
本文
現在、イスラエルの国内法である帰還法は「ユダヤ人の母から産まれ、あるいはユダヤ教徒に改宗した者で、他の宗教の成員ではない者」をユダヤ人と定義している。だから本来はユダヤ教徒がユダヤ人なのであって、ユダヤ民族というものは、人種的な単一集団としては存在していない。
さて旧約聖書によれば、イスラエルの民はノアの子孫で、メソポタミアのウルから今のパレスティナあたりに移住し、その後飢饉にあってエジプトへ移民したことになっている。それが大体紀元前1700年頃の話らしく、有名なモーセの出エジプトの話は、ラムセス1世がエジプトの混乱を鎮めて即位した、紀元前1293年よりも少し前の時代に違いないとフロイトはその著書の中で述べている。(「モーセという男と一神教」フロイト全集22)
これを大体のところ、正しいと仮定して考えてみる。
そうすると、エジプトへ移民した集団あるいは家族は、500年近くをエジプトで暮らしていたことになる。この時、まだユダヤ教は存在していない。モーセが神から契約を授かるのは、この後だから。
つまり、エジプトには、パレスティナから移民した家族の子孫が、血縁集団として存在しただろうが、ユダヤ人集団は存在していない。核となる教義も、教会も聖書も何も無い中の500年で、混血も進んだだろうし、何よりもエジプトへ同化していたに違いない。
また18王朝のアメンホテプ3世の治世に、被征服民の呼称として「九弓の民」ぺスジェト・ペジェト(エジプトの王と神々に敵対するもの)という呼び名が定着した。
ここに当時の被征服民族名が、九つ明記されるのだが、この中にイスラエルの民、或いはパレスティナの民も出てこない。当時パレスティナあたりの地域は、18王朝初期の王たちによって、エジプトの主権下に入っており、もしそこに有力な部族がいたのなら、名前が上がっていてもおかしくないのだ。
では、出エジプト記に描かれるエジプトから逃げる集団は、一体どんな人々だったのか。なぜモーセに従って、砂漠へ逃避行をしなければならなかったのか。聖書によれば、カナンの地へ戻るためだとなっているが、ユダヤ教が成立していない段階なのだから、それは無理がある。
何よりも集団として、何を元にまとまっているかが、わからない。
ここから推理を進めていくので、現在わかっている事実を列挙していく。
1 モーセという名前は、エジプトでは単に息子を意味する単語なので、ありふれており、王の名前などにも、よく使われている。(例 ラムセス=ラーの息子)
2 モーセはエジプト王家で育てられたという伝承がある。(旧約聖書より)
3 ユダヤ教徒を他民族から区別するのに、よく「割礼」の習慣が用いられるが、この風習は古代エジプトでは通過儀礼として、一般的だった。
西アジアの他の地域には、この風習はない。
4 エジプトを統一した最初の王、ナルメル王は、豚はホルス神の敵、セト神と同一視し、食べることも供物にすることも禁じた。禁令の後も、庶民は食べていたようだが、王家や神官階級のようなエリートは食べていなかったらしい。
ユダヤ教徒も豚は食べない。
5 アベンホテプ4世は、知られている限り、世界で初めてアテン神を主神とした一神教を創設した。他の神々も迫害し、神官団を抑圧したが、民衆の支持は受けられず、一部の高官たちとその家族だけに受け入れられていたらしい。そのため彼の退位後、この宗教改革は失敗し、全て元に戻された。
6 ユダヤ教は、ヤハウエ(YHWH)を主神とする一神教であるが、YHWHというのは「私は在る者である」という言葉の頭文字であり、名前ではない。
モーセがイスラエルの民(旧約聖書の中の表現)を率いて、エジプトを出たのは、アメンホテプ4世の宗教改革が失敗した後だった。私の妄想(推理)では、この逃避行の理由は、アテン教という一神教を守るためだったと思っている。神との約束の地カナンを目指して、というのはユダヤ教が成立していない世界では、根拠にならない。フロイトも前述書の中で、それを示唆している。私は、それをさらに進めて、もしかしたら、モーセはアメンホテプ4世、その人だったのではないかと思う。それであれば、脱出行もクーデターや暗殺を恐れて逃げたのだと説明がつく。
何十万もの人が付き従ったらしいのだが、それも王の逃亡であれば、その一族や高官の家族、そして自分に味方していた軍隊などを合わせてなら、あり得なくもない。実際はもっと少なく、精々1万人くらいだったのではないか。何十万もの人々が、砂漠で食べていくのは無理がありすぎる。もちろんそこに「マナ」が天から降ってきて、人々が救われるわけなのだが、私はあまりに現実離れした想像(創造)には、ついて行けない。
結論としては、ユダヤ人とはエジプト人なのだ。そこにレビ族(最初の移民の子孫)が含まれていたことは否定しない。ただ、500年間の混血の結果だから、純粋な血族なぞでは、もちろんない。エジプト人だと断定して、全く問題はない。
逆説だが、500年前に混血したから、日本人ではありませんなどと言われたら、誰もが「はて」と思うだろう。
モーセは、最終的にカナンの地に到着できずに死亡しているのだが、これも追撃してきたエジプトの軍勢に敗れたと考えるとわかりやすい。フロイトは、モーセについていけない民衆に殺されたと想像しており、その後の心理的な葛藤が、ユダヤ教の骨子を形作っていくと説明しているが、私はそうは思わない。アメンホテプ4世を憎む、神官団が派遣した軍隊に、殺されたと考える方が自然ではないか。
殺された時期は、脱出後すぐだったと思われる。政権の空白期間がそれほど長くないようだから。そして彼に従った民衆は散り散りとなって、エジプトにも帰れず、砂漠を彷徨い、そして逃れたのがパレスティナだったのだろう。
第18王朝の初期には、パレスティナあたりはエジプトの覇権が及んでいたが、アメンホテプ4世の治世の混乱によって、統率は緩んでいたのだと推測する。
このあたりの混乱と絶望的な逃避行の様子が、出エジプト記の骨子ではないか。
そして、形而上学的な唯一神であったアテン神は、旧約聖書の神へと変貌していくのだ。「妬みの神」そして「火山の神」へと。
新訳聖書に含まれる「ヨハネの黙示録」の内容を読まれたことはあるだろうか。私は一読して、その狂気に驚いた。書いた人物は、ローマでのキリスト教弾圧の時代に、受難していた人だったようで、全編、恨みに満ちている。とても博愛を掲げるキリスト教徒の作品とは思えない。迫害がその人を変えてしまったのだろう。
旧約聖書の「出エジプト記」に出てくるヤハウエ神の様子も、あまりにも恐ろしく奇怪である。煙に包まれ、火を放ち、怒りに満ちている。人々はおそらく火山地帯(シナイ半島にはある)も彷徨ったことだろう。こんな恐ろしい神について行こうなんて、どうして思えるのかとも考えたが、このあたりの描写には、その時期の体験の恐ろしさが刻まれているのかとも思う。
さてここからは、全くの妄想である。根拠は示すことができない。内的真実が根拠だとでも言っておこう。
YHWH(ヤハウエ)の正体は、おそらくアメンホテプ3世だ。彼のミイラは、首が切り落とされた状態で発見された。これはオシリス神への転生を不可能にするやり方で、死者への冒涜である。この犯行を行なったのは、おそらく神官たちだろう。彼らの動機は色々と考えられるが、あり過ぎるくらいだ。私の妄想では、神官たちによる暗殺計画が露呈し、首謀者が殺されたことへの復讐では無かったかと思っている。
エジプトには転生するという概念は無かったらしい。死者の国で永遠に生き続けることだけが、死後の願いだった。それを阻まれたのだから、激しく怒っただろう。
そしてオシリス神になれなかった彼は、怨霊神となったのだ。怨霊神としてこの世に顕現するのに、十分なエネルギーと動機だ。
そして、その怒りは、まだまだ収まってはいないようだ。
現世の争いの全ての責任を押し付ける訳ではないが、ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教の主神なのだから、その神の持つ波動が人々に影響しない訳がない。
しかし、そう考えると、そもそもの諸悪の根源は、王権に逆らった神官たちだと言えなくもない。そういえば、住み込みでお世話になったお寺の住職さんから、「お前が諸悪の根源だ。」とよく言われていたなあ。なんて思い出したりした。
後記
以前、ある霊能者に前世を見てもらったことがあって、私はエジプトの神官で、王の暗殺を謀り、失敗した挙句に、殺されてしまった過去世があると、教えてもらった。
私の関心は、誰を殺そうとしたのかという事と、私の名前は残っているのか、ということだ。
エジプトの歴史上、暗殺された王もいるし、その犯人も名前があがっている。しかし、今のところでは、暗殺に失敗して殺された人物の名前は、引っ掛かってこない。まあ当然お墓にも入れずに処理されたのだろうから、難しい問題だ。そこで推測するに、神官がどうして王を殺そうとするかという問いから始めた。神官の権威を否定されたから、というのはわかりやすい。
そうすると二人の王が、候補に登ってくる。一人は、もちろんアメンホテプ4世だ。宗教改革によって、神官団と直接に対決し、一時的には、押さえ込んでいる。もう一人は、その父であるアメンホテプ3世だ。一般的には、神官団とうまくやっているような記述が多い人だが、彼が完成させた池の完成式典で、彼が乗り込んだ新造船の名前が「輝くアテン」なのだ。息子によるアマルナ宗教改革にしても、彼一代の思いつきで、そうしたと考えるよりは、父親からの二代に渡っての執念だと考えた方が、しっくり来る。この式典で、神官たちは王と息子の意図に気がついただろうし、その危険を排除しようとしたのかもしれない。またこの時代は、神官団の勢力が非常に強かったとされており、その証拠として、アメンホテプ4世亡き後、(次の王はスメンクカラー)王となったのは、有名な「ツタンカーメン王」なのだが、彼を暗殺して、次の王になったのが、神官のアイなのだ。また、神官に贈られた土地や財宝の記録も残っており、彼らが国家をまさしく牛耳っていたのは、間違いない。
アメンホテプ3世の時ならば、神官長の名前は「メリプター」であり、4世の時はよくわからない。はてさて、私は一体誰を殺そうとしたのだろうか。
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