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ひさかたぶりの新シーズン

9月に入り、僕の新しいシーズンが始まった。ほぼ8年ぶりの復帰戦でもある。何かと言えば、フットサル。オランダに引っ越す前からボールを蹴る習慣を再開したいと思っていたのだ。幸いなことに、引っ越してすぐに知り合った知人が参加するフットサルに混ぜてもらえることになった。毎週水曜日の夕方。家からは自転車で5分の地域のコミュニティジムにて。

今年の集団スポーツは、新型コロナウィルスの影響もあり世界中どの競技のどのリーグも波乱含みだ。僕が参加する小さなフットサルサークルも大きな影響を受けていた。3月のロックダウンからボールを蹴ることができないまま、夏が過ぎようとしている今も、まだまだ先行きは不透明だ。果たして、僕たち大人もスポーツを再開してもいいのだろうか?(子どもたちの制限はかなり緩和されている)

新入りプレイヤーである僕は、1週間前ほどから「フットボール 2020-2021」というタイトルの返信メールで交わされる議論をオランダ語から英語への機械翻訳を駆使しながら追っていた。メンバーたちは、新しいシーズンをスタートさせることについて、慎重に議論しあっていた(注記:この時点でのオランダは、感染者数もそれなり落ち着いていて、社会活動を再開させるのにあたってやや楽観的なムードだった)。あるものは参加の意志を示し、あるものは苦渋の参加延期の決断をする。勤務先の学校のこと、出産を控える妻のこと、自分の健康に懸念があること、などが理由として綴られる。

しかし、そういった個々の決断以上に僕が目を引かれたのは、メンバーたちの短いメッセージの行間から滲み出るフットボールへの愛だった。どんなに自分はボールを蹴ることを再開したいと願っているのか。この決断がどんなに難しいことだったのか。そして、不参加を決断した者からの、プレーすることを選ぶ仲間たちへの最大限のエール。また一緒にプレーする日を強く願うメッセージ。いい歳をした大人たちが、たかが地域の遊びのフットサルに、熱すぎるメッセージを書き込んでいる。まだ会ったこともないメンバーたち(中には当分会う予定のない人たちもいる)のフットボール愛を感じるには十分すぎるほどだった。というか、この時点では自分にはそのほとばしる愛が大袈裟に感じられて、やや大袈裟に感じていたことを告白しておく。

記念すべき新シーズン初日、集まったのは7名。3対4の変則フットサルになる。キーパーを1人ずつ担当するので、ピッチ上は2対3だ。遠くからのシュートもなしだ。集まったメンバーの年代は30代から40代が中心で、50代かなと思われる人もいる。

軽いストレッチのあと、試合開始。僕はすぐに熱中した。少人数なのでよくボールが回ってくるし、走らなくてはならない機会も必然的に多くなる。すぐに、汗が吹きだす。それにしても楽しいスポーツだ。ボールが足元にきそうになれば、次にどんなタイミングでどんな質のボールを蹴るかの選択肢を瞬時に考え、プレーを選択する。見方がボールを持っていれば、自分がボールをもらうのか、それとも味方がプレーしやすいように自分が動いて敵の意識を引きつけて、新たなスペースをつくるのかを考える。だから、ボールを持っていない時も気は抜けない。相手の動きと味方の動き、ボールの位置、ゴールとの距離と方向、空いているスペースを確認しながら、攻めの時はゴールの確率を最大限に、守りの時はリスクを最小限に抑えるポジショニングを心がける。新人プレイヤーなりの苦労もある。自分がどんなプレーをするのか知ってもらい、仲間や相手の特徴もつかまなくてはならないからだ。瞬発力の衰えは、自分のも味方のも、しっかり見込んでおかなくてはなならに。頭も身体もフル回転させながら走り回る。

案の定、5年以上ぶりのフットサルはさすがに身体に応えた。10メートルほどのダッシュを随時繰り返すこのスポーツの過酷さにだんだんと身体がついていかなくなる。途中からは息が上がって、プレーが止まっている間はずっと下をむき手を膝につけて荒い呼吸をしてばかりだった。ずっと年配のおじさまに「君、大丈夫か?」と心配される。あまりの息の荒さにぶっ倒れるんじゃないかと心配だったのだろう。身の丈にあったペース配分ができないのも、長期ブランク者にありがちな傾向だ。

時間にして約40分、最大の目標である「怪我をせずに終える」ことができた。4人チームの側にいて、キーパー役(休憩役)を3度ほどさせてもらったから、実質20分か25分くらいのプレイだったかもしれない。

ここに記念すべき復帰戦、しかも異国の地でのプレーでの「気づき」を書き残しておく。最も大きな気づきは、味方も敵も含め、全てのプレイヤーの得点への「こだわり」だった。今回のフットサルは、人数もルールも変則的だったし、普段の僕の感覚ならば得失点すら真面目にカウントしなくても良いくらいの気軽なフットサルだ。実際、バスケットボールや卓球の時などにも使われるアナログの得点板が我がチームサイドのゴール横にあって、得失点のたびに点数がかかれた布をめくっていたのだが、僕は自分がキーパー役をしていて、得点板に最も近い位置にいた時ですら、めくるのを頻繁に忘れた。しかし、チームメイトは違った。得失点のあとは遠くにいてもしっかり得点板まで走ってきて、表示する数字をきっちりめくる。その姿勢は、どんなゲームであれ、得点という「実存」は重要なもので、おろそかにしてはいけないのだと僕に身をもって教えているようにも思えるほどだった。

自分のプレーをふりかえっても、いくら体力不足だったとはいえ、相手に決定的なチャンスを与えてしまう致命的なミスが他のメンバーよりも圧倒的に多かった。真剣勝負だったら「戦犯」である。思えば、技術的には自分よりも下だろうなというメンバーたちも、致命的なミスはかなり少ない。どこで無理をすると失点につながるのかという判断が優れているのだ。もしかしたら、こういう得失点へのこだわりの違いが「サッカー大国」で育った彼らとの違いなのかもしれない。自分の不甲斐なさを国レベルの比較で分析しようとする自分に苦笑しそうになるが、遠からず真実を突いていると思う。一般プレイヤーの「サッカー偏差値」が高いのだ。

まだ明るさの残る夕暮れの中、帰り道の自転車をこぎながら、ここ数日のメンバーたちのメールのやりとりのことも思い出していた。今日参加が叶わなかった彼ら/彼女らの熱すぎるメッセージについてだ。どこにでもあるような地域の小さな体育館のフットサルではあったが、フットボール愛にたがわぬ真剣さと楽しさがあった。あのメールの熱さも、今ならば熱すぎることなんてなかったなと思える。

後日、息が上がった僕を心配してくれていた年上のおじさんの年齢が60歳を越えていることを知った。上手なシニアプレイヤーだとは思っていたが、そこまで年齢に開きがあるとは思っていなかった。しかも、彼はこのフットサルサークルに30年以上通っているという。30年! 日本のJリーグの歴史とほぼ同じ年月ではないか。

僕も襟を正し、心してここに歴史を刻み、フットボールへの愛を育んでいこうと思う。

*この数週間後、再びオランダでの部分的ロックダウンが発表され、僕たちの短いシーズンは突然の終了を余儀なくされた。

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