名付けの教育論
1 ある日、名付けの話になった
妻と、いつか産まれてくる子どもの名前の話になった。妻はこのあいだ、「名付け」に関する本を読んでいたようで、その後事あるごとに将来の名付けの話になる。
その本(本のタイトルは忘れてしまった。)によれば、「名付けの傾向」を見てみると、その時代の欠乏感が名前に反映されているという。
例えば、高度経済成長の時代は、「茂」や「富」などの経済発展を連想させる漢字が多い。また、都市発展した2000年代以降は「空」「陸」「海」などの自然を連想させる漢字が多い。
というのも、親は無意識に「自分たちが苦労した経験」を、命名プロセスに組み込むのだそうで。
つまり、「失敗への恐怖」というネガティブな名付けだという。
そこで本の著者は、読んだときの「響きがいい名前」「呼びたくなる名前」といったポジティブな背景で名付けましょう、と提言する。
いわゆる、「画数占い」も流派によって「大吉」にも「大凶」にもなるので、躍起になって調べなくても良いという。
妻は、その本の教えを守って、響きやニュアンスを一番大事にしたいと言う。
たしかになあと思う。
この本の言説には、かなり納得する。
あまり熟考しすぎて意味の渋滞に陥ったら、相当カオスな名前になるのだろうなあと思う。著者がいうように、ポジティブで気楽なスタンスで名前をつけてもいいんじゃないかと思うのだ。
自分が名乗る際の、固有名詞としての「名前」。
子どもに関わる人すべてが、その子を呼ぶ時に使う「名前」。
筆者は、「名乗る・呼ばれる」といった、空気振動としての「音」機能へのこだわりに共感する。
さて、「ニュアンスや響で選ぶ」という考え方に賛同した時に、真っ先に日本語における「カタカナの男性性」や「ひらがなの女性性」を思い出した。
確かドイツ語にも、名詞には男性名詞(Maskulinum),女性名詞(Femininum),中性名詞(Neutrum)の区別があった気がする。
響きや性別の観点を混ぜ込むんで、
とりあえずこんな名前を考えてみる。
うん、名乗りやすい。呼びやすい。いいとおもう。
とおもった矢先、
「もしその子の性自認が違かったら困るかなぁ」と不安になる。
その子が将来「自分の生物学的 性(sex)」と「性自認(jender)」の違いに気づいた場合、名前の男性性、女性性に拒否反応を起こすのではないかと危惧したのだ。
それじゃあ、ということで、
のようなアイデアが浮かぶ。
ストレート、LGBT-Q、どうなってもいいようにと思う。
いやちょっと待てよ、と思う。
子どもが拒否反応を起こすことを予想している。
それを考えて、不安になっている。
失敗を恐れているのは誰だろう?
失敗を怖がっているのは、親になる「自分」じゃないかと思うのである。
これは、紛れもないネガティブ名付けではないか。
2 「失敗の先取り名付け」って、結局どういうこと?
失敗するのが怖くて名前の付け方を調べるって、親のお節介じゃないかと思うのである。
筆者は、お節介とは、子どもの成功を願っているというタテマエで武装した「親のホンネ」だと思っている。
筆者はそれを実行するところだった。気づいてよかった。
これが、本稿タイトルの回収である。子どもが生まれる前から、親のホンネが先走ったいい例である。
こう書くと語弊があるのだが、あえて表現しよう。
名付けは、感覚でいい。
意味は、後付けでいい。
語弊があるのはわかる。
少し補足すると、筆者なりの「君は名前以上の価値がある人間だ」という実存主義的なメッセージなのである。
筆者は、人間は生まれた瞬間から価値があると本気で思っている。この文脈において、思想的な立場は、ヒューマニズム(人間中心主義)だ。
抽象画よりも、素っ裸のダビデ像が好きだ。自然そのものの筋骨格を受け入れ、そのまま表現しているから。ありのままの存在が美しい。
だから、「世の中に通用する人間を育てる」という言説が嫌いだ。通用ってなんだ?と思う。では、使えない人間は必要ないなのか。
断言しよう。
「通用する大人」「恥ずかしくない大人」「迷惑をかけない大人」と考えるエセ教育者・保護者は、ヒトラーのダーウィニズムと同じ思想だと。
おっと、言いすぎた、失礼。
戻ります。
筆者は「親にネガティブな影響を受けない人生を送ってほしい」という願いを持っているのだと思う。
本当はそんなの無理なんだけれども。
学校教育、家庭教育、塾教育、新人教育、社会人大学院、成人教育、など、「生涯学習」の現代で、「家庭教育」の影響力は非常に大きい。
おそらく、学校教育の10倍ほどの影響はあるだろうと勝手に推察する。
これが、近年「親ガチャ」と揶揄される所以だろう。
3 原理原則を探求する「哲学」で、教育を探求する
親の仕事はなんだろうと考える。
それは、子どもの幸せをサポートすること、と考える。
筆者が、「ジェンダーの悩みを見越した中性的名付け」でやろうとしていたことは何か。
子どもが困るであろうことを取り除くこと。
裏を返せば、幸せであろうことを多く提供すること。
本当にサポートと呼べるのか。
「●●教育論」「天才児教育メソッド」「成績が上がる●●」のように、世の中には子育てハウツーが溢れている。
どれも、実践の蓄積に裏付けされた素晴らしい発明だと思う。しかし、それを選択する親と運用する子がどう使うかが重要だと思う。
メソッドを選んでお勧めするのは、だいたい「親」だろう。
選ぶこと以上に大切なのは、親の哲学だ。
では、哲学しようではないか。
いかがだっただろうか。「子どものためを思って」という、曖昧で捉えどころのないテーゼを、普遍的な原理レベルまで掘り下げることができていただろうか。
上記は食事を例に、演繹的に論を立ていった。複数人でやればもっと奥深くに迫ることができるだろう。
幸せになる「力をつける(skilling)」ことと、幸せを「提供すること(service)」は違う。
幸せを「提供すること」は、ビジネスに近いと思う。
つまり、生産・消費行動の論理である。
家庭教育はサービスではないはずだ。子どもは消費者ではない。
子どもを「消費者」にするような教育をしているようでは、いつまでも「世の中に意味・価値を提供する力」はつかない。大人になっても「消費者」から抜け出せない。
この原理原則は、筆者自身が子どもとともに成長し、さらなる普遍的本質に辿りつくだろう。その探求こそ哲学そのものだ。親の哲学がぐらついていると、どんな立派な理論や偉い人の意見を使っても「宝の持ち腐れ」である。
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