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1枚の鹿の写真。

この間体験したショッキングな出来事について私が感じたことを書いていきます。

静岡県富士市の大淵笹場という、富士山と茶畑の景色がきれいな場所へ写真を撮りに行く途中でした。

私の自宅からそこへ行くために、山梨県の青木ヶ原樹海を抜ける一本道をバイクで走っていました。

道中、前方に大きな黒い塊が見えたので思わず急ブレーキ。

よく見るとそれは、道路の真ん中に陣取る大きな牡鹿でした。

森の一本道、真ん中に座る立派な鹿!

これはなかなか見ることのできないシャッターチャンスと路肩にバイクを止め、カメラを持って鹿の近くへ。

ヘッドライトを照らした鹿を見ると、下半身から下が真っ赤に染まっており、側には巨大化な血溜まりが。

恐らく横断中にトラックに轢かれてしまったものだと思われます。

まだ息はあるようで、静かにこちらをじっと見つめていました。

手にしたカメラですぐさま写真を撮った後急いで警察へ。

現場の状況を聴かれたので詳しく話していたら後方から大型のトラックが。

鹿もヨロヨロと立ち上がり反対車線へ必死に避難しようとしていたしたが、、、

とっさに目をつぶってしまった私が聴いたのは、大きな何かがぶつかる鈍い音と甲高い鳴き声でした。

再び目を開けて見えたのは、トラックのバックライトに照らされた、先程まで命があった黒い塊でした。

その旨を警察の方に伝えた後、あなたももう行っていいよとの事で私はその場から離れました。


これが今回あった出来事です。

鹿が目の前を横切る光景はちょくちょく見かけるのですが、鹿が轢かれた瞬間に立ち会うのは初めてでした。

もちろん、その出来事は衝撃でしたが、何よりもショックだったのは、その光景を目の前にして私は、

救出よりも先にシャッターを切ることを優先したということでした。

正直、今回の状況では、鹿は助けることは難しかったと思います。

鹿の大きさは私のバイクと同じくらいのサイズ。

自分一人では動かす事はまず不可能です。

さらに深夜の道路です。

交差点や信号などはなく、大型の物流トラックがビュンビュン走っています。

とっさに止めようものなら、私まで事故に巻き込まれかねない状況でした。

ここでもしバイクを止めずに目的地に向かっていたら特に気に病まなかったのかもしれませんが、私はバイクを止め、手に持ったカメラでその鹿を撮ったのです。

「助けよう」よりも先に「写真を撮ろう」という思考が働いたのです。

その道が危険である事も知っていたのにもかかわらずです。


以前、東日本大震災発生時に、逃げ遅れた人が津波に飲まれる瞬間を撮ったカメラマンに誹謗中傷が殺到した、というニュースを見ました。

「撮る暇があるなら人命を優先しろよ!」というのが彼らの意見。

当時私も同じ様な意見を持っていました。

しかし、人命救助を専門としないその人間が無事に救出することはできたのでしょうか。

自分の身の危険を犯してまで、目の前で危険な目に晒された人を果たして助けてやれたでしょうか。

撮影した人間は撮影を専門としたプロ。彼は自分の社会的役割をただ全うしただけなのではなかったのでしょうか。


少し話を戻します。


また、今回の鹿の事故で「写真」の持つ残酷な一面を見ました。それは、

前後の状況を観察者に与えずにその瞬間を"切り取ってしまう"

ということです。

写真の中の鹿はまだ生きています。

私がこのnoteの中で「その鹿は脚を引きずりながら茂みの奥に消えていった」と締めくくれば、読者の中で鹿はまだ生きていることになります。

現実ではもうこの世にはいないのにもかかわらず。

私達が常日頃から見ている「写真」には必ずそれを撮影した「人間」が存在します。

その人間が考えていた恣意思考がすべて排除された上で私達の元に出来上がった写真が出されているのです。

スマートフォンのカメラ技術などが大幅に登場し、誰でも簡単に写真が撮れる時代です。

写真1枚の価値が下がり、現在ではコミュニケーションツールとしての役割を持つようになった現代だからこそ、写真を丁寧に扱う姿勢が必要です。

撮る側はなぜその時にシャッターボタンを押したのか。被写体の何に惹かれたのか。その写真を撮る意義があるのか。

見る側は撮影者がどんな気持ちでその写真を撮ったのか。どんな状況で撮影されたものなのか。

一歩立ち止まってよく観察してみることで、1枚の写真から様々な情報を得ることができます。

その習慣を皆さんにも紹介したく、今回はnoteを書くに至りました。

長文になってしまったこと、拙い文章になってしまったことにお詫び申し上げます。




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