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人生はいつ終わるかわからない。という当たり前な話。

2022年、僕は今31歳。今年で32歳になる。
2つ下に妹がいて、4つ下に弟がいた。

小さな頃からやんちゃな僕、いつもニコニコしてる可愛い妹・弟達。
中学生の頃は、僕が反抗期で、ツンケンしてたこともあって、妹・弟達は「あの頃のお兄ちゃんは、ちょっと怖かった」なんて言っていた。

基本的にはきょうだい仲が良くて、常に一緒にご飯食べたり、好きな音楽の話をしたり、ゲームをしたりしていた。

こんな時間がずっと続くと思っていた。

2019年のはじめ頃、大切な弟が病気になった。
膠芽腫”というとっても難しい病気だ。

膠芽腫(こうがしゅ)とは
・WHO グレード4の悪性腫瘍
・グリオブラストーマ,業界用語でグリブラ
・英語では GBM (glioblastoma multiforme) ジービーエム
・脳の神経細胞を支える神経膠細胞が腫瘍化
・大脳に発生して、周囲の脳に滲み込むように広がる
・成人グリオーマ の40%くらいと頻度が高く,最も悪性の腫瘍
・悪性脳腫瘍の中で最も頻度の高い腫瘍(頭蓋内腫瘍の10%弱)
・世界中で注目をあびて研究されている
・小児ではとてもまれで,高齢者になるほど頻度が高い
・多くの患者さんは60歳以上
・2021年現在,5年生存割合は10%ほど
・平均余命は約2年
・進行が早いのでMRIで見つかってから2週間くらいで倍くらいの大きさになってしまうこともある。

脳外科医 澤村豊のホームページ

脳腫瘍の一種で、とっても難しい病気だ。
なぜこのような病気になるのか、原因も未だにわかっていない。
弟の病気が発症したときは、25歳。まだまだこれからだ。

僕は家族と一緒に病名と説明を聞いた時、絶望した。
その時医師から告げられた余命は”1年
平均余命より1年も少ない。
しかも、出来ている場所が脳幹付近で、治療が難しい。

両親の考えで、この時点で余命が弟に告げられることはなかった。
本人にも知る権利があるし、僕と妹は伝えるべきだと考えたが、両親の意見と一致しなかった。

医師から余命以外のすべての情報を聞いた弟は、涙を流すことなく、歯を食いしばり、膝においてあった手のひらが、拳に変わる。

両親の前で弱い姿は見せられなかったのかな。

弟は、僕より数百倍
いや、数千倍まじめに生きて生きた。
なにも悪いことなんてしていないのに、なぜ。と思った。

入院後、治療は続き、腫瘍摘出の手術の選択が迫られる。
脳の手術は障害が残る場合もあるらしく、弟は悩んでいた。

覚悟を決めた弟は手術を行い、腫瘍の90%は摘出できた。
手術後の沢山の管がつけられた弟を見て、何もしてあげられないことを痛感し、涙が止まらなかった。

腫瘍が90%摘出できたこともあり、半年ほどは通院を繰り返しながら治療を続けていた。

レントゲンで見る脳腫瘍も、小さくなっていて、弟も少しずつ前向きになっていた。好きなポルノグラフィティのライブを見に行ったり、一緒に映画を見に行ったり、ゲームをしたりして、毎日笑って過ごしていた。

弟は名古屋で就職し、一人暮らしをしていた。
病気が発覚してからは、地元に帰ってきていたが、治療は最先端の名古屋の病院で行っていた。実家付近には、そんな病院はないからだ。

"もしかしたら、弟は治るんじゃないか"

日々、そんなことを思うようになってきた矢先。

2020年1月 再発 治療の為入院。

1月はずっと病院にいた弟、オンラインでゲームをしたり、特に話をないのに、LINEをしたりした。名古屋にアパートを借りて、本当は、毎日お見舞いに行きたかった。

2020年2月 弟が治療を終え、実家に帰ってくる。

目が見えにくく、ふらつきがひどい。食欲減少。
自分でどんどん歩けなくなり、言葉も発することが難しくなってくる。
五十音表みたいなものや、食事やトイレなどのアイコンが書かれたボードを用意し、指をさしてもらったりしてコミュニケーションをとっていた。

自らが喋ることは難しくなっていたが、話を聞いてくれることは出来た。

食べれるものをいえば、お茶漬けぐらいだったが、3月になり食欲も回復してきて、マクドナルドが食べたいというようになった。
最初は身体によくなさそうだなと思いながら、リクエストのあったてりたまを買ってきた。

2月に入ってからの体調変化が急だったこともあり、弟の親友が東京から会いに来てくれた。
アパレル関連で働いている彼は、次の日も仕事だったが、弟の為に片道6時間かけて会いに来てくれた。入院中も沢山会いに来てくれていたみたいだ。

友人が帰る際、弟から「お兄ちゃん、友人くんと写真撮って」って言ってくれた。もちろん写真を撮った。

2020年3月 頭痛があり、緊急搬送。
夜中に頭痛をうったえ、医師と相談した上で緊急搬送。

病院では点滴治療などを行い、症状は落ち着く。
そのまま入院となり、不安もあり父が付きそう。

朝方、病院から連絡があり、駆けつけると、看護師の方が手動酸素マスクのようなものを、ずっと手で繰り返し握っている。
心電図はまだ動いている状態だ。
看護師の方が手を止めると、心電図が止まるということだ。
これは、医療従事者にしかできない行為になるそうだ。

延命措置をされるかと、このときに問われた。
本当は家族みんなずっと生きてほしかった。
皆それを願っていたし、いつか治るんじゃないかとも信じた。
約2年間闘病生活をとっても頑張った。
もうこれ以上頑張らせるわけにはいかない。という結論になった。

家族みんなで「がんばったね」と声をかけられながら、息を引き取った。

本当に無力で、この2年間何もしてあげられなかった。
闘病中に「何かしてほしいことがあったら何でも言って」と言った僕に、
「言ったてお兄ちゃんにはどうしようもできない」と言われたこともあった。

今でも後悔ばかりが残り、あの時こうしてあげられたらよかったなと言うことばかりだ。

もし記事をここまで読んでくれた人がいたなら、いつ自分が亡くなってもいいように、後悔の少ない人生をおくってほしい。

僕は今でも人生は後悔の連続だと思っていますが、
大切な人との時間は、なるべく多く過ごしたいと思っています。

友人・家族・恋人・ペット、なんでもいいんじゃないですかね。

今でも遠くどこかで暮らしているような感覚が残っている。
なんだかわからないけど、またいつか会えるような気がする。


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