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大学からはじめたピアノ

長崎大学に行けることが決まって、これからの6年間どうしようかなと考えました。自動車学校と同じように、医学部は医師免許をとりに来たところと捉えて、もうひとつできることをしたい。少し弾けるようになってたギターをやってみようかな、とも思ったんだけど。

初めてジャズを聴いた日

長崎へ引っ越す前、福岡でジャズのバーに連れてくれてったひとがいた。そこにはアップライトピアノを弾く髪の長い女性がいた。本当に魅力的な音楽。。譜面たてのところに、小さな紙だけがあった。なぜそれだけで長い時間弾けるの、と尋ねた。曲のコード(和音)だけが書いてあって、あとは全部アドリブなんだよって教えてもらった。「アドリブ!!!??」って、それまで生きていて一番びっくりしたような気がする! どこだったかなーとどうしても思い出せないんだけど、今泉の「マスカレード」だったかもしれない。

長崎でピアノをはじめてみた

長崎に引っ越してさっそく、タウン情報誌「ザながさき(通称ざなが)」にピアノ教室の広告をみつけた。すぐに連絡して、千歳町のスタジオにお話を聴きに行った。お会いした阿野先生は、少しお話をしたあとばーっとピアノを弾かれた。目の前で聴いた曲は「Misty」、圧倒されてしまった。。「で、いつから来る?」たぶんそのあとすぐから習いはじめることにしてしまった。ピアノも持ってないのに。

長崎大学のジャズ研にも話しに行くと、「医学部なら12年おれるね(在籍できるね)」音楽系サークルは4年以上の在籍が当たり前らしい。自分はどうしても6年間で免許をとる必要があったので、ジャズ研に入るのは諦めてしまった。それでもその先輩は、大学にピアノ練習室があることを教えてくださった。ちょっと離れた文教町の長崎大学本学キャンパスに入って、練習させてもらえることになった。ずらっと並んだ小部屋のうち空いてる部屋をみつけて練習、薄い壁の両隣からは凄いクラシックピアノの音が聴こえてくる。。

Spainを聴いた日

ジャズ研の定期演奏会に行きました。たしか、住吉のちとせピアホールで。ピアノの先輩達が演奏していた「Spain」、そのころの今さらながら本当にびっくりした。弾けるようになりたいなーと本気で思った。

でも、全然弾けるようになりませんでした。思案橋の楽器屋に行って、ヤマハの電子ピアノに月数千円のローンを組んでしまった。
狭くて雨漏りするけど稲佐山が良く見えるアパートに、ピアノが来ました。
ひとりでピアノを練習する日々。。電子ピアノにつないだマイナスワントラック(ドラム・ベースなどの音を出してくれる機械)が、お友だちでした。。
その頃から足をばたばたさせる奏法になっていて、下の階のかたにはご迷惑をおかけしました。。
(つい1年前くらいに熊本で演奏したとき、下の階の美容室からおこられました。パーカッションでなくピアノの私の足がうるさかったらしい。ごめんなさい。)

人前でピアノを弾いていた..?

医学部と本学の間の橋口町にあった喫茶店で、グランドピアノを弾く機会をいただけるようになったのが4年生くらい。といっても、まだ全然ピアノの弾き方わからなかったのに何を弾いてたんだろう。そのオーナーのかたは東京から高名なミュージシャンを呼んでライブを企画したり。そのときお会いしたピアニスト元岡さんに頂いた言葉。なんだか弾き方が少しわかった気もして、いまでもよく覚えています。

そのうちなぜか大人数のソウルバンドに加入することになって、思案橋のオールディーズの店に毎週出演するものの、「タケルは自由に弾いてていいよ、聴こえないから」「えっ??」。管楽器中心の音の大きなバンド、全員が息を吸って無音になる部分に音を入れる、意外と難しかった。

自分のグループで演奏

そこで出会った伯野氏、ラテンパーカッションの天才かと思った。別で結婚式演奏をきっかけに出会った長崎新聞の田中氏がコントラバスを突然買い、ピアノトリオをつくることになった。浜の町に今は亡き歯医者さんが持っていたスタジオで、夜通し練習したり楽しい日々。経済学部の近くのバーで度々演奏できるようになって、サックスやボーカルのひとと一緒に演奏できるようにもなってきた。公民館のホワイエでも演奏した写真があったけど、こんなにたくさんのひとたちに向けてどんな演奏をしていたんだろう。。

船の中のボールルームで

5年生・6年生は医学部の実習・勉強も佳境を迎えるころ。夏に受けた国家試験の模擬試験で、医師免許とるの無理かもって予測になってしまった。それはーありえない。以後ほとんどピアノも弾けずに秋・冬は医学部の皆に助けてもらい激しく勉強。数多の再試験を経て卒業試験をやっと通過、国家試験まで終わることができた。人生最大に痩せた。

長崎大学卒業式後に開催された「謝恩会」は、青函連絡船を改造してグラバー園の下に停泊させたホテルのボールルームで。そこに仲間を呼んでジャズ演奏をした!医学部の友人たちがわたしのピアノを聴いたのは、その日が初めてでした。

長崎を去る日/弾き方も忘れたピアノ

思案橋にジャズの師匠(わたしから勝手に)みたいなご夫婦の経営するお店があります。長崎を去る前日に、Spainをセッション。弾けるようになってしまってたー。翌朝から出発した車の中で、涙がとまらん。

九大の眼科に入局して福岡に帰ろうと思ったわたしに来てた連絡は、「あなたの研修先は山口大学」でした。長崎から福岡を素通りして、宇部に到着。その足で山口大学に挨拶、当時の熱い西田教授のお話を2時間くらい。その直後からの激務、2年間が過ぎ去りました。研修医を終わる頃には、ほとんどピアノの弾き方もわからなくなってしまった。

ピアノ弾き再開のきっかけをつくってくださった恩人

九大生体防御医学研究所に入って免疫学にはまりはじめたころに、ピアノ復活できる出来事がありました:サックスの清水ケンGさんの生徒さん、見寺さんがバンドを始めるのでたける君一緒にやってあげてとのことになった。見寺さんは天神の喫茶店「星の庵」で毎月演奏を企画されて、そのときだけピアノを弾く生活がはじまりました。西中洲Bushに行きはじめたのもそのころ。。その頃は免疫のことを考えるほうがはるかに楽しく、見寺さんたちとの月1回の演奏だけでピアノ弾きが辛うじてつながっている状態でした。この機会がなかったら今もピアノ弾いていなかったのでは、といつも思っています。

ボストンに引っ越す前には、免疫の研究室の友人もたくさん呼んで西中洲Bushで演奏した!楽しかった😀 
(帰国後も毎月お世話になっていましたが、2020.2月で閉店しました)

ボストンから帰国2日後、大丸エルガーラでの演奏

帰国後まだ時差ボケも残っている段階で、見寺さんのバンドに復活させてくださった。九大勤務直前に天神ミュージックシティに出演することができました(大丸エルガーラにて)。すごいクレイジーピアノだったと思う。。

その後再び見寺さんの企画する月1回の演奏に参加させていただくものの、九大の激務の傍ら、ピアノを弾いたあと倒れるのではないかと思ったり。なんでそんなにまでしてふたつともやってたんだろう。。

帰国直後の2011冬〜2012春、渡米前からお世話になっていたかたが次々に亡くなり、心が沈む日々も続きました。天神の「星の庵」されてた池崎さん、帰国後にたくさんお話できたなーと思った2日後に心臓発作で亡くなってしまった。大学での仕事を続けている最中、自分が何をしたいんだろうとも思うようになりました。ボストンでみた震災の光景から思っていたことも、混ざっていたように思います。

眼科もピアノも両方、好きな仕事になりました。

九大医局を離れひとの目をみることが主体になって、だいぶ心が安定するようになりました。いま一生懸命やっている医療は、自分のしたかったことです。一緒に仕事してくれるスタッフは、一人ひとりの能力が素晴らしい。。医局つながりなどの先生たちにも良くしていただいて、患者さんにとって本当にいい医療ができるようになりました。毎日感謝に堪えません。

ピアノも幸運に幸運が重なり、共演者が素晴らしく、中洲ジャズ(福岡のジャズフェスティバル)・春吉ニューコンボにも自分のグループで超満員のなか出演できるようになりました。。ピアノはじめた頃には、夢にも思わなかった状態になりました。一緒にしてくれるひとたち、お店のみなさま、聴きにきてくださるみなさまのおかげさまです。本当にいつもありがとうございます。まだ全然うまく弾けていないのですが、、コロナ禍が落ち着いたら地域のこどもたちが楽しくなれる演奏もしたい。

わたしの音楽経歴を聞いても、何の得にもならないですね。。仮にこんな話を聴いてくれる友だちに話しているような、感じで。でも読んで頂いてありがとうございます。
思い出したことを書いておくことで、更に前向きになれます。これからもよろしくお願いします!!


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