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夢のゆくえ -銀河鉄道の夜- ⑥


 第六章 サウザンクロス

 星屑のなかを走りつづける汽車は、そのあいだにも幾度いくどか停車場に停まることがありましたが、その都度つど、タルカとジョバンナは降車して付近に妹の姿がないか、あるいはどこかで妹らしき小さな女の子を見かけたものがいないかさがしてまわりました。しかしどうにも上首尾じょうしゅびとはいかず、訪れた停車場付近には人影もまばらで、なにひとつ手がかりや情報を得られぬまま、汽車は目的地となるサウザンクロスに近づいてきました。もうそのころには、天の川の一所にあいた黒い穴――石炭袋とよばれる暗黒星雲がはっきりと見えるようになっていました。それは、心にぽっかりあいた空虚な穴のようにも見え、タルカはその先をじっとみつめていると、言い知れない不安で胸の内がざわざわと落ち着かなくなるのを感じました。
 車窓から見える外の風景にも変化がありました。
 にわかに周囲が明るくなってきたかとおもうと、つぎの瞬間には目がくらむほどの強い光につつまれ、その光がうすれてくると、いつのまにか汽車はなんともいえぬふしぎな場所をひたすら一直線に走行しているのでした。地上は汚れひとつない大理石の床のように白くかがやき、それでいて天上を見上げると、雲ひとつない澄みきった薄桃色のそらが見渡すかぎりどこまでもひろがっています。
 しばらくすると、汽車は色とりどりの花が咲きみだれる花畑の中へと入っていきました。汽車が向かうはるか先には、きらきらとかがやく長大な川がながれているのが望見ぼうけんできます。しかしそこにたどり着く前に汽車は速度をゆるめ、やがて停車場とおもわれる場所で停まりました。
 停車場といっても、そこには乗降場らしきものがまったく設置されておらず、ただ踏み場もないほど咲きほこっている花畑の中に、ぽつんと汽車は停止しているのでした。
 タルカとジョバンナはひとまず降車して周囲を見てまわりました。初夏をおもわせるのどかな暖かさと、眠気をさそう甘い花の香りが充満しています。辺りいちめん群がるように咲いている花は、よく見ると釣鐘草つりがねそうのふっくりとしたかわいらしい花でした。
 二人はしばらく付近をうろうろしていましたが、話し合いの末、さきほど車窓からみえた大きな川をめざして歩くことにしました。しかし、どこをさがしてもそこまで通じていそうな道が見当たらなかったため、二人はしかたなく釣鐘草が群生する花畑のなかを突き進んで行くしかありませんでした。
 からだが釣鐘草に触れるたび、その小さな釣鐘に似た花がゆらゆらとゆれ、リィン、リィン、と涼やかな音をたてます。はじめは空耳かとおもいましたが、やっぱりそれははっきりと聞こえてきました。歩きながらその音に耳をすましていると、いままで抱いていた不安な気持ちや心配事などが自然と消えてなくなり、なんともなごやかな気分になってきたのだからふしぎです。
 そのうち咲いている花の群れは、釣鐘草から曼殊沙華まんじゅしゃげの燃え立つような赤い花のむれに移り変わってゆきました。またそのころには、二人がめざす川岸も目前にまでせまっていました。
 遠くから見たときはあれほど万遍まんべんなく光を散らしてかがやいていた川面も、近くで見るとありふれたふつうの河川と変わりなく見えます。川の水はガラスのように透きとおり、底のほうには繁茂はんもする水草が流れに逆らうことなく気持ちよさそうにゆれていました。
 タルカは川に近づき、かがんで川面に触れてみようと手を差し出したときでした。背後のほうから「やめときなされ、若い人」という声に制止され、おもわず立ち上がって振り返りました。
 すると、いつからそこにいたのか、奇妙な風貌ふうぼうをした白髪痩躯はくはつそうしんの老人が、少し離れたところの地べたに座っている姿が目に入りました。
「川の水に触れてしまったら最後、おまえさんがもつ記憶はすべて流れ去ってしまうぞ」
  その言葉の意味がいまいち飲みこめなかったタルカは、老人のそばに寄って問いかけました。
「記憶が流れ去る、というのは、どういう意味ですか?」
「そのままの意味じゃよ。今までおまえさんが刻んできた、たのしかったこと、かなしかったこと、つらかったこと、それらすべての思い出が、川の水に触れてしまうと、からだから溶け出てその流れと共に流れ去ってしまうのじゃ。そうして浄化され、清められた魂は天上の世界へとのぼり、現世でまた次なる生を受けるそのときまで、安楽に過ごすというわけじゃな」
 はたしてほんとうにそんなことがあるもんかなあ、とタルカは半信半疑になりながら、川のはるか向こうがわに見える景色に目をやりました。
「この川の向こうは、天上の世界なのですか?」
「さよう、あそこを見なされ」と、老人は川の上流のほうをゆびさしました。「川岸に船が泊まっておるじゃろ。あの船に乗って、人々は天上の世界へとのぼるのじゃ。しかし、乗ってしまったら最後、もう二度ともどってくることはできんがな」
 たしかに老人が言うとおり、川をしばらく上って行った先の川岸には、大きな木造の渡し船が停泊しているのが見えました。
 タルカは質問をつづけます。
「人さらいにさらわれて行方不明になった妹をさがしているんです。どこかで見かけたりはしていないでしょうか?」
「……みとらんなぁ」
「では、行方不明になった人が行きそうな場所に心当たりはありませんか?」
 老人はしばらく考えていましたが、ふたたび川岸に泊まっている船のほうをゆびさしながら言いました。
「あそこの船着き場におる係員にきいてみなさい。ここに来た人の大半はあの船に乗る。今も乗船するために順番待ちをしとるものがたくさんおるはず。もしかしたら、そこにおぬしの妹さんがいないともかぎらんわな」
「ありがとうございます。そうしてみます」
 タルカとジョバンナはていねいに頭をさげながらお礼を言い、その場から立ち去ろうとしましたが、その前に、どうしても気になっていたことがあったので、思い切ってたずねてみることにしました。
「おじいさんは、あの船に乗らないのですか?」
 老人は笑いながら答えます。
「わしはただの番人じゃからなあ。おまえさんたちのような迷子がまちがって川の中に入らんように、ここでずっと見張っておるのが役目よ。もっとも、そちらのお嬢さんはすでに手遅れのようじゃが――」
 急に話の対象が自分に向けられたジョバンナは、少しとまどった顔になりました。
「ふむ、みたところ、本来の姿も見失っておるようじゃな。こちらの世界では、魂の見目容は生前の記憶を元につくられておる。しかし、完全に失っておらんところをみると、記憶の一部がまだ残っとるのかもしれぬ。はて、めずらしいこともあるもんじゃ、一度川のなかに入ってしまったが、なんらかの理由で出てしまったか、あるいは――」
「失った記憶はもうもどらないのでしょうか?」
 老人の思索しさくをさえぎるかたちでジョバンナがききました。
「ふむ、もどらんこともない――もどらんこともないが、今のままではむずかしかろう。じゃが、そうあせることもあるまいて。自然ともどってくることもあろうし、なにかのきっかけで戻ることもあろうしな……」
「そうですか……ありがとうございます」
 タルカとジョバンナはもう一度ていねいにお辞儀をしてその場から離れてゆきました。そしてふとなにげなく振り返ったときには、もうそこに老人の姿は影もかたちもありませんでした。






(つづく)