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顔がない女 #2

 長い夜が明け、私と女は薄暗い林の中にいた。
 朝、女は目が覚めるなり、なんの身支度も食事もしないまま、家を出て行くといって聞かなかったのだ。
 昨夜、共に泉を探すと約束をした手前、私も女のあとを追って家を出た。
 嵐がくる前兆かと思われるほど、空はどんよりと曇っていた。そのため、辺りは依然として薄暗い。
 私たちは休むことなく歩き続け、気がつけば、木々が生い茂る道なき道を進んでいた。林の中は視界がわるく、ほとんど何も見えなかった。私は用心のために持ってきていた角灯に火を入れた。ぼんやりと灯った明かりが、私と女の姿を浮かび上がらせた。
 女はまるで勝手を知っているかのように、迷うこともなく林の中を先導してゆく。
 どれだけ歩いたのか見当もつかなかった。不安のあまり足が止まりかけ、何度このまま引き返そうと考えたかしれない。ところがその前に、うっそうと茂る木々がようやく途切れ、開けた場所に出たことがわかった。
 そこで女の足が止まった。
「着きました。この泉に間違いありません」
 女は屈みこむと、泉の中に手を差し入れ、水をすくい上げた。
 私も近くまで寄って、その泉と思われる場所を覗き込んだ。それは泉というよりは沼といったほうがふさわしい。水面はどす黒く、鈍色にてらてらと光っており、さざなみひとつ立っていない。
「本当にここであっているのかね?」
 思わず私はそうたずねてみた。しかし女からの返答はなく、彼女は泉の中に身を沈みこませようと、一歩足を踏み入れた。ズブズブと不快な音をたてながら、女の体はみるみるうちに黒い水の中に沈み込んでゆく。腰のあたりまで沈んでしまうと、もう前にも後ろにも進むことは不可能になってしまう。そうなると、体はもはや自重に任せて底に吸い込まれるのを待つのみである。そしてついに、女の体は首から上のみを残して、すべて沈み込んでしまった。
 今、水面には女の顔だけが突き出た状態で静止している。
「おい、大丈夫なのか……」
 やはり返事はない。私は気味が悪くなってきて、このまま帰ってしまうべきか、それとも女を救うべきなのか迷った。
 そして、女の顔がかすかに動いたかと思うと、ついにはチャプン、と物寂しい音をたてて、その顔も水の中へ沈んでしまった。
 ただひとり残された私は、これからどうすればよいのかもわからず、ぽつねんと立ち尽くすことしかできなかった。ひとまず誰か助けを呼んだほうがいいだろうと、身をひるがえそうとしたその時、さきほどまでさざなみひとつ立っていなかった泉に異変が起こった。
 水面に、ぽつりぽつりと小さな波紋がひろがりはじめ、やがてそれは泉全体へと波及していったのである。空を見上げてみたけれど、雨が降ってきた様子はない。波紋はしばらくするとおさまり、それまで沼のように見えていたどす黒い水の表面が、すっかり浄化されて澄み渡り、まるで鏡のように映るものすべてを反射させている。それ以上に私を驚かせたのが、その水面に映し出されていたひとりの女の姿だった。目も、鼻も、口もそろっているその女は、非常に美しかった。よもや私には、その女が私の知っているあの顔の無かった女だとは、到底信じられるはずもなかった。女は妖しげな笑みを浮かべながら、こちらに向かって手を差しのべるような仕草を見せている。女は私を求めているように見えた。でなければ、あんな色欲に媚びた、うつろな表情で私を見つめはしなかったであろう。
 私はまるで魔法でもかけられたように、自然と女のほうにむかって手を差し出していた。
 すると、水の中から急に実物の手が突き出たかと思うや、私の手をつかんで泉の中へ引きずり込もうとする。必死に抵抗したが、その力は尋常のものとは思えなかった。私はとうとう力負けして、水の中に飲み込まれてしまった。深い水の底へ、どこまでも沈んでゆく感覚とともに、意識は途絶えてしまった。


(つづく)