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顔がない女 #3

 ふたたび意識を取り戻したとき、私は木立に囲まれた地面の上に倒れこんでいた。水の中に引きずり込まれたことはおぼえている。しかし、周囲を見渡してもそれらしき泉は見当たらない。ここは別世界のように明るかった。生い茂る枝葉の隙間という隙間から、盛んに太陽の光が差し込んでいるのだ。女の姿を探してみたが、どこへ行ってしまったのか、姿かたちも見えない。まわりに人の気配は感じられない。
 戸惑いつつも林のなかを歩いていると、やがて一軒の古い民家らしき建物が見えてきた。
 途端に私は救われたような心地になった。とにかく腹がすいていたし、ひとまずあの家で休ませてもらおうと考えたのだ。
 私はその民家まで駆けて行き、扉を叩いた。返事はない。家のまわりには薪が積まれてあるし、生活感を漂わせる佇まいから、誰かが住んでいるのは確かなようだが。
 もう一度、こんどはより強く扉を叩くと、ギィッ……ときしむ鈍い音を立てて扉は奥側に開いた。私は慎重に家の中をのぞきこんでみた。薄暗くて中の様子はよくわからない。すくなくとも、近くに住人がいるような気配はなかった。
 私は意を決して家の中へ入ると、「すいません、だれかいないでしょうか!」と大きな声を出した。
 すると、部屋の奥からけたたましい鳥の鳴き声が響き渡った。私は一瞬すくみあがり、腰がひけてしまったが、すぐに気を取り直しておそるおそる部屋の奥へと歩を進めた。そこで、この家に足を踏み入れたことを深く後悔するような光景を目にした。
 そこは、尋常な人間が住んでいる部屋には見えなかった。
 机の上には見たこともないような実験器具が散乱しており、そのかたわらには研ぎ澄まされた刃物も置かれてある。壁ぎわには、動物を解剖したものであろう、目をそむけたくなるような標本がいくつもならんでいる。
 そのなかでも、とくに戦慄させられたのが、細長いガラス瓶のなかに入った、うすっぺらい人の顔のようなものであった。それはまるで、引きはがした羊皮紙のように、ひらひらと液体の中に浮かんでいる。
 私はその瞬間、一刻でも早くこの家から立ち去った方がよいと判断した。ところが、踵を返して入ってきた扉のほうを見ると、たしかにあったはずの出入り口が跡形もなく消えて、一面が壁になっている。
「ヒッヒッヒッ、とんだ獲物がかかったものだよ。しかし男とはね……男じゃあまり商売になりゃしない。どれ、その顔をよく見せておくれ」
 そのしゃがれた低い声は背後にある鳥籠の中にいる一羽のカラスから発せられているようであった。現にカラスは、器用に籠の隙間から抜け出すと、私の顔の近くまで飛んできて、その黒く丸い目で男の顔をまじまじと覗きこんでいる。私は金縛りにあったかのようにその場から一歩も動くことはできなかった。
「ふむ、なかなか悪くない器量をしている。女のように美しくはないが、自分の容姿に不満をもつ男は少なくないし、なかには男の顔を欲しがる変わった女もいることだしね……。どれ、ひとつ剥いでみせようか」
 つぎの瞬間、カラスはバッとその身をひるがえすと、一瞬にして黒い衣装をまとった老婆へと姿を変えた。
「案ずることはないさ。痛みなどないからね。一瞬だ、一瞬で終わるからね……」
 そういうと老婆は部屋の壁に立てかけてあった巨大な鋏を取り上げ、その切れ味を確かめるように刃先を舐めずった。私は恐ろしさのあまり手足が痺れ、逃げ出そうにも足は床に吸い付いたように動かない。それでも私は必死に老婆の気を逸らそうと、なんとか声をしぼりだした。
「ちょっと待ってくれ! ここに、ここにもう一人、女がやってこなかったか?」
 老婆は眉をひそめながら立ち止まった。
「女? ああ、女などここにはわんさか訪れるさ。馬鹿な女どもは、美しいものだけには貪欲だからねえ。風に乗って運ばれた噂をたどって、ここにくれば美しい顔が得られると聞いて訪ねてくるのさ……ヒッヒッヒ、自らの顔をひっぱがされるとも知らずにね。さあ、お前の顔も剥いでやろう。じっとしてるんだよ」
 その時、部屋の隅でガチャン、と何かが割れたような音が響いた。
 老婆は不快そうに顔を歪め、その音のした方をにらみつけた。
「ふん、どうやら悪いネズミが入り込んだようだ。ちょいとお待ちよ」
 そう言うと老婆は音のした方へと気配を殺して近づいた。そしてぱっとしゃがみこむと、なにかを両手で捕らえたようだった。
 それはたしかに老婆が口にしたとおり、ただのネズミだったようだ。尻尾をつまみあげられたネズミはじたばたともがいている。老婆はそのネズミをにらみつけると、忌々しげに言葉を発した。
「汚らわしいネズミめ、そんな姿をしても私にはすべてお見通しなんだよ。さあ、正体をあらわしな」
 すると、つまみあげられていたネズミはぶくぶくと膨れあがり、あっというまに人間と同じ大きさになると、床の上にどさりと倒れこんだ。もぞもぞと動くその姿に視線をそそぐと、それはまぎれもなくひとりの人間であった。それも、その姿には見覚えがある。ほかでもない、ネズミの正体は私の知っているあの顔のない女だったのである。
「ネズミに化けるとはなかなか不埒な女だね。おまえは一体誰なんだい? さあ、その顔をみせてみな」
 そう言うと老婆は女の後ろ髪をつかみ、長い髪の毛を掻き分けてその顔を覗きこんだ。そして女の顔がないことを見て取ると、ハッとしたようにその手を離した。
「そうか、おまえだったんだね。私の家からいろいろ盗み出して悪さをしていたのは」
 そのときである。ついさきほどまで指一本動かすことができなかった私の体が、まるで何かから解き放たれたかのように自由になったのだ。私はがむしゃらになって老婆に飛びかかっていった。老婆は驚いて後ずさった。その顔は憎悪に歪んでいる。
「フン、おまえたち、初めから組んでたんだね。私をだまくらかして何を奪おうとしていたのか知らないが、この代償は高くつくよ。覚悟はできてるんだろうね」
 老婆の憎悪はおぞましい形の影となり、黒い業火となってほとばしった。炎は柱に燃えうつり、床に広がり、やがて部屋ぜんたいを包み込んだ。私はあわてて倒れていた女を抱え起こすと、部屋の出口を探して駆けずり回った。しかし女は私の服の裾をつかむと、必死に引き戻そうとした。
「だめです。まだ、私の顔を取りもどしていません。私の顔を探さないと……」
 女はおぼつかない足取りで、壁際の棚の上にある細長い瓶が無数に並べられた場所へと歩いてゆく。その瓶に入っている剥ぎ取られた顔の中から、自分の顔を探し出そうというのだ。私も女のもとへと駆け寄り、彼女のものとおぼしき顔が入っている瓶を探そうとした。しかし私は彼女の本来の顔を知らないし、あまりにも瓶の数が多すぎてまるで見当がつかない。やがて、焦りで錯乱状態となった女が、かん高い声でわめき出した。
「ああ! どれが私の顔なのかわからない。これもちがう。これも、これも、これも。ちがう、ちがう、ちがう、みんなちがう」
 女は震える手で瓶をつかみとると、そのひとつひとつを床に落としはじめた。気味の悪い色をした液体が辺り一面に流れ出し、鼻が曲がるような異臭がたちこめた。私はなんとか彼女の気を落ち着かせようとしてその腕をつかむと、頭ごなしに叫んだ。
「このままだと二人とも丸焦げになっちまう。もう顔のことはあきらめるんだ。はやくこの家から出る方法を探そう」
 女は急に黙ったままうなだれてしまった。私は力ずくで彼女を引っぱりながら、出口らしきものがないか探しまわった。しかし、ネズミ一匹通れるほどの隙間すらみつからない。もはやこれまでか……と観念しかけたそのときだった。おそらく、なにかの薬品に炎が燃え移ったのであろう、部屋の隅で大きな爆発が起こり、その衝撃で家の壁が崩れたのである。外から猛烈な風が吹きこんでくると、部屋の中に黒い煙が渦巻いた。私と女は煙を吸い込まぬよう鼻と口を手で覆いながら、爆発の衝撃で空いた壁の穴から外へとびだした。
 つぎの瞬間、家はすさまじい音を響かせながら崩れ落ち、瓦礫の山と化してしまった。しかし黒い炎はいまだくすぶり続けている。
 ほっと胸をなでおろしたのもつかのま、すぐさま安寧は破られた。崩れた瓦礫の山からふたたびはげしい炎が舞い上がったかと思うと、その中からカラスの形を模した黒い炎がつぎからつぎへと飛び出し、襲いかかってきたのである。
 私たちは飛びかかってくる黒炎のカラスを手で払いのけながら、森の中へと逃げ込んだ。そのとき、女が急に私の服をつかんで走る足を引き止めた。
「ここを右手に曲がると私たちがやってきた泉があるはずです。そこまで逃げてください」
 私はその指示通り泉を目指して走った。森の中をひたすら進んで行くと、泉はたしかにそこにあったが、私がこの場所を訪れたときとくらべると、泉の大きさはひとまわり以上も小さくなっていた。
「さあ、はやく、泉の中に飛び込んでください」
 私はうながされるまま泉の中に飛び込んだ。底までの深さは腰の辺りまで浸かるぐらいだったが、冷たい水が骨身にまで染み入るようだった。しかし、何事も起こりそうな気配がない。
 そのとき、追いついてきたカラスのむれが私たちに襲いかかってきた。カラスは無防備な私たちの皮膚を食い破ろうと、するどいくちばしを突き立てながら頭上を飛びめぐっている。必死になって追い払おうと両手を打ち振るったが、半身が水に浸かっ不自由な状態ではされるがままで抵抗もむなしい。女のほうもカラスの襲撃に耐えながら、両腕を泉の中に差し入れると、なにやらぶつぶつと判読不明な言語をつぶやきはじめた。女のつぶやきが終わると同時に、急に足もとが抜けたかのように私の全身は泉の奥底へ沈み込んでしまった。そして暗い水の中を、どこまでも沈んでゆくような感覚がしばらくのあいだ続いた……。
 それからハッと気がつくと、私は森閑とした木々に囲まれた中でひとり立ち尽くしていた。そこにはもう泉らしき水溜りは消え失せていて、ついさきほどまで襲いかかってきたカラスも影ひとつ見当たらなかった。ただ、私のすぐそばには女がひとりうずくまっている。
 女は身じろぎひとつしなかった。あまりに静かなため不安になった私は、安否をたしかめるため手を伸ばすと、彼女は触れられることを拒むように身をよじった。その理由はすぐにわかった。彼女の身体は今にも崩れかかりそうなほど黒く炭化していたのである。
「すみません、あなたを巻き込んでしまいました……」
 女は消え入りそうな声を発してそう言った。
「私は元々、あの魔女の助手を務めていました。若く美しい女をだましてあの魔女のもとへと連れて行き、その顔をはぎとる手伝いをしていたのです。しかし、魔女の要求はますます過激なものになってゆき、おそろしくなった私は魔女のもとから逃げ出そうと企てました。ところが魔女は私の浅はかな企てなどすべて見通しており、捕らえられた私は顔をはがされ、そのままどこか見知らぬ土地に放り飛ばされてしまいました。その後のことは、わざわざ申し上げる必要もないでしょう。私は世を忍びながら、なんとしてでも自分の顔を取り返す機会をうかがっていました。事前に魔女の家から魔術の秘法をぬすみだしていたので、あとは魔女の住処まで戻るだけです。その道中であなたの家をみつけ、助けを求めることにしました。他人を巻き込むつもりはなかったのですが、ひとりでは心細く、だれか助けになってくれる人がいてくれれば、それ以上に心強いことはありません。私はその誘惑に打ち勝つことができませんでした。あなたをあのおそろしい魔女が住む場所まで引きずりこんでしまったのです」
 女は顔を上げた。あいかわらず目も鼻も口もなかったが、その表面は涙に濡れて湿っているように見えた。
「でももういいのです。顔は取り戻せませんでしたが、あの魔女に一泡ふかせてやることはできましたし、最後に封印の呪文をかけましたから、もうだれもあの魔女のところへはいけないはずです。しかし、その魔法を使うにはやはり代償があったようです。もうじき私は消えてしまうでしょう。そのまえに、あなたにこれを……」
 女は私になにか渡そうと手を差し伸べたその瞬間、彼女の身体は完全に消し炭と化し、吹きわたる風に巻かれて消え去ってしまった。
 地面にぽとりとなにか輝くものが落ちた。ちいさな宝玉のように見えるそれは、なんともいえない禍々しい邪気とあやしげな光を放っている。おそらく、これが魔女から盗んだ魔法の根源だったのであろう。私は女のまとっていた衣類とその宝玉を土の中に埋めると、簡単な墓標を立ててやり、その場をあとにした。
 のちにその場所は『魔女の住む森』として知れ渡り、とくに若い女たちに恐れられるようになった。もっとも、いまとなってはもうだれもそのあたりの土地に足を踏み入れることはない。





(おわり)