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月の人 #1


 秋の季節も終盤にさしかかり、まもなく冬の足音がきこえてこようかというある肌寒い夜更け時分。わたしはふと何気ない思い立ちで夜風にでも当たろうと、街の中を散策していたときのことである。暗碧色に染まる中天にはきれいな正円の月が懸かり、淡く澄んだ光を地上に落としている。とても静かな夜だ。このような夜更けには、得てして不思議なことが起こりやすいといわれている。
 かつてわたしは、月の光で醸造したという酒を飲んで酩酊し、巨大な人影に追いかけられたと吹聴してまわったことがある。しかし、誰ひとりとして信じてくれる者などいなかった。その場に居合わせた誰もがわたしのことを狂人だと嘲笑ったものだ。今宵も、その時とおなじような出来事が起こるにちがいないという漠とした予感があった。
 今夜は月の光で醸造した酒こそ飲んではいなかったものの、それでもしこたま飲み歩いて酔いが回っていたわたしは、ふらふらとおぼつかない足取りで暗い路地裏へと入り、そこだけ真っ白な光を投げかけている街灯の明かりの下まで歩いたところで、急に立ち止まった。
 そのとき、すでに気がついていたのだ。わたしの背後を、あやしげな人影がこっそり息を殺して尾行していることを。
 だからわたしは急に立ち止まると、目にも留まらぬ速さで振り返り、「誰だ!」と大声で叫んだ。しかし返事はなく、重苦しい暗闇と、ひっそりとした静寂のみが周囲を取り巻いている。気のせいか、とふたたび歩き出そうとしたところ、暗闇の奥から微かな足音を響かせて誰かが近づいてくる気配がある。そのまましばらく待っていると、一人の男が街灯の光の下に姿を現した。
 わたしはその男を一目見た瞬間、こいつは異国の者だと思った。背丈が異様なほど高く、肌の色が匂い立つカサブランカの花のように白かったからである。彼は面長で目鼻立ちのくっきりとした彫りの深い顔に満面の笑みを浮かべながら、ゆったりとした歩幅でこちらに近寄ってくると、握手でも交わそうというのか、そっと片手をさしのべてきた。彼はわたしになにか話しかけているようだったが、それが何処の言語なのか、まったく聞き分けることができなかった。ところが奇妙なことに、時間が経つにつれ、わたしは徐々に彼の言うことが理解できるようになってきた。彼がわたしに伝えようとしていた言葉の内容は、次のとおりである。
「わたしは月からやってきました。わたしは月の人です。あなたと友達になりたい。あなたとわたし、友達になれば、とてもすばらしいところへつれて行ってあげられます。さあ、握手をしましょう。あなたとわたし、それで友達になることができます」
 彼の話す言葉は全体としてたどたどしく、それもおそろしく滑舌がわるいのか、とても聞き取りづらかったのを憶えている。とにかく、そのときのわたしはかなり酔いがまわっていたということもあり、深く考えることも疑うこともなく、その月から来たという奇妙な男と握手をかわしてしまったのだった。
 彼は満足したようにうなずくと、依然としておぼつかない言葉遣いで、「これであなたとわたし友達。わたし、あなたを月の世界に招待します」と、ゆったりした動作でわたしの背後を指さした。
 振り返ってみると、さきほどまでそこにはなにもなかったはずの場所に、光り輝く階段が出現している。その階段ははるか天上を目指して果てもなく伸びているようであり、その行き着く先には、たしかに白銀色に輝く満月がぼんやりと浮かんでいる。
 月から来たという男は先導するように光る階段を上りはじめた。わたしもはじめこそためらっていたが、意を決して階段の一段目に足を掛けた。はじめの一歩さえ踏み出してしまえば、あとはもう恐れることなどなにもない。わたしは自宅の階段を上ってゆくような軽やかな足取りで、ずんずんと天に向かって伸びる階段を上っていった。気がつけば、わたしの住む街は足下にすっかり霞んで見えなくなっている。先を行く男は止まることなく進み続けているので、わたしも足を止めることなく階段を上り続けた。不思議なことに、これだけ階段を上り続けているのに、まったく疲労が感じられない。それどころか、先に進むにつれ足の運びは軽くなり、むしろこうしていることが心地よいとさえ感じるほどであった。その頃にはわたしの酔いもすっかり醒めていた。遙か下界に遠ざかってゆく地表を眺めながら、わたしは途中に何度も、これは夢でも見ているにちがいないとしきりに頭を振った。わたしでなくとも、まっとうな人間ならばきっと同じ疑念を抱いたであろう。誓って言うが、これはまぎれもなく現実に起こった話だ。わたしはたしかに、月から来たという男に導かれ、光り輝く天に伸びる階段を延々とのぼり、月の世界へと向かったのである。
 やがて階段は尽き、わたしたちは目の前に高くそびえる壁に突き当たったところで足を止めた。これからどうするのかと男にたずねようとしたとき、男は壁にそっと手を触れると、なにやら小さな声で呪文のような言葉をつぶやいた。
 すると壁は大きな軋む音を響かせながら、奥に向かって少しずつ動き出した。壁だと思っていたものは、月世界への入り口となる巨大な門だったのである。
 門の向こう側にひろがる光景は、灰色の大地が果てもなく続く荒涼たる世界だった。たしかにそこは、昔テレビで放映されていた『アポロ11号月面着陸』という番組で見た映像とまったく差異のない光景であった。そしてなによりここが月面世界であることを確信させたのは、青く輝くわが母星、地球の姿を背後に見たときだった。
 男は開ききった門をくぐると、あっさり月の世界に進入した。彼はそのまま少し先に進んだところで立ち止まると、くるりとこちらへ振り向き、後続するよう手招きをした。わたしは誘われるまま慎重に門をくぐった。ちゃんと地に足は着き、呼吸も平常通りである。気温は寒くも暑くもなく、でこぼこした灰色の地面の上が非常に歩きにくいこと以外は、地球にいたころとそれほど変わったところがないので、本当にここが月の世界なのかと疑ったほどだった。
「ようこそいらっしゃいました。ここが月の世界です」
 呆気にとられ、きょろきょろと辺りをながめていたわたしに、男はそう言った。
「そういえば、自己紹介がまだ済んでいませんでしたね。わたしはアリスタルコスともうします。これから、あなたをわたしたちの住む村へとご案内いたします。もうしばらく歩くことになりますが、どうぞご容赦ください」
 驚くことに、あれほど聞き取りづらかった彼の言葉は、この月の世界に足を踏み入れた途端、流暢に聞こえるようになった。わたしと彼が並んで歩き出すと、背後で門の閉まるきしむ音がひびき渡った。
 わたしたちはそれからふたたび長いこと歩き続けた。道中に見えるものといえば灰色の砂と灰色の岩、わたしたちの足もとに長く伸びる影ぐらいのものである。月の世界とは、なんと無味乾燥なものだ、こんなところに本当に彼らの村などあるのだろうか、などと考えながら歩いているうちに、隣にいるアリスタルコスが前方を指さしながら立ち止まった。
「ほら、村が見えてきましたよ」
 わたしは彼の指さす方を凝視した。相変わらず灰色の大地しか見えてこない。しかし歩を進めるうち、それらしい建造物がここよりはるか向こうにぽつりぽつりと見えてきた。
「村には何人くらい住民がいるのですか?」と、わたしはたずねてみた。
「わたしを含めて、ざっと八十人くらいでしょうか」
「あたたがた以外に、月に住む人はいないのですか?」
「いいえ、わたしたちが住む村以外にもいくつか集落は存在します。互いに交流らしいものもありますが、なにせこれだけ大地が広いと、行き来するだけでも大変なのです。そういえば、あなた方の住む世界には、自動車なるものがありましたね。あんなものがこの月の世界にもあればずいぶん助かるのですが」
 彼は快活に冗談めかしながらそう言うと、少しだけ歩く速度を上げた。
「ですが、この世界ではどれだけ速く歩こうが、全力で走ろうが、けっして疲れることはありません。ほら、あなたもためしてごらんなさい」
 わたしは言われるまま走ってみたり、歩幅を大きくして跳ぶように突き進んでみたりした。たしかに、足や身体に疲労はまったく感じられない。それどころか、通常よりもはるかに速く走れるほど身体が軽く感じる。これなら自動車も必要ないかもしれない。
 そうこうしているうちに、村の全容が見えてきた。大地から盛り上がるようにドーム状の建物がいくつも連なっている。どうやら、これが彼らの住居らしかった。近くに寄って観察してみると、それは北国などで見かけるかまくらなどの構造物によく似ている。ただ、規模としてはそれよりもかなり大きい。造りもしっかりしているようで、材質は何なのかはっきりしないが、どの建物も月の表面と同じ無彩色なため、月面の砂や岩を固めてつくったものであろうと推測した。
 村の中はひっそりと静まりかえっている。少なくとも、屋外に住人の姿はどこにも見られない。まもなくわたしは村の中でも一等大きな建物の前まで案内された。アリスタルコスが扉の横に据え付けてあるちいさな鐘を鳴らすと、ひとりの若い女が扉を開けて出むかえてくれた。肌は白百合のように美しく、すらりとした体躯の長身な娘である。彼女はわたしの姿を見るなりにこやかな表情をうかべると、「ようこそおいでくださいました。長老が中でお待ちになっております。どうぞお入りください」と言った。
 わたしは家の中へ入った。建物の中は簡素な造りながら広々としている。生活様式はわたしたち地球人とそう変わらないようである。木製のテーブルにスツール、タンスにキャビネット、いずれも地球にあるものと寸分の違いはない。わたしは奥の部屋に通された。すると、長老とおぼしきひとりの老人が床の上にあぐらをかいて座っている。案内してくれた娘が老人の向かいの位置にある座布団を指し示しながら、どうぞお座りになってください、と言った。わたしは座布団の上に腰をおろした。
 老人は瞑想でもしているのか、はたまた居眠りをしているのか、わたしが目のまえに座っても、うつむいたままぴくりとも動かなかった。手持ち無沙汰のまましばらく待っていると、老人がはっとしたように顔を上げた。白い鬚に覆われた老人の顔は、哲人のように思慮深く、荘厳な印象をわたしに与えた。目のまえに座っているわたしに気がつくと、老人は優しくほほえみかけながらしわがれた声を出した。
「おお、お客人などじつに久しぶりです。ようこそいらっしゃいました。わたしはこの村に住む月の民の代表をしております、エウクテモンともうします。どうぞお見知りおきを……」
 まもなく、さきほどの娘が急須と湯呑をふたつのせたお盆を持ってもどってきた。
「孫娘のティコです。この娘の兄のアリスタルコスにはもうお会いになりましたな。二人とも、うつくしく立派に育ってくれた自慢の孫たちです」
 ティコという名で紹介された娘はわたしと老人の前に湯呑を置くと、急須を傾けてお茶をそそいだ。白い湯気が立ち、わたしは湯呑を手に取って顔に近づけて匂いをかいでみると、瑞々しい花の香りが鼻孔をくすぐった。
「これは月の世界でしか飲むことができない特別な煎じ茶です。どうぞお飲みになってください。少々変わった味がするかもしれませんが、お気に召すかと存じます」
 わたしは勧められたそのお茶に口をつけてみた。たしかに苦いような甘いような、独特な風味のある味だ。さらに飲みすすめていくうちに、わたしはすっかりその味の虜になっており、気がついたときにはもう飲み干してしまっていた。
「ほう、これはなんともめずらしい味のするお茶ですね。なんという名前のお茶ですか?」
 わたしがそう言うと、ちかくでようすをみていたティコが嬉しそうに答えた。
「残念ですけど、詳しいことは教えてあげられないんです。でもそんなに気に入ったのなら、もう一杯めしあがりますか?」
 彼女は急須を傾けてふたたび湯呑にお茶をそそいだ。わたしはそれを一気に飲み干した。身体はぽかぽかと温まり、気分はとても晴れやかだった。
「そういえば、わたし以外にもこの月の世界をおとずれたことのある人はいるのですか?」
 相変わらずにこにこと笑顔をうかべてうなずきながら、長老エウクテモンはそれに答えた。
「ええ、以前はよく地球から客人が来ておりました」
「そういえば、この家に置かれてある家具などは、地球にあるものとよく似ていますね……」
「それはそうです。ここにあるものの大半は、地球から持ってきたものなのですから。なにせここは物資がとぼしいものですから、わたしども月の民はときたま地球へと降り、その都度必要なものを調達してくるのです。そのさい、友好そうな地球人を見かけるようなことがあったら声をかけ、この月の世界に招待します。そして、現在の地球のようすをつぶさに聞かせてもらうのです。ここにはテレビもラジオも新聞もありませんから、それが唯一のたのしみというわけです」
 わたしは、なるほど、とにわかにうなずいた。それから、最近地球で起きた出来事を根掘り葉掘りたずねられることとなった。それは主に国内外の政治のこと、経済のこと、現在流行っている音楽や食べ物のことなど、多岐にわたった。いったいどれくらいの時間しゃべっていたのかわからない。あの奇妙なお茶を飲んでから、わたしはいやに上機嫌でおしゃべりになっていたようだ。長老はわたしの話を聞きながら満足そうにうなずき、そのかたわらにはティコが座って興味深げに耳を傾けていた。
 永遠につづくかと思われたおしゃべりも一段落つき、急な眠気におそわれたわたしは、重たくなったまぶたを閉じぬよう我慢していると、その様子を見た長老が口を開いた。
「ふむ、じつにおもしろいお話を聞かせてもらいました。あなたもずいぶんおつかれになったことでしょう。本日はもうお休みになってください。孫に寝室へ案内させましょう。明日は村の住民総出で歓迎の宴を開く予定となっております。ぜひご参加ください。それが済みましたら、アリスタルコスに月の世界を案内するよう伝えておきます。さあ、もうお休みなさい」
 長老が言葉を結ぶと同時に、座っていたティコが立ち上がった。わたしはこの厚意に甘えることにして、彼女に寝室まで案内してもらうことにした。
 通された来客用の寝室は、せまいベッドと小さなテーブル、それに椅子が一脚ずつ置かれてあるだけの簡素な部屋だった。わたしはすぐさまベッドの上に倒れ込んだ。
「ありがとう、おやすみ」
 ティコはかたわらに座り込むと、そっとわたしの手を握りながらこう言った。
「ねえ、あなたの名前、教えてくださらない?」
「いいとも、わたしの名前は――」
 その瞬間にわたしは深い眠りに落ちてしまったようだ。ただ、意識がとぎれる間際、そっとささやくティコの声が聞こえたような気がした。
「――さん、おやすみなさい……」






(つづく)