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顔がない女 #1

 冷たく冴えた月が皓々と地上を照らし出しているある晩のこと。
 一人の女が家の門戸を叩いた。
 私は戸の錠をはずし、わずかな隙間からのぞくようにして女のほうを見た。
 外は暗がりでもあるし、女は真っ黒な外套を頭まですっぽりと目深にかぶっているため、顔をうかがうことはできない。
 女は低い声音で、「ひもじいのです。入れてもらえませんでしょうか?」とたずねた。
「見ず知らずの者を入れるわけにはいかない」と答えると、女は泣きそうな声になって、「後生ですから、おねがいします」と食い下がってくる。
 根負けした私は戸を開けてやった。こごえるような冷たい風といっしょに、女が入ってきた。
「なにか、食べるものをいただけないでしょうか」
 私は余っていたパンを半分与えた。女はあっという間にたいらげてしまった。
「今夜一晩、泊めさせてもらえないでしょうか」
 私は部屋の隅に、簡素な寝床をしつらえてやった。女はすぐさま体を横たえると、泥の中に沈み込むように眠ってしまった。
  女がどんな顔をしているのか、気になって仕方がなかった。そこで息を殺すようにして、女が眠っている寝床へと近づくと、顔を覆っている外套をそっとめくってみた。
 「ヒイッ!」私は悲鳴をあげて後ずさった。女の顔には、目も、鼻も、口も、眉もない、まったくの平面だったのである。
 私が驚いた拍子に、女もはね起きた。そしてみずからの顔があらわになっていることに気がついて、あわてて顔を覆い隠した。
「見てしまわれたのですね……」
 女は悲しげな声を出して言った。
「おまえはいったい何者だ。怪物のたぐいか」
 私がそうたずねると、女はしずしずと答えた。
「驚かれるのも無理はありません。……私の顔は盗まれてしまったのです」
「なんだと? 顔を盗むなどという馬鹿げた話、聞いたこともない」
「ですが事実なのです。ここよりはるか西の地方に、それはそれは醜い魔女が住んでいます。彼女は美しいと思った人の顔を蒐集するという、おぞましい悪癖がありました。彼女に目をつけられたら最後、顔の部分部分を、まるで薄皮でも剥ぐように削ぎとってしまうのです」
「しかし、奇妙ではないか。おまえは口がないのに喋っているし、さっきはパンも食べていた。目もないはずなのにどうして歩ける?」
「それは私にもわかりません。……たしかに、見た目には目も口も鼻もありませんが、私の感覚的にそれらはすべて存在しているように感じられるのです。じっさい、物を食べたり息を吸うこともできれば、匂いを嗅ぐことも、目のまえになにがあるのかも感じ取ることもできます。これはおそらく呪いなのです。私がこの地にやってきたのは、この辺りに、魔女の呪いを解く不思議な泉があるという噂を耳にしたからなのです」
 女は震える声でそう言葉を結んだ。泣いているのかもしれなかったが、彼女の顔は一面肌色ばかりで、ほんとうに涙をながしているのかどうか見極めることはできない。
 女のことを少し憐れに思いはじめてきた私は、しばらく思案した。
 長年この土地に住んでいるが、そのような泉の話など耳にはさんだことすらなかった。それに、私はまだ女の顔が悪い魔女に盗まれたという話をすっかり信じたわけではなかった。しかし、それならばこの顔を失った女のことをどう説明付ければよいのか。
 女はまださめざめと泣いているらしかった。しっとりと粘りつくような女の泣き声は、薄暗闇の中で呪詛のごとく響き渡った。気味が悪くなってきた私は、なんとか女の気をなだめようと口を開いた。
「明日になれば、私もその呪いを解くという泉を探すのを手伝ってあげよう。だから、今日のところはもう静かにして眠っておくれ」
 その願いを聞き入れてくれたのかどうか、それからはすすり泣きも止み、物音ひとつ立てることもなかった。
 夜もすっかり更け、月はいつのまにか黒い雲に覆われて、わずかばかりの光も射さない。


(つづく)