月の人 #2
翌日、村の外から聞こえてくる騒がしい物音に目を覚ました。ベッドから起き上がると、ちょうどその機会を見計らったかのようにアリスタルコスが部屋の中へ入ってきた。
「おはようございます。よく眠っておられたようですね。ちょうど宴の準備も終わったところです。お腹もすいているでしょう、さあ、ついてきてください」
わたしはアリスタルコスに伴われて寝室を出た。さらに家の外に出ると、大きなテーブルがいくつも並び、その上には豪華な食事がところ狭しと置かれてあった。食卓から漂う香ばしい匂いをかぐと、わたしは改めて空腹を感じた。昨日まで人っ子ひとり見当たらなかった村の中に、たくさんの月の民が集合している。地球から来たという客人を出迎えるためか――それとも、ただの好奇心から集まってきたのか、なんにせよ、わたしが姿をあらわすなり、彼らは拍手とともに歓呼の声をあげて迎えてくれたのである。わたしはあっという間に何十人もの月の民に囲まれてしまった。月の民といっても、外見上の特徴は地球人と変わりはない。ただ、男も女もみな一様にほっそりと背が高く、肌の色は石膏像のようにまっ白だった。なかには子どもと思われる年頃の月の民もいる。彼らも地球の子どもたちと比較するとやや背は高く、髪の色はあざやかな金色で肌はやはり透き通るように白い。子どもたちは宴の外側で見たこともないおもちゃであそんでいる。
わたしはたくさんの月の民に囲まれながら食事に舌鼓を打ち、さまざまな他愛ない会話を交わした。
しばらくすると、長老のエウクテモンがあらわれて、月の民を代表して歓迎の辞をのべた。それからも宴は延々と続いた。
だれもが時間を忘れて宴を満喫しているなか、わたしにそっと近づいてくる人影があった。
「よろしければ、ちょっとそのあたりを散歩しませんか?」
話しかけられ振りむいてみると、そこに立っていたのはティコだった。彼女はほほえみながらわたしの手をつかむと、「行きましょうよ」となかば強引に宴の外に連れ出した。
わたしはティコと肩を並べてしばらく黙ったまま歩き続けた。村からかなり離れたところで、彼女はようやく口を開いた。
「じつは、祖父に月の世界を案内するよう遣わされたのです」
その口調にはやや緊張しているような固さがあった。けれどもすぐにおちつきをとりもどしたらしく、つぎの瞬間にはいつもの物腰柔らかなしゃべり口調にもどっていた。
「当初は兄のアリスタルコスが案内することになっていたのですが、兄はべつの用事があって、代わりにわたしが案内役をつとめることになりました。でも、よかった。わたし、あなたと二人きりでいろいろお話ししたかったのです」
それからわたしは歩きながら地球のことについてふたたびあれこれと質問を受ける運びとなった。たとえば、海は見渡すかぎりにひろがる大きな水溜りで、舐めると塩の味がするというのは本当なのか、また、海の中にはどのような生き物がすんでいるのかといったようなことである。
「月の世界はどこを見ても砂と岩ばかりで殺風景なように思われるかもしれませんけれど、じつは海も山もあるんですよ。それに、きれいな円形にえぐれたクレーターは、見ていると意外な発見もあっておもしろいんです」
彼女は真横の方角を指差しながら立ち止まった。
「ここを西に進めば既知の海、東に行けば豊穣の海がありますわ」
「でも海といっても、実際に海水なんかがあるわけじゃないんだろう?」
「ええ、そりゃあ、地球の豊かな自然の風景に比べれば、ここはなにもない無味乾燥な世界同然かもしれません。だけど、こうやって立ち止まってじっとそのあたりの場所をながめていると、打ち寄せてくる波の音や、海を渡ってくるさわやかな風を感じるような気がするんですよ。とはいえ、わたしは本物の海を写真でしか見たことはないんですけど、それでも、じゅうぶん想像することだけはできます」
「君は、地球に行ったことはないの?」
ティコは少しさびしそうな表情をうかべながらうなずいた。
「でも、いつかはわたしも地球に行ってみたいと思っています。そして実際に、太陽の光に照らされてきらきらとかがやく碧い海を見たり、たくさんの木々に囲まれて鳥のさえずる森の中を歩いてみたりしたいんです」
そこで彼女はなにか思いついたように、ぱっと目をかがやかせながら、わたしのほうに向き直ってこう言った。
「いつか、わたしが地球に行く機会に恵まれたら、こんどはあなたが地球の各地を案内してくださらないかしら?」
わたしは軽くうなずきながら、そのときはもちろん案内するよと請け合った。この返答に彼女も喜色満面の笑みをうかべ、さっそうと小高い丘の斜面を駆けのぼってゆくと、「こっちへ来て、いいものを見せてあげます」と、こちらへ招き寄せるしぐさをした。
さそわれるままあとを追うと、彼女は大きな岩のくぼんでいるあたりを指さした。そこは暗がりに沈んでおり、なにがあるのか、と探るように注視すると、少し奥の方にきらきらと光るものが見える。ティコは手を伸ばし、その光る物体をつかみとってわたしに見せてくれた。手のひらとちょうど同じくらいの大きさで、透明な薄いガラスのようなものだった。それがわずかに差し込む光を反射して、きらきらと光っていたようである。
「これは、テクタイトの花です」
「……テクタイト?」聞きなれない言葉にわたしは首をかしげた。
「はい、むかし巨大な隕石がこの月面に衝突した際に生成されたといわれている天然ガラスです。これだけきれいに結晶化するのはめずらしいんですけれど」
たしかにそれは、放射状に薄く延ばされ、見ようによっては花のような形に見えなくもない。
「さしあげます。だいじにしてくださいね」
わたしは感謝のことばを述べ、それを壊れないようにそっとポケットの中に入れた。
わたしたちはふたたび歩き出すと、月の世界を存分に見て回り、それから村に戻ると、長老がふたりの帰りをまちかねていたかのように出迎えてくれた。
「月の世界は気に入っていただけましたか?」
「はい、とても気に入りました。食べものや飲みものもおいしいし、月の人たちもみんなとても親切にしてくれます。ずっとここにいてもいいくらいですね」わたしは笑顔で冗談めかしながらそう答えた。
「ほう、それはよかった。あなたさえよければ、ずっとここにいらっしゃってもかまいませんよ」長老も冗談半分に相槌をうつと、満足そうにほほえんだ。「いろいろと歩き回ってお疲れになったでしょう。今日はもうお休みになってください。さあティコ、お客さんを案内してあげなさい」
名指しされたティコは少しうつむきがちに「はい」と答えただけだった。それから彼女はわたしを一軒の家の前まで案内してくれた。扉を開けて中に入ると、薄暗く、だれも住んでいるような気配はない。ほかの家に比べるとやや狭い印象は受けるものの、生活には困らない程度に家具類もそろっており、一家族が住むぶんにはまったく問題ないと思える部屋の広さだった。
「ここは長いあいだ空き家になっていたんです。あなたさえよければ、しばらくここにお住まいになってもよいと長老がおっしゃっていました」
「しかし、いつまでもここにいるわけにはいきません。仕事もあるし、そろそろ帰らなければ」
そのとき、ティコの表情がやや曇ったように見受けられた。
「ええ、わかっています。……ですが、いつでも地球に降りられるわけではありません。地球から見て、ちょうど満月に見えるその日にしか、地球に降りることができないのです。なので申し訳ありませんが、しばらくはここに滞在してもらうより方法がないのです」
そういうことならしかたがないと、わたしは承服した。月の世界の居心地もそう悪いものではない。あと少しここに滞在したところで、これといった不服も不足もなかった。
それからというもの、わたしは暇を持て余すこともなく、充実した時間を過ごすことができた。絶えず誰かがわたしの家を訪問して、話し相手や遊び相手になってくれたからである。わたしは彼らにトランプカードを使った遊びを教えてあげると、お返しに彼らは月の世界独特の遊び方をわたしに教えてくれたりした。それに、ティコはわたしの身のまわりの世話をよく焼いてくれた。
そしてどれだけの月日が経ったのか、まるで判然としない。たった数日しか経っていないような気もするし、もしかすると数か月、あるいは数年ほど過ぎ去っていたのかもしれない。ただ、そのあいだにわたしはすっかり月の住人たちと打ち解け、村民の一員として認識されていた。とりわけ、ティコとはいままで以上に親密な間柄となっていた。彼女は変わらずわたしを慕っていてくれたし、わたしも彼女と共にいられる時間が、今ではかけがえのないものになっていたのである。
ある日の真夜中、就寝しているところにとつぜん扉の叩く音が聞こえて眠りから覚めたわたしは、のっそりと起き上がり、いったい何事かと玄関の扉を開けた。すると、そこに立っていたのはティコだった。彼女は寝起きのままの格好で、どこかあわてている様子である。わたしはおどろいて口を開いた
「いったい、どうしたんです」
「おねがいがあります。なにも聞かず、わたしについてきてください」
なにやらのっぴきならないあわただしさに押され、わたしは言われるまま彼女についていくことにした。
外はとても暗く、彼女が手に持っているランプの明かりがなければ、歩くことすらおぼつかないほどであった。わたしたちは人目をはばかるように気配を消しながら、慎重な足取りで村の外まで歩いた。どこへ行くのか小声でたずねてみたが、彼女は黙ったまま歩きつづけている。ただの散歩にしては相当な距離を歩いたと感じたところで、ようやく先を行く彼女が立ち止まったので、わたしも足を止めた。ランプが照らす先には高くそびえる壁が見える。どうやらここより先は進むことができないようである。
「ここは? どうしてこんな場所に?」
そう言いながらも、わたしはなぜかこの場所に見覚えがあるような気がした。
「おぼえてませんか? あなたはこの門をくぐって、地球からやってきたんです」
「……チキュウ?」
「これからわたしがする質問に答えてください。あなたは自分の名前を言うことができますか?」
なにを、そんな当たり前のことを……と思ったのもつかの間、わたしは自分の名前がまったく出てこないことに気がついた。
「……これはいったい?」
「じつは、あなたにまだ伝えていないことがあります」彼女はその次の言葉をためらっているようにも見えたが、少し間を置いて、ようやく決意を固めて口を開いた。「あなたがこの月の世界につれてこられたのには、ある理由があります。それは、月の世界の掟に、若い男女はある一定の年齢に達すると、地球からやってきた者と結ばれなければならないという決まりがあるのです。なぜなら、月の民同士で結ばれても、その両人は子孫を残すことができないからです。それがなぜなのか、今もってだれにもわかっていません。古来より科せられた月の民の宿業だとか、そもそも遺伝的に不可能なのだとか、さまざまなことが伝承として残っていますが、ともかく、古いしきたりでそうなっているらしいのです」
彼女はここでまたいったん言葉を切り、少し呼吸を整えてから話を続けた。
「わたしの村では適齢期をむかえた男女がいる場合、その親族が地球に降り、結婚相手にふさわしい者を選んで連れてくるのです。今回は兄のアリスタルコスがその役目でした。あなたは、わたしの結婚相手として選ばれ、この世界に連れてこられたのです……でも、ここからが重要なのですが、月の世界に連れてこられた地球の人は、以後、永久に月の民となって暮らしてゆかねばなりません。しかし地球にいたころの記憶があれば、ひょっとしたら地球に帰りたいと思うようになるかもしれません。そのため、あなたがはじめてここに来たときに飲んでもらったお茶のなかに、この月の世界でしか調合できない、特殊な薬剤を入れておきました。それを飲むと、少しずつ地球にいたころの記憶は薄れ、最後にはまったく思い出せなくなってしまいます」
ここでふたたび話を中断し、彼女はわたしの反応をうかがうように少し間を置いた。しかし、わたしの頭はすっかり混乱しており、どういう反応を示すべきなのかわからなかった。
「……どうして、そんな重要な秘密をいまここで明かしてくれたんだい?」
「わたしはずっと地球の世界に憧れを抱いていました。この月の世界のようにどこを見ても無味乾燥な灰色の世界じゃなくて、色彩豊かで、たくさんの動植物たちが息づく自然の風景をゆっくりと自分の目で眺めることが、わたしの長年の夢でした。……そう、あなたと出会えたことは、わたしにとって幸福なことでした。あなたが地球のことをいろいろと語ってくれたおかげで、わたしも実際に地球へ行ったような空想に浸ることができました。できれば、あなたにはずっとこの世界に留まってもらい、もっとたくさん地球のことを教えてもらうことができれば、これ以上うれしいことはないと思っていました。でも、どのみちここにいれば、あなたはいずれ地球のことをすっかり忘れてしまいます。それに――なぜだかわたしにもわかりませんが、それはとてもかなしいことのような気がしました。そんなすばらしい世界に、もう二度と戻ることができないと思うと、とても耐えられない気持ちになったのです。そこで、あなたの記憶が完全に消え去ってしまう前に、地球へ帰ってもらうことにしました。いますぐ地球に帰ることができれば、おそらく記憶も元に戻ると思います。今日は地球側から見て、ちょうど満月の日です。これを逃すと、もう二度と地球に戻る機会は訪れないかもしれません」
「……しかし、わたしを地球に帰してしまえば、この月の世界の掟をやぶってしまうことになる。わたしを逃がしたあと、きみはどうなるんだ?」
そのとき、背後のほうからだれかが叫ぶような声が聞こえて振り返ると、暗闇のなかにぽつりぽつりと浮かぶ小さな光がこちらにむかって近づいてくるのが見えた。
「たぶん兄さんたちが気がついてわたしたちを連れ戻しにきたんだと思います。もう時間がありません、はやく行ってください」
そう言うと彼女は扉に手を当て、小さな声で呪文のような暗唱をつぶやくと、門は大きな音を響かせながら少しずつ開かれていった。その先に、地球にむかってまっすぐに伸びる長い階段が見える。わたしは門をくぐって少し進むと、ふと振り返り、彼女のほうを見ながらやにわに言葉をかけた。
「そんなに憧れているのなら、きみもわたしといっしょに地球へ降りないか?」
だが彼女は首を横に振ったまま、その場から動こうとはしなかった。彼女はわたしに向けてなにかしゃべっているようだったが、なにを言っているのか、その言葉がわたしまで届くことはなかった。わたしはふたたび門をくぐって月の世界に戻ろうとしたが、見えない力で弾き飛ばされ、やがて門はゆっくりと閉じてしまった。わたしは呆然と立ち尽くし、しばらくそこから動くことができなかった。やがて、門は目の前からどんどん遠ざかっていった。自分の足で階段を下っているわけではなかった。わたしの意思とは無関係に、月の世界が目の前から遠ざかっていたのである。……
いつのまにやら、わたしはどこかの路地裏の街灯の下で、夜空を見上げながらぼんやりと立ち尽くしていた。わたしは長い夢から覚めたようにハッとわれに返った。こんなところでなにをしていたのか、頭が妙にぼうっとしていた。夜はまだ明けきっておらず、街のなかはふわっと霞がかり、静寂は極まっている。急につめたい空気が肌身に沁みた。ようやくわたしはその場から動いた。
薄暗い街路を歩きながら、わたしはなにか重要なことを忘れているような気がしてならなかった。でもそれが何なのか、あと一歩のところで思い出せなかった。
手がかじかんできて、ふとズボンのポケットに手をつっこんだとき、なにか固いものに触れて、わたしはそれを取り出してみた。それは透明なガラスでできた、放射状に咲いた花弁のような形をしたものだった。
はて、こんなものいつ拾ったんだか……思い出そうとしたが、やはりどうしても思い出すことができなかった。
それからもわたしは夜空にうかぶ月をみるたび、不思議となつかしいような、せつないような、なんともいえぬ奇妙な感覚におそわれることが幾度となくあった。だが、その理由だけはついにわからぬまま、何事もなく街の喧噪のなかに溶け込んでゆくまで、そう時間がかかることはなかった。
(おわり)