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児童期の自分①(養護学校~小学部①)

仕事の記事が続きましたが、過去にも振り返ってみたいと思います。

これまでの記事は、下記をご覧ください。

ついに、カルチャーショックを受けた養護学校時代です。

とにかく何もかもが衝撃だった

入院生活が長かったくせに、私は多分他の人に興味がなかったのだろう。

入学式の日、式が始まるまで学年で待機していた教室で固まった。

周りにいる同級生達が、本当にインパクトのある人達だったから…。

何故に養護学校へ行ったんだ?

進学先を決めたのは、いわゆる保護者だった。
が、私の意見を聞いてくれていた。

「養護学校へ行く」

私には、上にきょうだいが2人いる。
地域の小学校に行くという選択肢がなかったわけではない。
だが、選択しなかった。

理由は…

「給食が嫌だったから!」

アホである。
本当にアホなのである。

何がって、養護学校が何故給食ではないと思ったのか?

今でもこの点は非常に謎である。

でも、もしかしたら無意識に「イジメられたら…」など考えていたかも…どうかな笑

でも楽しかった学校生活

そんなインパクトは、数日で終わりました。

まぁ、よく友達につねられて泣いていましたが…笑

毎日、友達とブロックしたり、勉強したり、ブロックしたり、ブロックしたり…どんだけブロックしてたんだろうってくらいでした笑

でも、何だか居心地が良くて楽しかったです!

先生にイジメられた低学年

自立活動という授業があった。

もちろん、今の特別支援学校にもあるのだが、その時間は自分の身体を訓練する時間になっている。
理学療法士や整形外科医が指導の下、教員が各児童・生徒の身体を訓練するのである。

その時間が、私は本当に苦痛だった。

これまでの私は、泣き虫で弱い人間だったことはすでに書いてきた。
だからこそ、私は虚勢を張って生きていた。
知らない人にも暴言を吐き、噛みつかれそうになったら言葉で応戦した。
それがどうやら理解されなかったらしい。

担当ではない教員から、イジメられることになった。
実に3年間…週に2回ある自立活動の授業で毎回である。

方法は色々あった。
手も使えない私にボールをぶつける、突き飛ばして転ばさせられる、暴言を浴びせる…。

他の教員も当然見ていた…が、助けてはくれなかった。
その自立活動科のボス的存在だったその教員に、誰も意見が出来なかったのだろう…。
いや、それに同調した教員も居たのだろう。

とにかくそれが嫌だった…が、誰にも言わなかった。
そして、学校も休まなかった。

友達と過ごせる学校が、その嫌な時間を差し引いても楽しかったからだ。

1年生、2年生と皆勤賞をもらった

親にも言わなかった。

何故かは分からない…
覚えていないが、言わなかった。

が、夜泣きは酷かったらしい…。
その自立活動があった日の夜は。

でも、学校だけは絶対休まなかった。
楽しかったからというのが第一だが、今思うと休んだら負けだと思ったのかもしれない。

そのため、1年生、2年生と皆勤賞をもらった。

では…3年生は?というと、一日だけ休んだ。
理由は体調不良…ではなく、ズル休みだったのだ。

人生で一番悔やんでいるズル休み

このズル休みは、忘れもしない出来事だ。

宿題を出されて、明日授業で確認しようと担任が言った。
その答えが本当に分からなかった。

養護学校のクラスメートは、最大で6人だった。
3年生の時は、自分を入れて3人。
誰か分からないことがあると、授業は分かるまでそこを徹底的に取り組む。

それがちょっと悔しかったこともあるし、本当に分からなくて心が折れていたこともあったが、翌日親に「体調が悪い」と伝えた。

珍しく母は「じゃあ学校を休もう」と言ってくれた。
もしかしたら、見透かされていたのかもしれないが、少し安心していた。

が、すぐに後悔することになった。

何をしてても、本当に楽しくなかった。
後ろめたい気持ちが、本当に押し寄せてきた。

もう二度とズル休みはしないようにしようと心に誓った。
(まぁ、思春期に入ったらもうちょい悪いことしているがね…)

イジメていた教員の行く末

3年の冬に親が夜泣きの理由を突き止めて、学校に乗り込んだ。
事態が発覚し、学校で問題になった。
そしてその教員は、その年に違うところへ異動になった。

今でも覚えているが、
その教員が「母ちゃんにチクったな!」
と言ってきた。
「チクってねぇわ!」
と答えたが、嘘はついていない。
気づいたのは、夜泣きであって私は直接母には言っていなかった。

弱虫だった私だが、芯だけはその当時からブレていないのかもしれない。

小学部低学年はそんな感じ。
おもしろエピソードはいくつかあるが、それはまた別の機会に。

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