【昭和講談】花登筐「番組の主導権を握れ!」 第一回(全三回)

 えぇ、ここからは錦秋亭渓鯉で、昭和の埋もれた歴史を掘り起こす「昭和講談」でお付き合いのほどをお願い申し上げます。

 さて、時代が進み、技術が進み、社会が変わる度毎に、新しい職業が生まれることがままございまして、昭和時代には想像だにできなかったユーチューバーやインフルエンサーなんてものはその良い例でございましょう。

 昭和の時代も同様で、ここで大きいのがテレビの出現でございます。
 大量のテレビ番組を制作するため、テレビに関する職業が誕生いたしまして、ディレクターやカメラのクルーなど、新しい職業が生まれてきた訳でございます。

 これら新しい職業の中で、週刊誌などにも大きく取り上げられる様になるのが、番組の台本やドラマの脚本を手掛ける「放送作家」でございます。
 昭和時代の有名作家を挙げますと、永六輔、大橋巨泉、向田邦子と、お歳を召した方などは「あ~、あの人」なんて、思い出す方もいらっしゃるではないでしょうか。

 その中でも異彩を放っていたのが、この演題で登場する「花登筐」という放送作家でございます。
 テレビ放送黎明期に、「やりくりアパート」や「番頭はんと丁稚どん」といった関西コメディを送り出したのがこの花登筐でございまして、生涯テレビドラマを書き続け、五五歳で亡くなる、その作家人生三十年で、ドラマ本数六〇〇〇本、小説一〇〇本、舞台脚本は五〇〇本と言われ、とても人間業とは思えない業績を残した作家でございます。

 この花登さん、筆の速さは尋常ではなかったそうで、一晩で百枚もの原稿を書いたと言われております。
 この話は証人もいたそうで、花登筐さんの自宅に招かれて、そのまま泊まることになると、花登さんは夜の間中、眠気覚ましのアンプルをすすりながら、朝までに百枚もの原稿を書き上げたそうでございます。

 また、花登筐を語る上で欠かせないのが、この方の悪筆。つまり、字が汚いということで、当時はまだワープロがございませんから、手書き原稿を印刷業者が判別して台本に製本いたしますが、花登さんの字が判別できるのが、大阪で一人、東京で一人ということだったそうでございます。
 結局、その二人のいる製本所が花登さんの原稿製本の御用達になっていたそうでございます。

 そんな人気作家の花登筐が、昭和に幕開きしたテレビの裏側で、様々な経験の中で、テレビの本質をつかむまでのお話でございます。

 花登筐。生まれは昭和三年三月十二日、滋賀県大津で、近江商人の家系、花登家の次男、善之助として生を受ける。
 同志社大学で学生演劇にはまり過ぎ、そのために親から勘当まで迫られ、仕方なく船場の糸問屋の会社に勤めたのが昭和二十六年、二十三歳の時でございます。

 しかし、勤めて一年で肺結核を患い、即入院いたします。そこであてがわれたのがなんと一般病室でなく個室でございます。

「これは結構な待遇やんか。これやったら入院生活も楽しめそうや」

 呑気に構える花登でございますが、ある夜、トイレに行こうと廊下に出ると後ろから女性の声がする。
「次はあの人の番やのに、元気なもんや」

 振り返っても人がいない。不思議に思うが気にも留めずにいると、その翌日、隣の患者が亡くなり、その翌日は反対側の患者がいなくなった。そこでハタと気づいた。

「ここは結核四期の病棟やないか!」

 結核四期とは、つまり結核末期のことでございます。
 これに気づいた花登筐、恐ろしさのあまりベッドの上で布団をかぶりガタガタ震えております。だが、時間が経ち、落着いてくると妙に情けなくなってきた。

「こんな簡単に人間は死ぬんや。それなら自分のやりたいことをやるべきやった」

 病院のベッドで、後悔と救済を望む、入混じった思いが募って参ります。
 すると、アメリカの肺結核の新薬が日本にも入り、そのお陰でなんとか花登は退院を果たしたのでございます。

 さあ、九死に一生を得た花登筐。大阪ミナミの難波新地にある姉の家に転がり込むと、ラジオドラマの懸賞応募に没頭いたします。
 すると、その実力は直ぐに知れ渡り、大阪梅田に出来た、東宝系列の劇場「OSミュージックホール」の演出助手に誘われた。

 そう聞くと格好がよろしいが、当時の流行といえば、喜劇なんてものではなくて、実はヌードショーでございます。
 花登の仕事はといえば、その幕間のコントの脚本だった訳でございます。

 劇場の主力であるヌードショーや音楽ショーの演出について一言でも言おうものなら出演者から

「なら、あんたがやれば」

 そうチクリと言われる、まだまだ駆出しのひよっこでございます。
 そうなると、花登が一生懸命コントを書いても、出演のコメディアン達もなかなか台本通りに動かない訳でございます。

 業を煮やした花登筐、OSミュージックの酒井支配人に掛合った。

「もっと若くて安いコメディアンを探して、私が鍛えたいと思うのですが、どうでしょう支配人」
「まあ……、安く済むならいいだろう。だが、これだけは言っておくぞ、面白くなくてはならないからな」
「はい。分かってます。安くて面白いコントに仕上げますから」

 花登は、早速、自分のコントを演じてくれる芸人、コメディアンを大阪中を駆け回ってかき集めた。

 そこで集めたのが、俳優の付き人だった大村崑、ドサ廻りの漫才師だった芦屋雁之助と、その弟の芦屋小雁ら、後の人気・実力兼ね備えた俳優ばかりでございますが、当時はまだまだ全くの無名でございまして、花登筐は彼らと共に喜劇、コントの上演に乗り出したのございます。

 大村崑や芦谷雁之助兄弟ら、かき集めた芸人達を準専属として雇う様に劇場に掛合って、花登筐は精力的に喜劇、コントを上演して参ります。
 すると、OSミュージックのすぐ近くにある、梅田にある北野劇場でも上演の機会を得て、花登軍団はグングンと力を付けて参ります。

 さて、時は昭和三十一年。大阪では、毎日新聞や朝日放送らが出資する放送局「大阪テレビ放送」が開局し、いよいよテレビ時代の幕が開けようとしていた時代でございます。
 花登はNHK大阪の試験放送での台本なども経験し、テレビ台本を書ける作家として、大阪テレビ放送でもドラマの台本を頼まれておりました。

 場面は大きく変わりまして、ここは大阪天神橋の旅館「梅のや」。
 六畳間の客間に、雁首揃えたのは大阪テレビ放送の野添泰男ディレクターに、テレビカメラクルー二人、そして花登筐の四人でございます。

 野添ディレクターが、客間のテーブルにわら半紙を拡げると、そこにはスタジオの見取り図が書いてある。
 そして用意してあったのが、鉛筆に紐を括りつけ、その紐の逆側に消しゴムを付けた、妙ちくりんな仕掛け二つでございます。

 その鉛筆を動かし、顔を寄せあった四人の男がぶつぶつ言い続けている。
 実はこれは、スタジオでのカメラの動きの確認でございます。

 当時のテレビ局のスタジオというのは、非常に狭かった。その狭いスタジオに、場面々々のセットが建ててある訳でございます。
 そして、そのスタジオ内で、カメラはといえば、わずか二台しかない。

 しかも、そのカメラは電源コードでつながっておりますから、それぞれが勝手に動けば、たちどころに電源コードが交錯する訳でございます。
 そのカメラの電源コードの交錯を防ぐため、事前にカメラの動きを確認しなければならない。
 今回の旅館での合宿というのは、実はそのためでございます。

 先ほどの、鉛筆と、鉛筆に紐づけされた消しゴム、これが、カメラと電源コードを見立てたものでございます。
 スタジオの見取り図が書かれたわら半紙の上で、その鉛筆カメラを動かして、撮影全体の動きを確認しようという訳でございます。

 さあ、カメラに見立てた鉛筆の用意が出来ると、花登が台本を読みながら説明を始めると、野添ディレクターが疑問点をぶつけ合う、旅館のテーブルの上で、白熱のリハーサルが展開いたします。

「ここで、山田と芦川が喧嘩して、刺されると、次のセットで山田が死ぬ間際で、ベッドに横たわっている」
「いや、それやと、喧嘩の後だから山田が息を切らしてて、ベッドでゼーゼーいうんちゃうか?」
「そうか、それなら、次のシーンは、山田は死んだことにして、戒名の札と一輪の花を置いときますか」

 野添泰男ディレクターの鋭い指摘に、臨機応変で台本を修正する花登筐。
 こうして、二本の鉛筆カメラを動かしてドラマの動きを確認いたします。
 気づくと時間は夜中の十二時を回っていた。

「ちょっとトイレに行きますわ」

 そう言い、花登が廊下に出ていった。その瞬間、廊下でドタバタッと、音がする。
 部屋の三人がオヤっと思った瞬間、両の唐紙が左右に開くと、制服姿の警官たちが沸いて出た。そして、隊長格の男が声を上げた。

「曽根崎警察だ。大人しくしろ!」

 さあ、これを聞いた野添ディレクター、
「おもしれえ猪口才な」

 片膝立てて中腰から、ドスを掴んで立ち上がる。男一匹五尺の体……、なんてことはなく、「ひええっ」と、余りの驚きに三人は体が固まったまま。
 花登はと言えば、廊下で左右の警官に脇を締められ、身動き一つできずに呆然とただ見渡すのみでございます。

 さあ、種を明かせば、この旅館の仲居が、部屋の中から漏れ聞こえる「殺す」「刺される」といった言葉を聴き、あまりの怖さに警察に電話したという訳でございます。

 直ぐに到着した警察官も、先ずは職務質問を、と入ろうとした矢先に花登筐が廊下に出てきたので、慌てて捕らえて、一気に部屋になだれ込んだという訳でございます。

 警察から事情を聴き、すっかり落ち着いた野添ディレクター、花登筐と二人で警官に事情を説明いたします。
 懇々と半時ほど説明する二人に、じっと聞いていた巡査長。ようやく顔を上げると、
「よし分かった」

 そう声を上げた。
「解ってくれましたか」
「ああ、こうしよう。君たちが署に来て説明してくれ」

 全く解っていないんですな。
 しかし、これはしょうがありません。テレビ制作の打合せと言っても、テレビ自体がまだ珍しい時代ですから、その制作の裏側なんて誰も全く知らない。
 芝居とも、映画とも違う説明に、警官も雲を掴む様なものでございます。

 結局、夜中一時を回ってから、曽根崎警察まで出向き説明いたしますが、ここでも解ってもらえず、最後はテレビ局の編成局長を警察に呼び、ようやく無罪放免となった訳でございます。

 花登筐はこの一件で、世間一般のテレビに対する理解力、見識とはこの程度かと痛感いたした訳でございます。
 しかし、その花登筐も、テレビの恐ろしさを痛感することが待っているのでございます。


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