【昭和講談】吉田秀雄「放送電波に広告を載せろ!」 最終回(全三回)

 話を受けて紆余曲折、苦節重ねて六年余り、とうとう吉田秀雄は商業放送「ラジオ東京」の設立まで辿り着きました。
 東京地区でラジオ認可が下りたのは、この「ラジオ東京」と「文化放送」の二局でございます。

 日本で初めてとなる商業放送。東京地区の放送開始は昭和二十六年の十二月二十五日と決まり、その前日には大々的な音楽イベントの開催も決定し、いよいよラジオ放送への期待が高まって参ります。
 しかし、ラジオ放送のふた月前の十月、電通の会議室では張詰めた空気が流れておりました。

「この馬鹿野郎!」

 会議室に鳴り響く吉田社長の罵声。ラジオ事業部、中野淳史本部長以下事業部の面々は小さく縮こまり、静まり返っております。
「いいか、君たちは新しい広告媒体を作るんだぞ。もっと収入を作り出すんだ! このニュースもそうだ、ニュースを買うんじゃない。提供番組にするんだ」

 朝、昼、晩と流れるニュース。ラジオ会社は記者を持ちませんからニュース原稿を新聞社から購入すると説明した訳でございます。
 一見尤もな意見に見えますが、吉田秀雄はこれに嚙みついた。
「ラジオのニュースで、新聞に載る前に各社の速報が読み上げられ、繰り返し新聞社の名前が呼ばれるんだ。これを新聞社の宣伝広告と呼ばずして何とするんだ。新聞社提供によるニュースにすれば、その枠は売れるはずだ!」

 吉田にとって、放送は「時間売り」と考ええておりましたから、放送の一分一秒が「広告枠」であり、広告出稿が可能である、という思いでございます。

 ちなみに、日本で最初に民間放送を流したのが愛知地区の中部日本放送と言われておりまして、東京より三か月ほど早い同年九月一日でございます。
 その時のCM第一号、それが、朝の七時に流した、
「精工舎の時計が只今七時をお知らせしました」

 これは服部時計店、今のセイコーの提供で、朝七時に流れた時報でございます。
 この提供も、吉田のアドバイスがあったとも言われております。


 さて、提供番組会議と並行し、商業放送の要とも言える、広告料の算出も併せて進んでおりました。
 この「広告料」、放送では「電波料」と呼び、この「電波料」がラジオ局の儲けとなる訳でございます。
 つまり、ラジオ放送に広告を出す場合は、この「電波料」に加え、CMや番組の制作費、さらには広告代理店の代理店手数料が必要でございまして、まあ、ラジオの宣伝広告費は結構かかる訳でございます。

 ラジオ局の儲けとなる広告料、ではなく「電波料」は、一体幾ら位が妥当なのか。吉田秀雄はここでも会議室で力説いたします。

「ラジオ経営にひと月最低一千五百万必要として、ひと月三十日とすれば、一日で大体五十万が必要だ。一日七時間分を販売するなら、七時間で四二〇分で、この四二〇分を五十万で割れば、ざっと一分千円とちょっと位だ。つまり、十五分番組なら一万五千円ほどだ」

そう概算を出し、皆が納得した顔を見せたところで吉田は畳みかける。
「だが、昨今のインフレを見たまえ。価格は益々上がるだろう。そこで、私としては一分四千、十五分六万円、三〇分十二万円が妥当でないかと思う。どうだ」

 気炎万丈、一人気を吐く吉田社長の案に反論する幹部連中はおりません。それはもちろん社長が怖いから。しかし、内心は裏腹です。
「最初の案から四倍では……、それは流石に強欲すぎではないか……」

 吉田案を受け、事業部はさらに議論を重ね、木枯らしが街を抜ける十二月、ようやく「ラジオ東京」として「広告放送料金表」を提示いたします。
 果たして電波料は幾らか。代理店を始め、広告を希望する各企業の注目が集まると、そこには「十五分三万六千円、三〇分七万二千円」という金額でございます。
 なんと、その金額は、吉田秀雄が提案した三〇分十二万円から四割ほど引いた価格設定でございます。

 これは、まだまだ得体の知れないラジオ広告の販売ということで、営業部がもう少し売り易い金額をと、吉田秀雄に泣きついた結果で、吉田は不服ながらもこの金額を了承したという訳でございます。


 さあ、いよいよ十二月二十五日、民間ラジオ放送の初日でございます。
朝日が昇って六時半、東京地区ではラジオのスピーカーから声が流れる。

「ラジオをお聞きの皆様お早うございます」

 朗々としたアナウンスから軽妙なお喋りで引き付け、耳に優しい合唱へ、出だしから爽やかにに放送は流れていく。
 流行り歌から民謡演歌と心浮かせる歌番組。講談落語漫才と聴いて楽しい演芸番組。思わず聞き入るドラマやニュース。実のある言葉に頷き、笑うトーク番組。ラジオから聞こえる彩り豊かな番組が夜の九時まで、東京都民の耳を喜ばせたのでございます。

 民放ラジオ大盛況! 電通社内では広告問合せの電話が引きも切らずに掛かって参ります。
 吉田秀雄はこの騒動を傍目に観てため息をつく。
「だから言わぬことではない。営業の弱腰に押されてしまってこの様だ。安い料金に妥協して悔いを残すことになったではないか」

 その三か月後、電波料の見直しがありまして、改定後は、吉田が提案したあの高い料金へと割増しになったということでございます。

 強引ながら合理的思考で商業放送を牽引した吉田秀雄はその後、東京のみならず、大阪、愛知、福岡他、全国のラジオ会社の黒字化に尽力したということでございます。

 時代を観る眼と、それを実現させる情熱で「広告の鬼」と呼ばれた吉田秀雄。この男の執念が、放送電波で広告料を集めるシステムを作り上げた訳でございます。

 さて、その吉田は、今度はテレビ放送のレール作りにも、全身全霊で取り組んで参ります。そのお話でございますが……、と、ここで時間となりました。
 電通四代目社長・吉田秀雄の物語。ここまで、お付き合い頂き、まことにありがとうございました。


                               完

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