【昭和講談】幕間の思索⑦ 「歌詞の講談仕立て」、やってみた

 いよいよ登場しました、講談師・錦秋亭渓鯉師匠。
 これからの昭和講談は、この「錦秋亭渓鯉」が語る、という設定となります。
 さらに、助演として登場した「タケ田タケノコ」。これは実在です。私ですから。ただ、細かい設定で変えているところもあります。

 こうしたフィクションと実在が入り混じる設定で書いてみたいとは思っていました。しかも、実在が自分なので、どう書こうが「タケ田タケノコ」さんから文句が来ることはありません。これはとても便利です。お陰でとても書き易かったりします。

 ただ、フィクションである錦秋亭渓鯉さんは、「高座前の掛合」が公開されていることは知りませんから、自由勝手にしゃべります。
 時には個人名を出して批判することも。それを制止するタケ田タケノコ、なんていう場面も出していきたいと思っています。(本人がやりたいだけなのですが…)

 錦秋亭渓鯉を年配にしたのは、年配の方の「自由な発言」を期待してのことです。
 なぜか解りませんが、お歳を召されると、なんか迷惑なくらい自由に喋ったりする様になってきます。
「おばあちゃーん、棚のおはぎ知らない?」
「おはぎ?」
「そうおはぎ」
「わたしゃおはぎよりも羊羹の方が好きだけどね」

 ……いや、それは聞いてないから、ってなったりする。
 年配の方がいとも簡単に論点をずらすのを見ると、「本当に自由だな~」って思います。
 そんな自由さを錦秋亭渓鯉で出せたらなぁ、と思っている次第です。
(そして、それに振り回されるタケ田タケノコ、という感じです)


 さて、実在とフィクション、史実と嘘が交錯するのが「講談」という芸能です。(浪曲もそうですが…)

 今回、その講談で実験をしてみたいと思います。曲の歌詞を講談仕立てにしてみるのです。
 話題曲を講談にしてみたらどんな感じになるのか、という実験です。

 取り上げたのは、YOASOBIさんの「夜を駆ける」です。
 もちろんオリジナル曲に敬意を払いつつ、前半部(1番)を講談っぽく仕立ててみました。どんな感じになるか、一度ご覧頂ければと思います。
(文頭に入る「パン」というのは張扇の音だと思って下さい)


〇講談仕立て「夜に駆ける(YOASOBI)」

(パン)沈むように、溶けていくように 二人だけの空に広がる夜。
    彼女が口にした「さよなら」の一言。この一言で、
    彼女の思い、その全て、わかってしまった恋心。

(パン)彼女を最初に見かけたは、通りの向こう、フェンス越し、
    沈みだした空に照らされる、静かにたたずむ彼女の姿。
   その瞬間、心の全てが奪われた。目をそらすことなど不可能だった。
    だが、どこか儚い空気を纏い、彼女は、寂しい瞳を潤ませていた。

(パンパン)時計に追われるせわしない日々、
    心ない言葉、うるさい声に、何度も何度もさらされた彼女。
    瞼に溜まる玉の涙が、今まさにこぼれるかという時もあった。

(パン)だがしかし、いつかきっと、必ずきっと、
    ありきたりな喜びだとしても、
    二人ならきっと見つけられると心に誓う。

(パンパパンパン)騒がしい日々の中、笑えなくなった君、
    思いつく限りの眩しい明日を願い止まない。
    明けない夜の、その闇に、落ちていく前に、
    「ほら、掴んで」と手を差し伸べる。

(パンパン)心の奥のその奥に、閉じ込め、しまった忘れたい日々、
    そんな昨日も、抱きしめた温もりで今溶かそう。
    立ちすくむ彼女を見澄まし、「怖くないよ」と手を差し出す。
   「いつか日が昇るまで、二人でいよう」、そう、そっとささやいた。


《自前解説》
 講談と曲の歌詞の一番の違いは、叙事と叙情だと思います。
叙情:感情を述べ表現すること
叙事:事実を述べ表すこと

 「夜に駆ける」で、叙事といえば、冒頭の「夜」の表現、「沈みだした空」「フェンス越し」、そして、主演の「君」の様子、となります。
 「僕」と「君」の関係や、「君」の置かれた立場や諸事情は明かされていません(それが逆にイメージを拡げてくれます)。事実と心情、感情のバランス、そしてイメージの掻き立て方が絶妙で舌を巻きっぱなしになります。

 ただ、講談にするには、叙事を書き込んでいく必要があります。
 なぜ必要かと言えば、聴いている人がイメージを確立できなくなってしまうからです。
 ぼやけた部分があると、そこに気を取られて話が分からなくなる恐れもあります。

 大衆芸能の話芸全般に言えると思いますが、粗筋自体はシンプルだったりします。
 それをあれやこれやと情景や様子を述べてデコレートしていきます。その描写の口述が心地よかったりします。

 曲の歌詞を講談仕立てにする時は、がっしりと築かれた叙情に、どれだけ叙事をちりばめるか、というのがポイントになるのではないかと感じました。

 先ほどの「講談仕立て『夜に駆ける』」の後半部分は圧倒的に叙情です。
 それでいいのかどうか、正直分かりません。
 結局は「講談師の声の力」に頼ってしまう、それが私の今の限界です。

 逆に言えば、声が良ければどんな駄文も講談っぽく聴こえるのではないかと、至極、当たり前の結論に至ります。


 さてさて、歌詞の講談化をしてみて、一番の感想は、やはり、「音楽の力」の強さです。「夜に駆ける」では、曲と言葉が同時に始まり、曲で心が高まり、歌詞が心地よく響いてくる。音楽と言葉の相乗効果。人気が出るのも頷けます。

 ただ、講談では、聴衆を引き付けるものは声だけです。そう考えると改めて講談師の方の声の力に敬服してしまいます。
 と同時に、講談師の方が語りたくなる様な講談を書けたらなぁと思う次第です。

 次週は、「高座前の掛合」でございます。果たして、どんなお喋りとなりますか、どうぞ読んで下されば幸いに存じます。


追記:YOASOBIさんの「夜に駆ける」は、「星野舞夜 の小説『 タナトスの誘惑 』を原作として作詞・作曲された」(夜に駆ける Wikipediaより)なんですね。
と言うことは、小説を読めば、二人の背景も解るのですね。では、順序としては小説を講談にするべきでしょう。
全く恥ずかしいことをしてしまいました。無知で申し訳ございません。
ただ、別の曲で書き直す時間がなかったので、このまま掲載いたしました。


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