【昭和講談】人生幸朗「ボヤいてナンボじゃ!」 第二回(全三回)

 酒場での一件で、自分流のボヤキ漫才を掴んだ都家文蔵。
 舞台の人気も、少しずつ高まって参りますが、ひとたび舞台を降りますと、嫁で相方の田鶴子とは別々の家に帰るという有様でございます。

 そんな折、文蔵は師匠の都家文雄に呼ばれます。
 入門当時に頭を下げた師匠宅の六畳間、文蔵が唐紙開けると、そこには都家文雄が苦い顔をして待っていた。

「文蔵、ちょっとここ座り。お前、漫才も人気出て来たし、どうや、ここで都家文蔵の名前を返して、独り立ちせえへんか?」
「な、何言うてるんですか師匠!」
「やかましいわい! 舞台裏や楽屋でお前の悪い噂も聴いとるし、ワシの悪口も言うてるそうやないか。ごちゃごちゃゴネんと名前を返上しいや!」

 文蔵にとっては全く身に覚えのない師匠からの難癖でございます。
 しかしこれは、田鶴子との仲を怪しまれたことで文蔵を遠ざけようとした都家文雄の策略でございます。
 が、しかし、そんな魂胆、文蔵はとうに見抜いている。

「何が悪口か。入門時に色恋はならんと言っときながら、師匠が弟子の嫁に手を出しといて、よう言うわ」

 内心でそう思っても口には出せない文蔵、煮え繰り返るはらわたをぐっとこらえ、師匠に貰った都家文蔵を返上し、さらに、田鶴子との仲も解消してしまいます。

 悔しさ、無念で張り裂けそうになる胸を堪えて、一人になった文蔵は、間借りしている三畳間で一晩中考えた。

「くそっ。あの戦争で、死にそうな目におうても、それでも、生き延びたのに、なんでこんなことになるねん。もう嫌なことは全部水に流して、新しい人生へ船出したいわ」

 思わず知らず口に出た「人生の船出」のその一言。そうか、これや! と「人生という大海への新しい船出」、という意味で、新しい芸名を「人生航路」と名付けたのでございます。

 そういう訳でございまして、最初の名前は、幸せの「幸朗」ではなく、船の路の「航路」を使っていた訳でございます。
 ただ、芸人人生、紆余曲折ございましたが、絶望の淵から這い上がり、ここでようやく、屋号の「人生」が付いた訳でございます。


 さて、ここで話は横道にそれますが、人生幸朗さん、都家文雄師匠と師弟関係を断ちまして、絶縁状態となる訳でございますが、その後、一度も師匠を訪ねることがなかったということでございます。
 しかし、昭和四六年四月、都家文雄の危篤の際、人生幸朗は真っ先に病院に駆け付け、葬式では列席に並び、参列者に頭を下げていたと申します。
 浮世の恨み辛みも寂滅為楽の前には流してしまう。これも、人生幸朗という人間の一面でございましょう。


 さて、数々の仕打ちを乗り越えて、心機一転、新しい名前となった人生航路の船出でございますが、その手始めは新たな相方探しでございます。

昭和二九年四月のことでございます。芸人仲間から連絡があった。
「文蔵はん、いや、人生さんやったな。あのな、夫婦漫才しとった庭野千草ちゅう女が、旦那に先立たれたとかで相方探してましたで」
「ほんまでっか。そらおおきに!」

 早速、その庭野千草と連絡を取り、ちょっと打合せをして舞台に立った。 
 この庭野千草こそ、最後の女房で最後の相方となる、生恵幸子でございます。

 二人の初舞台は何とか終わりますが、人生航路は、それはそれは渋い顔でございます。
「何ちゅう下手なツッコミや。これは使えんで」

 実はこの庭野千草、元の相方は、夫で、北斗七星という名前のアコーディオン引きでございまして、その漫才スタイルは伝説的夫婦コンビ、ワカナ・一郎でございます。
 ワカナ・一郎の漫才というのは、女房のワカナが旦那一郎をやり込める漫才でございますから、人生航路のボヤキ漫才のスタイルとは全くの正反対、上手くいくはずはございません。
 そして、当の庭野千草も随分と気の強い女性だった。

 しかし、人生航路、折角の相方で、しかも随分と遠ざかっている女性となれば、これを手放してはならんと、粘り強く舞台をこなして参ります。

 その間も、何度か庭野千草にちょっかいを出しては、気の強い千草にひじ鉄砲を喰らう、そんな繰り返しでございます。

 そして、舞台をこなして三か月。とうとう二人は結ばれた。
「人生兄さん、うちは娘がおって、今は母の所におるけど、毎月三千円の仕送りをしたいんやけど、守ってくれるか」
「ふん!」
「いずれは娘を迎えて一緒に暮らすのも約束してくれるか」
「ふん」

 ふんふんばかりでございますが、人生航路は早く結ばれたくて気が先走ってばかりでございます。
 そして、目出度く結ばれた二人。そういえばと、千草が一つ聞いた。
「兄さん、あんた幾つです?」
「四十六」
「なんや十六も上やないの!」

 そんな早とちりもあったが、人生航路と庭野千草は、無事コンビとなった訳でございますが、二人の漫才は嚙み合わず、仕事は一向に上向く気配がない。

 余興で演じる漫才ぐらいでは、月に千幾らの金にしかならず、食うや食わず、赤貧洗うがごとしの貧乏暮らし。
 舞台衣装も質に出し、仕事の時に金を工面し、質屋から衣装を買取るという、そんな日々でございます。

 さらに、ご近所に金の無心を何遍も繰り返すと、当然、ご近所も冷たくなって参ります。
 近所の奥さんに会い、
「あら奥さんこんにちは」

 千草が挨拶しても、向こうは顔を背けて気付かぬふり。こんな有様でございます。

 そんな生活が一年続いた昭和三十年五月の四日、人生航路の父が亡くなった。
 家族はと言えば、息子の人生航路一人、何とか金をかき集め、三万円ほどで何とか葬式の都合は付けたが、間の悪いことに、その通夜に余興の仕事が入っていた。

 明治生まれの人生航路、仕事とあれば何をおいても行かねばならぬと、結局、喪主が仕事でいないという前代未聞の通夜となったが、無事、漫才の方は穴を空けずに済んだのでございます。

 すると翌日、余興を依頼した、演芸場「戎橋松竹」の藤本頭取が香典を持って慌てて式に駆け付けた。
「人生さん、御父上がご逝去されたのなら、そう仰って下されば……」
「いや、芸人は親の死に目に会えんとも言いますし、お気遣いは無用です」

 この人生航路の仕事に対する態度が、藤本頭取の心を動かした。
「人生さん、うちの戎橋松竹に出て下さい」

 戎橋松竹。昭和二十二年、終戦の混乱期に、今の近鉄難波駅の地に、松竹株式会社が建てた、当時、大阪で知らぬ者はないと言われた大演芸場でございます。
 その戎橋松竹の舞台に立てる。ようやく二人に光が差した瞬間でございます。

 月に十日の舞台出演で、一回の出演料が千二百円、月に直せば一万二千円。
 この藤本頭取の申し出に、人生航路、庭野千草、葬式も終わらぬ中、二人して抱き着いて喜んだ。

 さあ、戎橋松竹の舞台当日。劇場には看板が掲げられ、そこには二人の名前が、墨痕鮮やかに、「ボヤキ漫才 人生幸朗・生恵幸子」と書いてある。
 そこでの人生幸朗は、幸せ、朗らかの「幸朗」でございまして、そして、庭野千草には、生きるに恵の「生恵」、名前には、幸せの子で「幸子」、「生恵幸子」と書いてある。

 ただただ自分の名前をぽかんとして見つめている庭野千草。それに気づいた人生幸朗。
「生恵幸子、これはワシが考えた名前や。主人に先立たれた女が生まれ変わって幸せに生きていくという意味や」

 旦那の説明を、身じろぎもせずじっと聞く生恵幸子。目には光るものがあり、それが一筋、頬を伝っております。
「そして、この幸朗は、ワシも幸せになって朗らかに生きていこうと思て、つけたんや」

 願いを込めて、幸せで朗らかという「幸朗」に名前変えた人生幸朗。
 ここに、ボヤキ漫才の「人生幸朗・生恵幸子」が誕生した瞬間でございます。

 期待に胸膨らませ、戎橋松竹での漫才の日々が始まるも、しかし、現実は厳しいもので、それが、出演の順番でございます。

 芸人が何組も出演する劇場では、一番最後の出演は大トリと呼ばれ、劇場の顔でございます。
 この当時は、東五九童・蝶子や中田ダイマル・ラケット、若手ではミスハワイ・暁伸、タイヘイトリオといった、お客を呼び込める人気漫才師が、この「大トリ」務めております。

 大トリの前の出番を「モタレ」と呼びますが、人生幸朗はと言えば、その「モタレ」にも届かない、前から二番目、三番目ほど。

 芸歴は長くとも、この出演順は実力世界でございまして、この出演順が、ギャラや待遇はもちろん、楽屋の座る位置にも表れます。

 生恵幸子との漫才がまだ確立できない人生幸朗は、自分よりも遥かに若い漫才師たちの前に出演せざる得なかったのでございます。
 若い漫才師の後塵を拝する、この屈辱。これに人生幸朗、顔を真っ赤に生恵幸子に言い放つ、

「あんな、芸も腕もない若い奴らのおる楽屋なんぞ使えるか。漫才終わったらぐずぐずせんと早よ帰るで」

 そう言って、戎橋松竹の楽屋を断固使わず、舞台衣装で家から通い、漫才が終われば、そのまま帰ったということでございます。
 漫才の腕では決して負けておらん、そう言わんばかりの、明治の男の、反骨の精神でございます。


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