【昭和講談】砂川捨丸「『芸尽くし』で漫才を切り拓く」 第一回(全三回)

 鴨長明「方丈記」に「よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しく止まりたるためしなし」とありますが、昭和の六十四年間もまた、時代という大きな荒波にさらわれた年代でございました。

 その昭和時代の大きな荒波で、大きく変化した芸能に「漫才」がございます。
 明治大正の勃興期を経て、昭和の初めに「しゃべくり漫才」が形作られました。その後の発展はもう皆さまご存じ通りです。

 この漫才、もとを辿れば、河内音頭や江州音頭、それに祭文語りといった芸能から始まったと言われています。
 そして、民謡、端唄小唄、舞・踊り、歌舞伎芝居の真似事など、あらゆる芸能を取り込み磨かれ熟していったということであります。
 そんな諸芸裏芸お家芸を取込んだ漫才を「芸尽くし漫才」と呼んだ訳です。今ではもう観ることが少なくなりましたが、昭和にはそんな漫才が確かにございました。

 そんな「芸尽くし漫才」で日本中に笑いを届けた漫才師がいました。それが今回の演題、漫才の神様と呼ばれた砂川捨丸でございます。

 漫才師、砂川捨丸。明治二十三年生まれ。
 舞台姿は紋付き袴で、ちょび髭顔と手に持つ鼓がトレードマーク。
 相方は何人かいるが、長かったのは中村春代。大きな体躯の春代と小柄な捨丸、このコンビが舞台狭しと「芸尽くし漫才」で、客席を沸かしていた訳でございます。

 この捨丸の「持ち芸は」と言えば、これが多い。先ほど挙げた河内音頭や江州音頭はもちろん、浄瑠璃語りに歌舞伎芝居、諸国各国の民謡に、長唄・端唄・小唄・俗曲はもちろん、新内、都都逸、軍歌に浪曲。
 他にもチョボクレ、阿呆鱈経と、今ではほとんど消えてしまった芸能も含めればその数は百とも千とも言われております。

 その芸を本筋真っすぐに演じたと思えば、滑稽に崩したり、芸と芸の間に掛け合いを入れたりと、その漫才はまさに縦横無尽、自由自在。

 芸だけでなく、掛け合いや言葉遊びもこれまた豊富。唄を使った唄並びや替え歌、数え歌、「何々と掛けて何と解く」で有名な謎かけ、各種問答など言葉遊びも多種多様。

 都都逸の滑稽な文句を出すならば、
「可哀そうだよズボンのおなら、右と左に泣き別れ」
「私の心はトタンの屋根よ、変わら(瓦)ないのをみておくれ」
 という具合。

 そんな漫才の神様・砂川捨丸も売出し当時から順風満帆という訳ではなかったのであります。

 時は明治四十一年、当時捨丸十九歳、大阪西にある千代崎橋を渡った先に広がる松島、歓楽街のしがないよしず小屋で捨丸は漫才をしておりました。
 しかし、女目当ての遊冶郎ばかりを相手にした当時の漫才、とても万民受けするものではございません。卑猥さ猥雑さは目に余り、新興の芸能ゆえの格の低さで木戸銭も高くできないという有様。
 小屋がはけると捨丸は、裏口隅で背中丸めて湧き出す憤懣抑えられない。

「兄やんに習って十歳で舞台を踏んだはいいが、こんなままでは大手を振って漫才師と名乗ることもでけん。もういっそ音頭取りに戻るか」

 そんな逡巡の日々の中、捨丸は悩みを吹き飛ばす衝撃の舞台と出会います。
 それが、当時売り出した浪花節の桃中軒雲右衛門。まだまだ草昧だった浪花節の人気に火をつけた浪曲の立役者、その人です。
 東京で一旗揚げた雲右衛門はその後全国を巡業、松島の高級寄席「八千代座」にやってきた。もちろん八千代座は大入り満員。入り切れない客がその節回しを一声聴こうと小屋を取り巻き、耳をそばだてたというほど。

 さあ捨丸は居ても立ってもいられない。
 芸人仲間の伝手で八千代座に潜り込むと、舞台に上がる桃中軒雲衛門を目の当たりにして、捨丸は目を見開きます。
 舞台には堂々たる金の屏風が取り廻され、演台には名前入りのテーブル掛け。演台を前にそびえ立つ雲右衛門は羽織袴に散切り頭。
 一節唸るその声は抜群のキレと轟音響く音量で聴衆を圧倒した。

 これに影響された捨丸は早速紋付き袴に着替え、鼓を持つとさらにちょび髭まで付けて漫才の舞台に立つ。それを見たお客も度肝を抜かれた。
「おい捨丸、捨よ。何じゃその袴姿は」
「そう思うなら雲右衛門を観てみい。羽織袴で武士道鼓吹すりゃ、八千代座が一杯になるやないか」
「そやけど髭はどっからくんねん」
「これか、これは……チャップリンや!」

 捨丸のトレードマークがここで決まった訳でございます。
恰好だけでなく萬歳のネタも刷新し、芸と言葉で勝負をかけた砂川捨丸。看板には「高級萬歳」と掲げます。
 捨丸はとうとう漫才に変革をもたらしたのでございました。

 「高級萬歳」を掲げ四年が過ぎた明治四十五年、この捨丸の漫才に目を付けたのが興業主の三野源太郎。
「捨丸はん。あんた、神戸新開地で漫才する気ないか? 神戸で初めての漫才小屋や。漫才の上演は警察の検閲で合格せなあかんけど、どうや?」
「そらおもろい。警察の検閲も任しとき。ワシのは卑猥、尾籠のない高級漫才や」

 明治四十五年六月十日。神戸の新開地「日の出座」には漫才の他、河内音頭や二輪加芝居に三味線引き、剣舞を演じる剣舞師など総勢二十人の一座が、警察の検閲という名の手見せを受ける。砂川捨丸一世一代の漫才舞台。
 これが大受けに受けて無事、上演の許可が下りた。

 砂川捨丸二十三歳。「高級萬歳」掲げ、神戸を拠点に全国へと売出すことになりました。

                            第二回へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?